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不思議な地名「銅座跡」について調べる

なぜ、銅座は「町」ではなく「跡」なのか? その4

不思議な地名「銅座跡」について調べる4回目。今回は、銅座跡が幕末・維新期をむかえ、どのように変化し「銅座町」と呼ばれるようになったのかを見てみましょう。
 
◎慶応3年(1867) 長崎の町の組織は、慶応3年7月大きく変化しました。町年寄以下全地役人の組織を改編して、長崎奉行直属の軍事編成に切り換えられました(『長崎県史』対外交渉編p400)。町の組織については、「今般御改革ニ付丸山町・寄合町之外乙名者長崎奉行組同心被仰付候ニ付、以来町用之儀者組頭・日行使ニ而取扱可申、尤組頭者肝煎、日行使ハ行事と唱替可申候」とあり、各町の乙名が奉行所直属の「組同心」となったので、町の仕事は組頭と日行使が取り扱うことになりました。さらに、組頭・日行使の名称もそれぞれ肝煎・行事と改称されています。この時銅座跡にも、他町と同じように地主(家持)の中から2人の肝煎を人選したいとの願が町方から出され、8月6日許可されています。ここに来て、初めて銅座跡の住人から代表者を出すことができました。この時選ばれた肝煎は、江上静嘯・永見伝三郎の両名です。なお、同じ慶応3年7月の改革により、これまでおこなわれてきた箇所銀・竈銀の配分が廃止されることになりました(「慶応三年 御用留 町方掛」)。
 
◎明治元年(1868) 長崎の町の組織は明治元年7月にも改革がおこなわれています。各町および銅座跡の肝煎(旧来の組頭・各町2人ずつ)と行事(旧来の日行使・各町1人ずつ)全員に対して「暇」(解雇)が申し渡され、新たに各町1名ずつの肝煎が任命されています。この時銅座跡は東西の銅座町となり、初めて「町」を名のることになりました。この時任命された肝煎は東銅座町が江上静嘯、西銅座町が青木新右衛門です。当時長崎をおさめていた長崎府の町方掛が、銅座跡を町とするにあたって述べた理由を、以下少々長文ですが引用します。「銅座跡之儀者従前より市中諸町之外ニ而一区ニ相成、年々諏方社神事者勿論諸事ニ関係不致候処、同所之儀者船附ニ而都而繁昌之場所柄、殊ニ地所之儀も市中ニ見競候得者、急度二町余者可有之候ニ付、今般東西銅座町と相唱二町ニ御引分、市中ニ御組入之上外町々同格之振合ニ被仰付候ハヽ、諸事都合も可宜と奉存候」(銅座跡は以前より長崎市中の町々の外側に一区画をなしていて、毎年の諏訪神事やその他のことに関係してきませんでした。しかし、銅座跡は船が着岸できる場所で繁盛しており、その上、土地も長崎市中の町々と比べても、間違いなく2町くらいはあります。今回東西銅座町と呼び2町に分け、長崎市中に組入れ外町同様とすれば諸事上手くいくと存じます)。これまで、その1からその3にかけて銅座跡が長崎の他町とそん色なく、同じような働きをしていたと述べてきましたが、長崎府もそれを認めたわけです。また、箇所銀が配分されていた江戸時代において、新しく町を置くことは、新しく箇所を増やすことを意味し、配分額の関係から認められませんでした。しかし、箇所銀の配分も廃止され、町を設置することに抵抗がなくなったことも東西の銅座町ができた背景にあったと思います。
 
(画像4)銅座跡の碑同年10月、東西の銅座町の住人から、東西銅座町を1町としても他の大きな町より坪数は小さく、また毎年の諏訪神事等の負担金も2町分支払うのは厳しいので、1町にしてほしいとの願が出され、許可されています。この時、現在まで続く町名「銅座町」が誕生しました。同年11月、肝煎の名称が乙名と改称されています。(「明治元年 文書科事務簿 町方御用留」第一・第二)。これ以降の銅座町の乙名は、青木清左衛門、そして青木次七がつとめました。なお、幕末・維新期の長崎の町については、拙稿「幕末および明治初期における長崎改革について」(長崎県立長崎南高等学校紀要『崎陽』第30号、1997年)をご覧下さい。
 
以上、4回にわたり不思議な地名「銅座跡」について調べてきました。資料に基づき、いろいろな視点から「銅座跡」の歴史を見ることができたと思います。筆者としても、銅座跡を調べることで、銅座跡のことだけでなく、長崎の他町のことについての理解が深まるよい機会でした。(画像4)は現在、銅座町に建つ銅座跡の碑です。江戸時代、ここに「銅座」があったことを示す「跡」の碑ですが、江戸時代の不思議な地名「銅座跡」を記念しているようにも見えます。(おわり)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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