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宮本常一と長崎

(4)離島・樺島をゆく

 
 宮本常一は1961年9月16日に、長崎半島の南方海上450mに位置し、1953年に離島指定された樺島(現長崎市)を訪問しています。そして「野母の樺島」という論考を全国離島振興協議会の機関誌・『しま』27号に寄稿しています。樺島を初めて訪れた宮本は様々なものに関心を寄せていますが、ここでは宮本らしいと思われるものを取り上げてみたいと思います。


                  (現在の樺島港)

 まず、宮本は樺島の港の歴史について、帆船時代には風待ち港として栄え、江戸中期にはホシカ(イワシを乾燥させた肥料)の出荷港として栄えたと記しています。宮本が敬愛してやまなかった江戸時代の山伏・野田泉光院(1756−1835)は、文化10(1813)年に樺島を訪れ、「当所は湊宜しき故、大船多く入津す」などと記していますが(『日本九峰修行日記』)、樺島滞在中の宮本は、泉光院を自分に重ね合わせていたのかもしれません。

 
 (安永2(1773)年の内済絵図(長崎歴史文化博物館蔵)、左下に樺島)
 
港に関連して、宮本は民俗学的視点からイワシの乾棚にも注目しています。
   港の中は乾棚でうずまっており、真中にほんの少々水路がのこされているだけである。乾棚はすべて水中に杭をうち、その上に棚をつくったもので、棚は丸竹をならべてつくってある。このような棚は対岸の脇岬にもあるが、脇岬はとうていおよぶべくもないほどであり、樺島のイワシ加工業がいかに盛んであったかを物語っている。
イワシの乾棚については、江戸時代の国学者・中島広足(1792−1864)が天保4(1833)年に記した『樺島浪風記』に、「此あたりにて、かけといひて、岸より海の上に、すのこのごとくつくり出して、鰯を干すもの」とあり、江戸時代から樺島の風物であったことがわかります。これについて宮本は、土地の狭いことがこうした風景を生み出したと指摘しています。彼が撮影した下記の写真には、イワシの乾棚が海際はもちろん、山際(金比羅神社付近)にも設けられていたことが写し出されており、樺島の漁業民俗の独自性を考える上で、貴重な資料といえます。




     (宮本が撮影したイワシの乾棚(周防大島文化交流センター提供))

 (つづく)

                           【長崎県文化振興課 松本勇介】


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