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特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」に寄せて

辛亥革命の映像と長崎 その2

さて、前回に引き続き明治44(1911)年11月28日付け東洋日の出新聞の記事について見てみます。

●誰が撮影した映像か?

 明治44(1911)年11月26日から30日まで、長崎・満知多座で上映された辛亥革命の様子を撮影したフィルムについて、同じく、11月25日の東洋日の出新聞では、「東京エムパテー本社」が6人の撮影隊を特派して撮影したものであること、数日前に東京本社にそのフィルムが到着して、すぐに長崎に回送して満知多座で上映することになったことなどが報道されています。

 続けて、その記事では「地方に於て清国革命動乱の実況を映写するは之れを以て嚆矢とす」とあります。27日の記事を見ても、このフィルムは、梅屋庄吉が派遣した萩屋堅蔵らが撮影したフィルムを原版とするものだったことは間違いありません。
 
のちに、武昌蜂起の現場にいなかった孫文に梅屋が上映して見せたというフィルムと同じ素材の映像だったということです。武昌蜂起が始まるのが10月10日ですから、その1ヶ月半後には長崎でフィルムの上映が行われたということであり、連日新聞で報道された内容を映像で見せるという、まさに新鮮なニュース映像という性格もあったことがわかります。
 
さらに、地方での上映は長崎が最初であったという記事から推測すると、その実写映像は、東京でも上映されており、順次、他の地方でも上映されていったことでしょう。地方での上映の最初の地に長崎を選んだということは、梅屋が故郷を思ってのことであると同時に、長崎には中国へ帰国する多くの中国人留学生が集まって来ていたことと無関係ではなかったでしょう。
 
●どこで撮影されたものか?

 また、この26日の記事のなかに、上映内容を記した部分があります。
「革命軍の写真は上海県城の城門、浦東戎克の輻輳、江岸通の雑踏などから始まって、江南機器局門前(Mパテーのフィルムともありながら、港南機器局と呼出に書いてあるには驚く)になると白布を左腕に纏った革命軍の兵士が右往左往するの間を弥次の外人男女が徘徊するのが映る」

さらに上映が続いたかどうかはわかりませんが、内容は上海での様子です。この日(11月26日)まで、Mパテーの撮影技師・萩屋堅蔵は、まだ武漢にいたことから、満知多座で上映された映像はおもに上海で撮影されたものだったと思われます。萩屋は、上海上陸後、11月7日から26日まで武漢を拠点に撮影しています。自分自身が帰国する前に、撮影したフィルムの一部を東京のMパテーに送っていたことになります。

●東洋日の出新聞とMパテー商会 
東洋日の出新聞の記者が字幕の字の間違いを「Mパテーのフィルムともありながら」と記した背景には、孫文たちの革命運動をMパテー商会が日頃から支援しているにもかかわらず、こんな簡単なミスをするなんてけしからんというニュアンスが見て取れます。この一文に、孫文を支援した東洋日の出新聞とMパテー商会の親密な関係がにじみ出ているようです。鈴木天眼を社主とする東洋日の出新聞社は、武昌蜂起が始まってわずか10日後には、記者の西郷四郎をわざわざ上海へ特派員として派遣しています。

ちなみに、東洋日の出新聞の各劇場の上映・上演目を紹介する「演芸だより」を見ると、吉沢商会(活動写真の配給会社、のちMパテー商会ほか3社と合同して日活創立に加わる)でも革命動乱に撮影隊を派遣しており、長崎での常設館である喜楽館で、その実写活動写真が前日11月25日から上映されています。そこも大入り拍手喝采であったという記事を書きますが、常に「演芸だより」のトップは満知多座の記事でした。
 Mパテー商会の萩屋堅蔵が撮影した辛亥革命の貴重な映像は、特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」で上映されています。


<参考文献> 長井暁「梅屋庄吉と映像史料〜辛亥革命の記録フィルムを中心に〜」
【長崎県文化振興課 山口保彦】


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