長崎学Web学会

ホーム > 長崎学Web学会 > 勝田館主人・田中喜平氏のこと(その9)

勝田館主人・田中喜平氏のこと(その9)

田中喜平氏寄贈の資料・長崎と上海

 ●これまで8回にわたり、勝田館主人の田中喜平氏の寄贈資料について、紹介してきました。いずれも寄贈された時の受入印が確認できる資料は、昭和17(1942)年となっています。

●昭和 6(1931)年の満州事変、6年後の盧溝橋事件以後は全面的な日中戦争に突入していきます。寄贈された昭和17年の前年12月には太平洋戦争も始まり、上海からも多くの日本人が引き揚げてきました。田中喜平も勝田館を畳み、長崎に帰り、保管していたこれらの資料を市立博物館に寄贈したのだと考えられます。

●ほかにも数点、田中喜平氏寄贈の資料が確認できます。

・書(印度志士書) 色紙大4枚 内1枚にはビルマのオッタマ比丘氏からのハガキが裏に貼付されています。

・株券 合記内河輪船有限公司 計50股(民国491日)

・写真 長岡外史肖像(蒋介石宛)

・写真 大谷光瑞献上物

など。

また、田中喜平氏寄贈ではないものの、かつて県立長崎図書館に寄贈された渡辺文庫のなかに田中喜平氏宛や宮崎龍介との連名で宛先となっている書簡等が数点残されています。送ったのは黄興の息子黄厚端でした。このシリーズ2回目の連載で、宮崎滔天が黄興の墓参したときの写真を紹介しました。滔天はその写真を田中喜平に送り、それが長崎歴史文化博物館の所蔵となっているのですが、黄厚端からの書簡についても、黄興・厚端親子と田中喜平の深いつながりを知ることができます。



★印度志士書



★黄厚端書簡(田中喜平氏宛)


●明治以降、上海には多くの日本人が渡り、特に日露戦争以後、急速にその数が増えて、上海在住の外国人のなかでは日本人の数が最も多くなります。昭和の初めには上海在住の日本人は2万人を越え、なかでも虹口地区は日本人が多く住んだ場所でした。その日本人の出身地で最も多かったのが地理的に近かった長崎でした。

●上海で活躍した長崎人としては、明治のはじめには陶磁器を扱った田代源平、旅館業の崎陽号(上野弥太郎)、写真館を開いた鈴木忠視、明治後半には日本料亭と庭園で有名であった六三亭・六三花園を開いた白石六三郎などが列挙されています(『上海に生きた日本人 幕末から敗戦まで』(陳祖恩著2010年)。

●今後はこれらの長崎人に混じって、中国革命の志士たちとも縁が深かった勝田館主人・田中喜平の名も上げることができるでしょう。ただ、これらの資料について、また勝田館主人田中喜平氏自身のことについても、不明な点が多く、本コラムでも確証が持てないまま推定で記述した内容も多く、今後の研究を待ちたいと思います。(終わり)
  
【長崎県文化振興課 山口保彦】

 
 
 
 
 
 


アンケート

コメント