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長崎資料から見る梅屋庄吉

その11 梅屋庄吉が入学した榎津小学校(3)

 長崎の資料から見る梅屋庄吉の11回目。前回まで2回にわたり榎津小学校について述べてきましたが、学校の場所はどこだったのでしょうか。榎津小学校が建っていた場所については、「学制ノ部 明治19年4月〜6月 学務課常務係事務簿」(長崎歴史文化博物館蔵)という資料に関連した記述があることが分かりました(画像3)。榎津小学校は明治19年(1886)に再び移転しているのですが、この資料には元の榎津小学校敷地の処分について書かれており、元の榎津小学校の場所は榎津町6番地と記されています。

これを現在の場所に落とすと、現在の町名では万屋町にあたり、万屋町郵便局のそばになります。明治18年の「長崎港内全図」(同館蔵)の榎津町の部分を見ると、「小斈」の文字が見えます(画像4)。「小斈」とは「小学」のことですので、ここが移転前の榎津小学校の場所になります。つまり梅屋庄吉は鉄橋近くの西浜町から、この場所に建っていた榎津小学校まで通っていたのです。ちなみに、地図を見ると近くには「芝居」の文字が見えます。ここはのちに庄吉が活動写真を上映することになる栄之喜座(えのきざ)のことです。

最後に、筆者が梅屋庄吉に関する長崎の資料を調査した中でのいちばんの成果は、長崎の資料の中に「梅屋庄吉」の文字を発見したことです。「教育資金ノ部 明治11年 学務課報告掛事務簿」(同館蔵)という資料の中に、明治11年(1878)、榎津小学校に通う304人の生徒から学校に対して、旗竿台(国旗掲揚台のようなものと思われます)、とその築造費、および旗2流れの寄付がおこなわれたとき時の記録が残っていました(画像5)。

一人につき6銭7厘ずつという額です。少額ではありますが、全生徒から集められています。この記録の中に、当時榎津小学校に通っていた庄吉の名前も出てくるのです。筆者が長崎歴史文化博物館の収蔵庫に並ぶ資料の中からこの記述を発見したのは平成22年(2010)5月のことですが、現在のところ長崎に残る資料の中で「梅屋庄吉」の名前が確認できる唯一のものです。庄吉は「梅屋正人」と名乗ることもあり、正人は幼名だとも言われてきましたが、この資料により、庄吉は幼いときから庄吉を名乗っていたことが確定しました。
長崎に残る資料の中に「梅屋庄吉」の名前が確認できることについては、平成23年5月4日付けの「長崎新聞」に小論を発表しました。その後、このことについては、『長崎文化』第69号の特集「長崎と中国−孫文と梅屋庄吉−」(平成23年11月発行)や平成23年度の長崎伝習所「孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情塾」発行の『孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情機戞癖神24年3月発行)に収録された諸氏の文章の中でも出典を明示されることなく引用されています。中には、現在のところ長崎に残る資料の中で「梅屋庄吉」の名前が確認できる唯一のもの、という筆者の見解まで引用されており、現在のところ、長崎の資料の中に庄吉の名前を見出した方は、筆者の他にはいないようです。(おわり)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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