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長崎資料から見る梅屋庄吉

その2 梅屋庄吉の誕生(2)

日本写真協会発行『日本写真界の物故功労者顕彰録』に記された「明治二年長崎市西中町に生る」という梅屋庄吉の誕生に関する記述ですが、信じがたいと思いつつも、まずは「明治二年」生まれという内容について検討してみましょう。
 
日本の暦は、明治5年(1872)12月3日をもって太陽暦(新暦)に改暦され、明治6年(1873)1月1日に改められました。おそらく、庄吉の明治元年11月26日生まれというのは太陰太陽暦(旧暦)で表されていると思われます。そこで、旧暦で表された庄吉の生年月日を新暦に換算すると、1869年1月8日となります。つまり、前回記した「庄吉は明治元年(1868)11月26日に生まれ」という表現は、厳密には正しくなく、西暦とともに表すのであれば「明治元年11月26日(1869年1月8日)生まれ」とするのが正しいことになります。
 
仮に『顕彰録』の執筆者が、旧暦で表された庄吉の生年を新暦に換算して、1869年生まれと表記したとしましょう。1869年は普通に考えれば明治2年のことですから、明治2年生まれと誤って表記してしまったと考えることはできないでしょうか。もしくは、1869年1月8日生まれという、新暦で表された庄吉の生年月日の記録をあまり深く考えずに、明治2年生まれとしてしまっただけなのかもしれません。
 
日本の出来事を西暦で表記するのは、本当は無理があり、高等学校で使用する教科書には「明治5年までは日本暦と西暦とは1カ月前後の違いがあるが、年月はすべて日本暦をもとにし、西暦に換算しなかった。たとえば天正14年12月1日は、西暦では1587年1月9日であるが、1586(天正14)年12月とした」(『詳説日本史』山川出版社)と注意書きが付けられています。
 
結論からすると、明治2年生まれというのは誤りなのですが、奥の深い、高度な誤りだった可能性も考えられるのです。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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