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長崎資料から見る梅屋庄吉

その1 梅屋庄吉の誕生(1)

辛亥革命100年を機に、革命の指導者である孫文と彼を支えた長崎出身の梅屋庄吉に注目が集まりました。筆者はこの梅屋庄吉について、これまでの研究であまりおこなわれてこなかった長崎に残る資料を用いて長崎時代の梅屋庄吉を描こうと、今回のコラムと同タイトルの小論を発表しました(「長崎新聞」平成23年5月4日付け、同内容のものを「特別企画展 孫文・梅屋庄吉と長崎」の図録(平成23年10月発行)にも収録)。発表した内容については、『長崎文化』第69号の特集「長崎と中国−孫文と梅屋庄吉−」(平成23年11月発行)や平成23年度の長崎伝習所「孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情塾」発行の『孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情機戞癖神24年3月発行)に収録された諸氏の文章の中でも出典を明示されることなく引用され、筆者が明らかにした内容については現在のところ定説となっているようです。そこで、今回のコラムでは、以前発表した小論の内容に、それ以降新たに確認できた事実を織りまぜて、述べてみたいと思います。
 
梅屋庄吉の長崎時代については、庄吉自筆の「永代日記」(小坂文乃氏蔵)の記述がもとになります。いわば、庄吉の基礎データということになるでしょう。以下、引用します。
明治元年十一月廿六日生
 明治五年正月八日長崎市鍛冶屋町佐藤塾ニ入リ七年十二月廿五日退塾ス
 榎津町榎津小学校明治七年十二月創立開始セラレシ為メ八年一月十日入学ス
 明治十一年三月五日卒業ス
 
庄吉は明治元年(1868)11月26日に生まれ、西浜町で商売を営む梅屋吉五郎・ノブ夫妻の養子となります(実父母は本田松五郎・ノイで、梅屋家の遠縁にあたるとされます。車田譲治著『国父孫文と梅屋庄吉』(昭和50年(1975)六興出版))。この庄吉の誕生に関して、興味深い記述を見いだしました。
 
昭和27年(1952)日本写真協会主催の第2回「写真の日」にあたって作成された『日本写真界の物故功労者顕彰録』(梅本貞雄・小林秀二郎編、昭和27年、日本写真協会発行、以下『顕彰録』と略記)に収録された「梅屋庄吉」の項です。そこには
 
「明治二年長崎市西中町に生る」
 
という、一見すると信じがたい内容が記されています。庄吉は明治元年、西浜町に生まれたとされているからです。では、この『顕彰録』の記述は、まったく検討に値しない内容なのでしょうか。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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