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千々石ミゲルのものと思われる墓所発掘調査について(1)

千々石ミゲルのものと思われる墓所発掘調査について(1)

 千々石ミゲルは1569年頃、釜蓋城主千々石直員の子として、雲仙市千々石町にて生まれました。父の直員はキリシタン大名として有名な大村純忠の実弟にあたります。成長したミゲルは、天正遣欧使節(15821590)の一員としてローマ法王に謁見し、歓迎を受けることになります。しかし、帰国後彼の人生は波乱に満ちたものとなりました。彼を除く3人の使者がキリスト教徒として人生を終えたのに対し、彼は棄教したのではないかと言われています。ただ、最近の研究では、イエズス会は脱退したけれど、棄教はしていなかったともいわれています。このようにいまだに謎の多いミゲルの晩年を解き明かす鍵が、この墓所にあると考えられています。

 

〔発掘前の墓所〕

 この墓所は、諫早市多良見町、みかんで有名な伊木力地区に位置します。すぐそばを長崎本線(旧線)が通り、線路の土手のむこうには大村湾、さらにその先にはミゲルとの関係が深い大村をのぞむことができます。古くからこの墓所は地元の方々により手厚く祀られており、墓石の裏面に「千々石玄蕃允」(千々石ミゲルの四男)と刻まれていたことから、“ゲンバさんのお墓”とよばれていました。しかし、2003年、石造物研究家である大石一久氏らが確認したところ、千々石ミゲル本人の墓である可能性が高いことがわかりました。墓石に刻まれた戒名「自性院妙信」「本住院常安」が、大村藩重臣であった淺田氏一族が建立した自證寺(長崎市琴海戸根町)に残されていた淺田氏代々の位牌のひとつに掲載されていたことが大きな手がかりとなりました。淺田家には玄蕃の長女テイが嫁いでおり、ミゲル夫妻のものと思われる墓所を淺田家が代々管理していたことも容易に理解できます。そこで前者の戒名は、ミゲルの妻、そして後者はミゲル本人の戒名ではなかったかと推察できます。

                     
        板位牌箱                    自證寺板位牌「附録一」

2014年9月、淺田家嫡流の浅田昌彦氏(神奈川県在住)らが中心となり第1次発掘調査がおこなわれました。その結果(1)墓石横に従者の墓を確認、(2)墓所南側に墓域を定めたと思われる石列の発見、(3)墓石を囲む石組基壇の発見という成果が得られました。これによりこの墓所が当時の領主級の墓所と同等であることが判明し、千々石ミゲル夫妻の墓所である可能性がさらに高まりました。

 

                           第1次調査後の墓地全景


【長崎県文化振興課 橋本正信】

 

 


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