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日見峠新道会社の顛末

長崎県最初の有料道路は? (1)

●日見新道の開通とこれまでの通説
 長崎街道の中でも難所として知られた日見峠。明治15(1882)年8月、荷車や人力車・馬車が通れる有料道路として、日見新道が開通したことは良く知られています。今まで、この日見峠の開削は十八銀行の創設者の一人でもある松田源五郎らが中心となって設立した日見峠新道会社の事業として語られ、日見新道は日本最初の有料道路であったと言われています。また、明治22年には県が補償金を支払い、料金徴収を廃止したとも言われます。県庁行政文書(土木課事務簿)これらの記述は大正15(1926)年に日見隧道(トンネル)が完成した際、県が作成した「日見隧道工事概要」という資料に依拠している部分が多いようです。しかし、明治時代の県庁行政文書を見ると、この記述とは相違する事実が浮かんできました。当時の新聞記事なども参考にしながらその経過をたどってみます。
 
●県庁行政として始まった日見新道の開削
 明治11年にはすでに、日見から諫早に至る新道の工事が実施されています。諫早方面から、陸路で長崎市街地に入る新道の最後の難関として、日見峠の開削が残っているという状況でした。それを踏まえて、同年9月内海忠勝長崎県令は伊藤博文内務卿宛てに「道路開築費御下渡願」を提出しています。日見峠と茂木道の開削費として7万円余の官費下渡を申請したものです。結果は、1年半後(同13年1月)に日見峠開削のみの工費2万9,000円を認めるというものでした。しかし、実際に測量した結果、5万円程度が必要でした(人足賃5日で約1円の時代です)。下渡された官費だけでは足らなかったのです。施工できないまま1年余りが過ぎ、このままであれば、せっかくの国庫下渡金が無駄になってしまう状況でした。この切羽詰まった中で県の担当者は、民間から広く資金を集めるという方法を採用しようとしたのです。

●日見峠新道会社の設立
 内海県令から松田源五郎ら財界人に、会社設立の懇請があったのは明治14年2月1日のことでした。株式を募集して、元本返済と配当金は開通後に道銭(通行料)を徴収して充当するというものでした。県は2月末に工事の請負業者募集広告を新聞に出し、4月に入札。ようやく工事が始まります。この頃には、会社設立の発起人も固まり、その後1年余りの株主募集期間を経て、ようやく最初の株主総会を開催したのが翌15年6月。総会の名簿には200名近い株主の名前があります。すでに工事は峠の開削部分を残し、ほぼ完成していました。この過程をみると、日見峠新道会社は資金を集め、開通後に道銭を徴収して資金を回収するために設立された会社だったことがわかります。
(続く)

【長崎県文化振興課 山口保彦】


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