長崎学Web学会

ホーム > 長崎学Web学会 > 日見峠新道会社の顛末

日見峠新道会社の顛末

長崎県最初の有料道路は? (2)

●道銭徴収には前例があった
 有料道路にするという着想には前例がありました。第1回株主総会で「道銭取立規則」を検討した際の説明に「規則ハ西彼杵郡時津新道ノ規則ヲ斟酌シテ其筋ノ制定ニ係タルモノナリ」とあります。時津新道では明治11年5月から道銭を徴収していたのです。同9年3月に時津新道の開築と道銭徴収が国に申請されていますが、実は、その申請にも前例がありました。同8年8月に別の新道開築と官費下渡申請がなされています。場所は諫早から鹿島へ通じる鹿島街道の一部を付け替える道路です。時の内務卿大久保利通からの回答はこうでした。官費下渡は不可、ただしすべてを民力では及びがたいので、道銭を取り立てて回収する方法に変更し、明細を整えて再度申請しなおせ、というものでした。この指示に基づいて許可がおりたのが同9年2月。時津新道の開築申請の1ヶ月前のことでした。
 
 これを勘案すると県令以下、県の担当者らが、大久保内務卿の指示による鹿島新道を例に、その後の時津新道・日見新道の有料道路化を着想したのは明らかだと思われます。ただ、鹿島新道については実際に道銭を徴収したか確認できません。

 なお、全国的に見ると、明治の有料道路としては、長崎ではなく旧東海道の箱根山に開通した付け替え道路がもっと早かったようです。地元の有志が工事主体となり、同8年9月に開通して以後5年間、道銭を徴収しています。
明治30年9月18日付け「鎮西日報」
●明治30年まで続いた日見峠新道会社
 これら日見峠開削に関する史料がすべて県庁で作成、保管されていた行政文書であることから考えても、日見峠の開削については、県が主導して実施したインフラ整備事業であったことは間違いなく、有料道路としても最初ではなかったということです。また、日見峠新道会社による道銭徴収については、明治29年12月に第15回の決算報告がなされ、翌30年9月に解散しています。設立時の申請どおり15年で解散となったものと思われます。

●日見峠新道会社の設立は県庁職員と財界人の苦心のたまもの
 以上のことより、日見峠新道会社に関する従来の記述は変更せざるを得ません。のちには地方債も制度化されますが、その制度がない状況下で、何とか工事を成功させようと、広く民間資金を集める株式会社を創設した県や、それに応えた発起人を始めとする株主たちの功績は特筆すべきものでしょう。通行人に限ると当初の予想を超える人たちが往来しています。

●桜や梅の植樹
 最後に1つ付け加えておきたいことがあります。資金難の中でも、工事関係者は新しくできた道沿いに、桜や梅の苗木を植えることを忘れませんでした。桜250本、梅50本が植樹されています。開通式は夏だったので花を添える状況ではありませんでした。しかし、いずれ咲くであろう桜や梅に思いをはせ、単なる移動手段としての道ではなく、歩く人の心も安らぐ場所にしようとする気持ちを忘れていなかったのは嬉しい限りです。

【長崎県文化振興課 山口保彦】


アンケート

コメント