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長崎資料から見る梅屋庄吉

その6 梅屋庄吉が入塾した鍛冶屋町の佐藤塾(1)

(画像1)「家私塾留」(明治6年)長崎の資料から見る梅屋庄吉の6回目。今回は、庄吉が小学校入学前の明治5年(1872)入塾し、明治7年(1874)退塾したとされる鍛冶屋町の佐藤塾について考えてみたいと思います。鍛冶屋町、佐藤塾という限られた情報しかないのですが、長崎に残る資料から探してみることにしましょう。
 
長崎歴史文化博物館には「家私塾留」(明治6年)という資料があります(画像1)。明治5年に公布された学制によって多くの私塾は廃業したり、公立小学校に改組されたりしました。残った私塾も翌明治6年、公立と同じ新教則に基づくようにとの通達が出され、改めて開業願を提出して許可を受けなければなりませんでした(『長崎県の郷土史料』長崎県立長崎図書館発行)。この「家私塾留」は、その時提出された塾の開業願をまとめたもので、庄吉が退塾した明治7年においても佐藤塾が存在していたことを考えると、資料の中に佐藤塾の開業願が残っていることが十分に考えられます。

資料をめくっていくと、佐藤姓の人物から出された開業願が2つあります。
1.長崎県彼杵郡第2大区6小区 佐藤乕三郎(乕は虎の異体字)
2.長崎県高来郡第8大区13小区島原村 佐藤廉太郎
この内、2の佐藤廉太郎塾は島原村(現島原市)にあった塾なので、庄吉が入塾した佐藤塾には該当しません。では、1の佐藤乕三郎塾はどうでしょうか。まず考えなければならないのは、塾の位置として記されている「第2大区6小区」とは何かということです(画像2)。
 
(画像2)佐藤乕三郎の開業願 1明治新政府は統一政権として、全国一律の政策を実施していきましたが、地域の呼び名を○○村とか○○町などと呼ぶ代わりに、○○大区○○小区と呼ぶように整理しました。これを大区小区制といいます。たとえば、江戸時代天領であった長崎市中(現在の長崎市中心部)は2つの大区に分けられ、第1大区が8つの小区に、第2大区が9つの小区にそれぞれ分けられました(長崎県全体では101の大区、755の小区に分割、『長崎県史』近代編)。江戸時代80あった長崎市中の町が第1・第2大区あわせて17の小区に分けられたということは、1つの小区に複数の町が含まれるということになります。佐藤廉太郎塾のように「第8大区13小区島原村」と、大区小区に村の名前を併記してもらえると助かるのですが、佐藤乕三郎塾のように大区小区しか表記されていない場合、町名を当てはめるのはかなり面倒です。第2大区6小区は何町にあたるのでしょうか。(つづく)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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