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長崎資料から見る梅屋庄吉

その3 梅屋庄吉の誕生(3)

日本写真協会発行『日本写真界の物故功労者顕彰録』に記された「明治二年長崎市西中町に生る」という梅屋庄吉の誕生に関する記述ですが、今回は「長崎市西中町」生まれという内容について検討してみましょう。
 
これまで著された庄吉の出生地に関する記述を見ると、長崎市西浜町31番地で生まれたとされています。この西浜町31番地は庄吉の両親、梅屋吉五郎・ノブ夫妻が営んでいた梅屋商店があった場所です。ただし、庄吉は梅屋夫妻の実子ではなく養子でした。実の両親は、梅屋家の遠縁にあたる、本田松五郎・ノイ夫妻です(車田譲治著『国父孫文と梅屋庄吉』ほか)。
 
ここで、庄吉の出生地を冷静に考えてみましょう。養子先の梅屋家の住所が西浜町であるわけですから、本来は実父母の本田家があった場所が出生地と考えるのが普通ではないでしょうか。前々回に取り上げた、庄吉直筆の「永代日記」の記述を再び記すと「明治元年十一月廿六日生」とあります。庄吉自身、生年月日は記していますが、出生地については記していません。西浜町生まれというのは、もしかすると検討する必要があるのかもしれません。
 
では、庄吉の実父母である本田夫妻が西中町に住んでいた可能性はないのでしょうか。残念ながら、明治元年頃の西中町に住んでいた人物に関する記録を見いだせないのですが、明治20年頃の西中町の地図が長崎歴史文化博物館に収蔵されています(「西中町図」)。これを見ると、西中町18番地と19番地に「本田久平」と記されています。本田という名字だけが一緒で、名前が違うのですが、確かに西中町に本田家は存在していました。もしかすると、代替わりしている可能性も考えられます。この西中町の本田家と本田松五郎・ノイ夫妻とを同一視するのは、何の根拠もないので慎重にならざるを得ませんが、これをもとにいろいろと調べていくと、今後、両者の関係性を示す記録が出てくる可能性はゼロではありません。ちなみに、仮説に仮説を重ねてしまい、怖いのですが、当時の西中町18番地と19番地は、現在の大黒町にあたります。
 
以上、日本写真協会発行『日本写真界の物故功労者顕彰録』の記述をもとに、梅屋庄吉の誕生について検討してきました。最後になりましたが、庄吉が日本写真界の功労者の一人と日本写真協会から顕彰されていたことも、新たな発見でした。(おわり)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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