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銅座町が初めて長崎くんちに参加した明治22年の記録

「諏方神社御祭礼踊奉納諸記録」より その2

今回も前回に続き、明治22年(1889)銅座町が初めて長崎くんちに参加した時の記録「諏方神社御祭礼踊奉納諸記録」(長崎歴史文化博物館蔵)を紹介しましょう。
 
「明治三年」(資料のまま)、「踊奉納順番」に加わった銅座町ですが、この年から実際に長崎くんちに参加し、踊りを奉納したわけではありません。資料によると、長年、銅座跡と呼ばれ、長崎の町の列外として独立してきたため、町の議論が急には決まらず、最初の順番には奉納をおこなうことができませんでした。さらに、明治22年、3度目の順番にあたっても町の議論は分裂したままでした。町が長崎くんちに参加することの難しさがうかがえます。
 
年代は分かりませんが、明治22年よりも前に「銅座町同盟会」が設置されました。これは町費の適切な運用のために設けられたものです。この同盟会の幹事である永見文太郎氏が尽力し、明治22年8月9日「銅座町同盟会」総会を開き、満場一致で長崎くんちへの参加を決定しました。10月の長崎くんち本番の約2カ月前のことです。しかし、町務係の某氏と協議したところ謝絶されたため、同盟会はわずか24戸の少数で長崎くんちに参加し、踊りを奉納することになりました。資料には金貨融通・貿易繁盛・五穀豊穣を祈るため「民力を疲弊せしめさる限りは適宜の経費を以て之を執行すへきは本市(長崎市)の一大美事」と記され、長崎くんちに参加することの意義が述べられています。
 
長崎くんち本番、神事の日に際しては、24戸の人員では前後数日の行事などについて、その運営を計画し実行することは難しかったようです。ちょうどその時、近隣の西浜町・本石灰町・船大工町・本籠町の4町が懇切に手助けしてくれたこともあり、無事に終えることができた、と資料には述べられています。長崎くんちに参加を決めてから実際に踊りを奉納するまでも、たいへんなご苦労があったようです。そして、最後に「聊か紀事を存して以て後世の記念とす」と記し、「銅座町同盟会踊奉納創始の事」を締めています。今回このような形で資料を紹介することができ、資料をまとめた方の気持ちに少しでも報いることができたのなら、うれしいです。
 
最後に、「明治廿二年諏方神社御祭礼奉納踊報告」をもとに、明治22年銅座町が長崎くんちに参加した時の記録を記します。
 
銅座町の傘鉾の図◎傘鉾趣向
装飾品 真榊 五色絹 三種の神器
置物 冠台 冠 笏 祝詞附使文枝挿
垂れ幕 糸錦三神御紋織出翠簾
なお、この傘鉾一式を寄付したのは永見徳太郎氏であると、資料に記されています。また(画像2)は「みゆきの先とも」(長崎歴史文化博物館蔵)に載る、銅座町の傘鉾の図です。
 
◎奉納踊り
前日 笠松峠岩屋の段

後日 小さん・金五郎恋の曙茶屋の段
なお、「鎮西日報」明治22年9月29日付の記事に、銅座町の奉納踊りの内容について掲載されていますので、あわせてご覧下さい(長崎歴史文化博物館蔵マイクロフィルム)。
 
◎踊奉納費計算表
収入 560円79銭6厘
支出 544円63銭4厘
差引  16円16銭2厘(同盟会の積立金に組み入れる)
 
今から125年前の明治22年・西暦1889年は2月に大日本帝国憲法が公布された年であり、また4月、長崎に市制が施行され長崎市となった年でもあります。現在の長崎新聞の前身である「長崎新報」もこの年の9月に創刊されました。このような出来事が起こった年の10月に銅座町は初めて長崎くんちに参加したのです。この時の記録が、写しではありますが確認できたことは、たいへん興味深いことです。わずか15丁の短い記録ですので、関心のおありの方はぜひお読み下さい。なお、資料はカタカナで書かれた部分もありますが、引用にあたっては読みやすさを考え、ひらがなに直しました。(おわり)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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