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不思議な地名「銅座跡」について調べる

なぜ、銅座は「町」ではなく「跡」なのか? その2

不思議な地名「銅座跡」について調べる2回目。今回は、銅座跡の組織がどのようなものだったのか、他町と比較しながら見てみましょう。
 
◎乙名 江戸時代の長崎の各町には乙名・組頭・日行使という町役人がいましたが、銅座跡にはこれらの役人はいたのでしょうか。前回引用した「長崎歳時記」に「町々の乙名より両人つゝ掛りを兼勤」とあるように、銅座跡の乙名は住人から選ばれるのではなく、他町の乙名が兼務していたようです。長崎の乙名は自分の町の乙名職以外にも、「加役」といって別の職務を持っていました。例えば、長崎会所目付や旅人改方、盗賊方などがこれにあたります。また、出島乙名や唐人屋敷乙名などのように、特殊な町・地区の乙名職も加役でした。銅座跡掛(掛=係の意味)の乙名もこの加役の一つだったのです。次の(画像2)は銅座跡の絵図です。これを見ると「乙名詰所」つまり乙名の勤務場所も設けられていたことが分かります(宝暦5年(1755)設置)。ちなみにこの絵図には「稲荷」の文字も見えます。現在も続く「銅座稲荷」は江戸時代から存在していました。

(画像2)銅座跡絵図
 
この銅座跡掛乙名について、享和2年(1802)の「長崎市中明細帳」に次のような記述があります。「宝暦四戌十二月七日銅座跡支配乙名津田勘内・高石左兵衛江被仰渡候」(宝暦4年(1754)12月7日銅座跡掛乙名に津田勘内と高石左兵衛を任命しました)。延享2年(1745)の鋳銭所廃止から10年たたないうちに住人の数も増え、銅座跡をまとめるものが必要になったと思われ、初めて2人の乙名が置かれることになりました。津田勘内は材木町の乙名、高石左兵衛は本紺屋町の乙名をつとめる人物で、加役として銅座跡掛乙名も兼務することになったのです。次の(表3)は長崎奉行所の判決記録である「犯科帳」から銅座跡掛乙名をつとめた人物を抜き出し、まとめたものです。

(表3)銅座跡掛乙名一覧

◎組頭 次に組頭についてはどうでしょうか。「犯科帳」第56冊(71)、寛政3年(1791)の記述に「銅座跡懸リ乙名 宇野熊之丞・前園金蔵、組頭 古立久次平・竹内利三太・木本伊平次・野村弥兵衛」と出てきます。文字の並びからすると、組頭が4人いたように読めます。そこで、古立以下の4人について「犯科帳」の他の記述で確認すると、前2人のうち古立は確認できませんでしたが、竹内は上筑後町の住人だったことが分かりました。また、後ろ2人の木本・野村は西古川町の組頭だったことが分かりました。先ほどの(表3)の寛政3年を見ると、銅座跡掛乙名である宇野熊之丞・前園金蔵の本務町はそれぞれ上筑後町・西古川町です。おそらく古立・竹内両名も上筑後町の組頭だったと思われ、上筑後町の乙名:宇野、組頭:古立・竹内/西古川町の乙名:前園、組頭:木本・野村が、銅座跡の乙名・組頭を兼務していたと考えることができます。つまり、銅座跡掛乙名をつとめる人物の本務町の組頭が、乙名と同じように銅座跡の組頭を兼務する体制になっていたようです。
 
◎日行使 日行使については「長崎町乙名手控」(『長崎関係史料選集』第4集p15)に「銅座跡日行使壱人」との記述があることから、その存在が確認できます。また「慶応三年(1867)諸伺留」に「銅座跡之儀者行事壱人勤」とあるので、日行使(行事)は銅座跡の住人から選ばれていたようです。
 
以上見てきたように、銅座跡の乙名・組頭は他町からの兼務、日行使は銅座跡の住人から選ばれており、長崎の各町に乙名・組頭・日行使という町役人がいたのと同様、銅座跡にもこれらの役人がいたことが分かりました。銅座跡は組織の面でも他町に準じた存在だったのです。(つづく)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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