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不思議な地名「銅座跡」について調べる

なぜ、銅座は「町」ではなく「跡」なのか? その1

(画像1)銅座跡と書かれた幟長崎市の中心部に銅座町という町があります。町の名前は、江戸時代の享保10年(1725)、輸出用の棹銅を鋳造するために銅吹所が設けられ「銅座」と呼ばれたことに由来します。長崎の秋の大祭「長崎くんち」には「南蛮船」を奉納している町です。このように江戸時代に起源を持つ町名ですが、江戸時代から「銅座町」と呼ばれていたわけではありません。長崎奉行所で作成された各町の提灯や幟、法被の雛形帳(「五役並乙名右加役挑灯雛形附町々幟法皮挑灯雛形帳」長崎歴史文化博物館蔵、以下資料は全て同館蔵)には「銅座跡」と書かれた幟があり(画像1)、江戸時代の銅座は「町」ではなく「跡」と呼ばれていたことが分かります。今回はこの不思議な地名「銅座跡」について調べてみましょう。
 
享保10年にできた銅吹所は、元文3年(1738)には廃止されました。寛保元年(1741)同じ場所に「寛永通宝」を鋳造する鋳銭所が設置されましたが、これも延享2年(1745)には廃止されました(「長崎町乙名手控」『長崎関係史料選集』第4集p66)。その後、この地について、寛政9年(1797)成立の「長崎歳時記」(文政4年(1821)頃写し)には「銅座跡ハ鎮台より十二三丁南東浜町の隣にあり、是元文二三年の頃までハ銅をふき銭を鋳し所にて、今人家建つゞき町並に准す、尤町々の乙名より両人つゝ掛りを兼勤」(銅座跡は長崎奉行所立山役所より12、3丁(1.3〜1.4km)南、東浜町の隣にあり、元文2、3年頃までは銅を吹き、銭を鋳造するところで、今は人家が建ち続き町並みに準じています。もっとも他町の乙名より2名ずつ銅座跡係として兼勤しています)と記されていて、延享2年に鋳銭所が廃止されて以降、家が建ち人が住むようになったようです。では、家の数や人口はどのくらいだったのでしょうか。

(表1)銅座跡の概要江戸時代の各町の概要を記した「長崎市中明細帳」を見てみましょう。なお、この「長崎市中明細帳」については、本コラム長崎学Web学会に以前掲載された、山口保彦「2つの「文化五年 長崎市中明細帳」」に詳しく述べられていますので、そちらをご覧下さい。銅座跡は「町」ではありませんが、町に準じて「長崎市中明細帳」に記述があります(表1)。この数字だけでは、どのくらいの規模か分かりませんので、総坪数、竈数、人家、人別の各データを他町と比較してみましょう。長崎の町は全部で80ヵ町あります。そのうち、オランダ商館があり、通常日本人は住むことができなかった出島町を除く79ヵ町のデータと、文化5年(1808)分をつかって比較してみました。順位は数字の多い方を1位として、銅座跡の上下5町ずつをあげています(表2)。
(表2)銅座跡と他町の比較

これを見ると総坪数は40位と中位ですが、竈数、人家、人別はそれぞれ、9位、13位、15位と上の方に位置しています。町ではない銅座跡ですが、このように他町とそん色ない規模を持っていたことが分かります。(つづく)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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