長崎学Web学会

ホーム > 長崎学Web学会 > 勝田館主人・田中喜平氏のこと (その6)

勝田館主人・田中喜平氏のこと (その6)

寄贈の写真資料 孫文・宮崎龍介ほか1名肖像写真


●この写真は新しく台紙が替えられて、裏書きが分かりませんが、資料としての登録は「
集合写真(孫逸仙・宮崎龍介他3人)」とあることから、孫文と宮崎龍介の名前がもともとの台紙にも書かれていたようです。時期はおそらく大正末から昭和の初めにかけてかと思われます。

●撮影された場所もどこなのか不明です。孫文を中央に、向かって左に宮崎龍介が立ち、右にもう一人写っていますが、この人物について詳細は分かりません。ただ、小坂文乃氏が所蔵される梅屋庄吉関係資料のなかに、似た人物が写っていましたので紹介しておきます。

●それは孫文亡き後、昭和2(1927)10月に蒋介石が来日した時、梅屋庄吉や頭山満など関係者が日比谷の陶々亭で開いた招宴を記念して撮影されたものです。宮崎龍介も同席しています。似た人物というのは「副島義一」と添え書きがあります。

●確証は持てませんが、副島義一であれば、1911(明治44)年の辛亥革命後、中国へ渡り、中華民国南京臨時政府の法律顧問になった憲法学者ですから、孫文・宮崎龍介と一緒に写真に収まっていても不思議はありません。副島は穂積八束の天皇主権説に反対して、早くに天皇機関説を唱えた人物でも知られ、孫文が亡くなったあとの昭和 5(1930)年にも、南京国民政府の法律顧問になっています(『近代日中関係史人名辞典』など)。ただし、断定するにはさらなる検証が必要になると思いますので、紹介にとどめておきます。

●それはさておき、この写真によって宮崎滔天と懇意の中であった勝田館主人の田中喜平は、滔天の息子龍介とも、さらに孫文とも直接関わりを持っていたことが推察されます。

 

【長崎県文化振興課 山口保彦】


アンケート

コメント