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砲艦「永豊」の進水風景 (1/2)

長崎で誕生した「八百三十噸の愛らしき砲艦」

 1912年(明治4565日午前1030分、「三菱合資会社三菱造船所」(現・三菱重工業株式会社長崎造船所、以下「三菱長崎造船所」と表記)で、小さな軍艦が進水しました。その名は「永豊(えいほう)」。のちに孫文の名前をとって「中山艦」と改名した艦です。その進水式の模様は、地元長崎のみならず、東京でも翌日の新聞にて報じられました。

三菱造船所にて建造中なりし中華民国砲艦永寶(原文ママ、永豊)は、五日午前十時来崎中の監督官、官帯李國均(原文ママ、李國圻)の命名にて進水せり。排水量八百三十噸。無線電信の装置あり。八月中旬竣成の筈。三菱にて外国軍艦を建造せるは同艦を以て最初とす。         (191266日付「読売新聞」(東京版)朝刊)

 「永豊」は全長62.48メートル、総トン数836トンという吃水の浅い河用砲艦で、軍艦と呼ぶには武装もたいへん軽微な小型艦でした。すでに三菱長崎造船所では、全長175.3メートル、総トン数13000トン超という造船史に名を残す豪華貨客船「天洋丸」級3隻など数々の船を完成させており、【別表】にみる「永豊」の性能からは、この小さな軍艦の進水式が東京でも報道される理由がうかがえません。

 では、どの点が注目されたのでしょうか。まず、「永豊」が三菱長崎造船所として初めて外国から新造軍艦として受注した艦でした。そしてその納入先が前年の1911年(明治4410月に辛亥革命を開始した中華民国政府の海軍だったことが挙げられます。
辛亥革命の状況など刻々と変容する中国の情勢は、長崎の新聞報道を筆頭に東京でも報じられていました。たとえ平凡な性能の小型艦でも、中国の革命を進める政府の海軍へ納入される国産軍艦が進水したというニュースは十分注目に値するものであったと考えられます。

さて、この「永豊」の進水式、それまでの式典とは随分違った雰囲気だったようなのですが、その模様は次回にて。(つづく)


「永豊」同型艦「永翔」の建造風景(神戸川崎造船所にて)(齋藤義朗蔵)

「永豊」要目(竣工時)

【長崎県文化振興課  齋藤義朗】

引用資料)191266日付「読売新聞」(東京版)朝刊(国立国会図書館蔵)

参考文献)『三菱長崎造船所史』(昭和3年)

     Conway's All the World's Fighting Ships, 1906-19211984/11, Conway Maritime Press

     横山宏章著、中国砲艦『中山艦』の生涯(汲古書院、平成14年)


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