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長崎奉行の足跡を訪ねて (その2)

〜江戸・新宿編〜

 次にJR新宿駅南口を左に出てなだらかな坂道を下っていくこと3〜4分,さらに新宿三丁目から靖国通りに入り5分ほどで正受院(しょうじゅいん・東京都新宿2丁目15−20)に到着する。人通りも多く、小売店・コンビニエンスストアが多くみられるが、寺院も点在し、近くには新宿御苑がある。ここに墓所があるのが江戸末期の旗本,川村修就である。

第110代長崎奉行川村対馬守修就(かわむらつしまのかみながたか)は寛政7(1795)年に生まれた。もともと川村家は8代将軍徳川吉宗が創設した御庭番(おにわばん)十七家の一つで修就も22歳からこの職にあった。その情報収集処理能力の高さと老中水野忠邦の引き立てもあって、天保14(1843)年初代の新潟奉行に任じられ、9年間在職した。この在勤中には今でいう潜入捜査を自ら行って抜荷の取締りを行ったとの話も残っている。その後、堺奉行・大坂町奉行をつとめ、安政2(1855)年に長崎奉行に就任した。1年半ほどの在任期間中にはアメリカ・イギリスなどの外国軍艦への対応や長崎海軍伝習所の設立にも貢献している。その後、小普請奉行や西ノ丸留守居をつとめ、元治元(1865)年70歳の時に引退している。その後のエピソードとしては慶応4(明治元・1868)年、幕府終焉前から「知春園」という薬屋の開業準備を行い、翌年には「五神錠」という救急薬を売り出したことがあげられる。これも時代をよむ目の確かだった川村修就らしい話であろう。

 墓の場所は境内の中央部にあり、明治時代に洋画家として活躍した川村清雄(修就の孫)の墓とともにある。墓石は周囲のものと比べても大きいものではないが、かえって小身から実力で要職を歴任した川村修就をしのばせるたたずまいを感じさせる。

なお、勝海舟が晩年書いた『氷川清話』のなかで、幕臣にも優秀な人材がいて、その代表的な4人のなかの一人として川村修就をあげている。

 
第110代長崎奉行川村修就の墓 (新宿区)                   
                                        
【長崎県文化振興課 小松 旭】


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