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長崎資料から見る梅屋庄吉

その10 梅屋庄吉が入学した榎津小学校(2)

 長崎の資料から見る梅屋庄吉の10回目。今回は、庄吉が入学したのは榎津小学校で間違いないのかということについて考えてみたいと思います。前回、「明治8年2月には、まだ榎津小学校はない」という議論は正しくないということを述べました。しかし、問題が残っています。次の(表1)を見て下さい。

この表は庄吉自身の記録と、前回示した「管内願伺届指令留 明治8年/第1 学務課事務簿」(長崎歴史文化博物館蔵)の内容をまとめたものです。庄吉の記録には榎津小学校の開校が明治7年12月と記されています。日にちの記述がないので、黄色を塗った12月のどこかで開校したことになります。また、明治8年1月10日は庄吉が榎津小学校に入学した日です。一方、「管内願伺届指令留」によると、明治8年1月13日移転の許可が出され、27日に榎津小学校への改称がなされていますので、青の部分のいずれかが実質的な榎津小学校の開校ということになると思います。とすると、庄吉自身が記した1月10日入学というのは榎津小学校の開校前ということになります。開校前には入学できないでしょうから、庄吉の記述は誤りということになり、やはり舊川小学校に入学したということになるのでしょうか。
一つの可能性として考えられるのは、庄吉の記録が旧暦で記されているのではないかということです。新暦つまり太陽暦へ切り替わったのは明治6年1月1日ですが、これ以降も旧暦(太陰太陽暦)を使い続けた日本人は結構いたことが知られています。たとえば、私事で恐縮ですが、筆者の高祖父、つまり、ひいひいじいさんは明治30年代に亡くなっていますが、墓石に彫られた死亡の日付は旧暦で書かれています。次の(表2)を見て下さい。

この新暦と旧暦を対応させた表で、オレンジの部分が庄吉の記録が旧暦で書かれていると仮定した場合の箇所です。榎津小学校開校は12月とあるだけで、日にちの記述はないのですが、新暦の1月8日から2月5日までが旧暦の12月にあたりますので、このうちのどこかで開校したことになります。一方、「管内願伺届指令留」は役所の記録なので、旧暦で書くことはないと思いますので、新暦のまま、先ほどの(表1)と同じところに青の部分を落とすと、2つに重なる部分が出てきます。庄吉は自身の記録によると明治7年12月25日(これを旧暦とすれば、新暦では2月1日にあたります)に佐藤塾を退塾しています。おそらく、新しい小学校ができたので退塾したと思われますが、このことを加味しても、それまでに榎津小学校が開校していることが分かります。そして、旧暦の1月10日、新暦では2月15日に、榎津小学校に入学したということではないのでしょうか。
以上、庄吉の記録が旧暦で書かれていたのではないかという可能性を検討してみました。旧暦で書かれていたという前提に立てば、庄吉自身の記録と長崎に残された資料とのつじつまが合うことが分かります。もちろん、これはあくまでも仮定の話ですので、庄吉が入学したのは舊川小学校だったのか、榎津小学校だったのか、本当のところは分かりません。今後、庄吉の記録を検討する際には、明治6年以降、つまり新暦になったあとも旧暦で書かれている可能性がないかを頭に置きながら見ていく必要があるかもしれません。(つづく)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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