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長崎資料から見る梅屋庄吉

その8 梅屋庄吉が入塾した鍛冶屋町の佐藤塾(3)

(画像4)佐藤乕三郎の開業願 2今回は、佐藤乕三郎から提出された開業願に基づいて、庄吉が通っていたと思われる佐藤乕三郎塾とはどのような塾だったのかを見ていきます。まずは塾の先生である佐藤乕三郎ですが、明治6年(1873)当時の年齢は30歳6カ月でした(その6の画像2)。これを満年齢と考えると、生まれた年は江戸時代の天保14年(1843)頃となります。この年は、江戸幕府の老中であった水野忠邦が罷免され、天保の改革が失敗に終わった年でもあります。また、乕三郎は嘉永4年(1851)から安政4年(1857)までの7年間、年齢でいうと8歳から14歳の頃に、岡村真平という先生の下で習字を研究しています(画像4)。アメリカのペリーが浦賀に来航したのが嘉永6年(1853)ですので、そのころ乕三郎は熱心に学問を修めていたのでしょう。
 
(画像5)佐藤乕三郎の開業願 3「学科」は乕三郎の専門である習字が教えられ、公立小学校に準拠していました。また「教則」つまり塾で教える手順ですが、初級の第10級以下、次の通り決められていました(画像4〜6)。












第十級 習字 平仮名片仮名数字習字筆ハジメ
第九級 習字 官名誌漢字楷書ニテ
第八級 習字 府県名地方往来農業往来
第七級 習字 前級の書
第六級 習字 地理初歩 楷書片仮名
第五級 習字 日本地理往来 行草平仮名
第四級 習字 日本地理往来 行草平仮名
第三級 習字 細字習字
第二級 習字 細字習字
第一級 習字 細字連写

(画像6)佐藤乕三郎の開業願 4初級である第10級は「習字筆ハジメ」つまり習字の初歩からはじまり、楷書、そして行書・草書へと進み、最後の第1級では「細字連写」つまり小筆ですらすらと続けて書くところまで教えられていたようです。また「右一級ヲ終ル毎ニ小試験之上等級ヲ進候事」とあるので、級が終わるごとに小試験がおこなわれ、次の級に進級していました。庄吉は佐藤塾に3年通っていましたが、この内どの級まで進んだのでしょうか。授業は午前6時にはじまり12時までおこなわれました。現在の感覚からすると、かなりの早朝に授業がはじまっていたようです。「塾則」は公立小学校の生徒心得に準拠していて、「佳節并一六休業」とあるので、佳節つまり祝日と、1のつく日、6のつく日が休業日でした(画像6)。
 
以上、3回にわたり梅屋庄吉が入塾した鍛冶屋町の佐藤塾について考えてきました。庄吉が通っていた佐藤塾は出来鍛冶屋町8番地にあった佐藤乕三郎塾であり、習字を教えていたと思われます。このことについては、平成23年5月4日付けの「長崎新聞」に小論を発表して以降、『長崎文化』第69号の特集「長崎と中国−孫文と梅屋庄吉−」(平成23年11月発行)や平成23年度の長崎伝習所「孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情塾」発行の『孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情機戞癖神24年3月発行)に収録された諸氏の文章の中でも出典を明示されることなく引用されており、筆者が明らかにした内容に対して、現在のところ異論は出されていないようです。(おわり)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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