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秋ノ浦焼

その6 秋ノ浦焼の大皿か(2)

 

  
(図1)色絵船遊図大皿 19世紀後半     (図2)同 裏面
    口径
58.5cm 底径34.5cm 
    川内利昭氏蔵


 田代紋左衛門は、安政4年(1857)に久富与次兵衛からオランダ貿易の一枚鑑札を継承し、万延元年(1860)には英国貿易の権利も取得して貿易商としての地歩を固めます。田代屋として長崎や横浜に支店を設け、慶応3年(1867)には上海へも進出しました。

 この紋左衛門のトレードマークである「肥碟山信甫造」と秋ノ浦焼の「秋浦」が同時に書かれているということは、素地を秋ノ浦窯で焼いて有田で絵付をしたのか、逆に有田で焼いて秋ノ浦窯で絵付したのか、あるいは素地から絵付まで全て有田でおこなったのかなど、いろいろな可能性が考えられます。しかし、実物を見る限り、器形や高台のつくり、釉薬の調子などから有田で作られたと考える方が妥当だと思われます。

 では、有田製なのになぜ「秋浦」の銘があるのでしょうか。一つの可能性として、OEM商品(相手先ブランド商品)という仮説をたててみました。注文側の商標(この場合は秋ノ浦焼)で販売される商品を、有田窯で受託生産したということです。言い換えると、秋ノ浦焼というブランドの商品を有田窯で作り、ついでに有田側の銘も入れたということになります。紋左衛門は、長崎に店を構えて商売をしていましたから、注文を受けるには地理的にも有利だったと思います。また彼は、他藩の三川内焼に素地を注文し有田で絵付を施して輸出した実績もあり、需要のある製品作りには柔軟に対応する体制を築いていたといえます。


 ところで、長崎製鉄所では、1858年の建設開始当初から何人ものオランダ人技師が現場で指導に当たりました。当時の記録によると、彼らが帰国する際にはその都度、長崎奉行から記念品を贈る慣例がありました。何を贈ったのかは不明ですが、このような外国人が好みそうな秋ノ浦焼が贈られた可能性も考えられると思います。いずれも、今のところは想像の域を出ない話ではありますが、秋ノ浦焼について考えるとき、新たな視点からのアプローチの必要性を示唆する大皿だといえます。  
 今後、秋ノ浦焼の生産や需要に関して、さらなる資料の出現が待たれます。


【長崎県文化振興課  松下 久子】


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