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長崎と坂本龍馬と船

その5 長崎に拠点を置いていた藩はどのくらいあったのか(1)

長崎を活動拠点の1つとしていた坂本龍馬。その龍馬らの亀山社中や海援隊が関係した3つの事件。これまで本コラムでは、ワイルウェフ号事件、いろは丸事件について述べてきました。今回はイカルス号事件を取り上げます。イカルス号事件は、慶応3年(1867)7月6日夜、長崎でイギリス軍艦イカルス号の水兵が殺害され、海援隊や土佐藩に嫌疑がかけられた事件です。
 
この事件については、江戸幕府の外交文書を明治政府が編纂した『続通信全覧』巻34に収録されている「英軍艦水夫両人長崎ニ於テ遭害一件」という膨大な記録が残されています(通信全覧編集委員会編、1987年、雄松堂出版)。これを見ると、いかに長崎奉行所がこの事件を徹底的に調査したかが分かります。もちろんこれにはイギリス側の圧力もあったと思われます。今回のコラムでは、この記録に記された内容をもとに述べてみます。
 
長崎奉行所はこの事件の捜査の一環として、慶応3年8月26日、長崎に拠点を置く諸藩に対して、事件当日の7月6日夕方から翌7日明け方までの、長崎に滞在している藩士の動向や滞在先などを報告するよう命じています。これに対して各藩から回答がありました。表1はこのとき回答した藩とその署名者を『続通信全覧』掲載順にまとめたものです。 
表1 長崎奉行所による藩士動向調査へ回答した藩とその署名者

これを見ると、合計48の藩(富江五島家領・日田郡代(西国筋郡代)を含む)が回答していることが分かります。つまり慶応3年8月の時点で、長崎には48の藩が拠点を置いていたということになります。その内、表1の藩名に●印をつけた12藩は長崎に蔵屋敷(藩邸)を置いていた藩で、各藩から派遣された聞役と呼ばれる藩士(武士)が駐在していました。それ以外の36藩は長崎に蔵屋敷を持たない藩で、長崎の商人(町人)を用達とし、その屋敷などを拠点としていました。拠点といっても蔵屋敷を置いていた藩と、用達の屋敷などを拠点としていた藩があったわけです。なお、各藩の藩士の動向を掌握し、長崎奉行所へ回答しているのが、蔵屋敷を置いていた藩は各藩士(聞役)であり、それ以外の藩は用達でした。武士である聞役と長崎町人である用達が同じような役割を担っていたことはたいへん興味深い事実です。(つづく)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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