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長崎と坂本龍馬と船

その6 長崎に拠点を置いていた藩はどのくらいあったのか(2)

イギリス軍艦イカルス号の水兵が殺害され、海援隊や土佐藩に嫌疑がかけられたイカルス号事件。今回も、前回同様『続通信全覧』巻34に収録されている「英軍艦水夫両人長崎ニ於テ遭害一件」をもとに考えていきましょう。前回は長崎奉行所のイカルス号事件に関する調査に対して、各藩から回答のあった藩士の動向調査をもとに 長崎に拠点を置いていた藩の数を見ました。今回は、長崎に拠点を置いていた諸藩の分布を見てみましょう。 
図1 長崎に拠点を置いていた九州内の諸藩
 
まず図1の九州内を見ると、29藩と富江五島家領・日田郡代(西国筋郡代)あわせて31となり、九州内のほとんどの藩が長崎に拠点を置いていることが分かります。ただし、長崎に蔵屋敷を置いていた14藩の内の1つである小倉藩からの回答が『続通信全覧』には収録されていません。長崎奉行所は滞在している藩士がいなくても回答するよう求めていますので、なぜ小倉藩からの回答がないのか分かりません。ちなみに藩士の動向調査があった8月26日に小倉藩から長崎奉行所に対して、購入した武器を受け取った旨の届けが出ています(「諸家買入物伺御附札 慶応3年」長崎歴史文化博物館蔵)ので、この時期、蔵屋敷が機能していたことは間違いありません。
図2 長崎に拠点を置いていた九州外の諸藩
次に図2を見ると、九州外の17藩が長崎に拠点を置いています。西日本の藩が中心ですが、遠く松前藩や会津藩なども拠点を置き、藩士を派遣していることが分かります。なお、九州外で唯一長崎に蔵屋敷を置いていた長州藩ですが、第一次長州征討にともない、元治元年(1864)8月、幕府に蔵屋敷を没収され、長崎における拠点を失っていたため、今回の取り調べの対象外でした。ちなみに長州藩が再び長崎に蔵屋敷を置くことができたのは、明治元年(1868)になってからです(拙稿「明治元年の長州藩屋敷」『長崎新聞』平成22年12月26日付)。また、イカルス号事件で嫌疑がかけられた土佐藩は土佐商会を長崎に設けるなど拠点を置いていましたが、別途取り調べがおこなわれていたため、他藩と同じような回答はありませんでした。
 
以上見てきたように、慶応3年8月の時点で長崎には48藩(小倉藩・土佐藩を加えると50藩)が拠点を置いていたことが分かりました。江戸時代はしばしば三百諸侯と称され、全国に300の藩があったといわれます。その6分の1の藩が長崎に拠点を置いていたわけで、モノと情報が集まる幕末長崎に全国から多くの武士が集まり、さまざまな活動をしていたのです。(つづく)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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