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梅屋庄吉をたずねて 〜19世紀末香港日本人社会の実態から〜 (2)

屋庄吉をたずねて 〜19世紀末香港日本人社会の実態から〜 (2)

3.明治期の梅屋写真館

 

「中環皇后大道中 ―1880年代從政府山西眺皇后大道中―」
HONG KONG MEMORY蔵)

 

前回のコラムで、1901年(明治34)時点の梅屋写真館が構成員数だけ見れば当時の大規模資本と並ぶほどの経営状況であったことが理解できました。今回以降、より具体的な経営状況について検討していきます。

前回の第二章でのべたとおり、明治期の日本外務省は香港の邦人実業家の実態の把握を怠っていました。このため、当時の在外邦人実業家に関する実証性の高い資料は多くありません。

しかし梅屋写真館については、経営が良好であり経営規模が在香港実業家の中でも大きく目立つ存在であったためか、1900年代以降に限っては、他の実業家と比べて相対的に多くの資料が遺されています。とは言え、それらは断片的で、含まれている情報量は経営実態を完全に明らかにするには程遠いものです。

 たとえば『海外日本実業者の調査』です。本調査は1903年(明治36)から、年間取引総額が10,000円以上の企業のみを調査したものです。梅屋写真館は、このうち1910年(明治43)と1911年(明治44)に、以下のように登場します。

資料中では「梅谷写真館」とありますが、これは前回のコラムで引用した資料で梅屋庄吉が「梅谷正人」として記録されていたのと同じく、梅屋写真館のことで間違いありません。

梅屋写真館の構成人数が、1901年時点(13人)から減少しています。なお、店主が佐野福蔵となっていますが、これは梅屋が1904年5月シンガポールへ、翌年6月には日本に帰国しているためです。

 

 

3.大正・昭和期の梅屋写真館

 

 本コラムが主たる考察対象として設定した時代区分は明治期ですが、梅屋写真館の実態をより明らかにするべく、大正期以後の状況についても若干の検討を加えておきたいと想います。

同時期の梅屋写真館を通年的に観察できる史料としては、島津長次郎氏編『支那在留邦人人名録』(金風社,1917―)が挙げられます。これには、梅屋写真館の代表者名、住所、電話番号が記載されています。

 現在、『支那在留邦人人名録』は一機関にまとまって保存されておらず、日本と中国の各地に散逸しています。これらのうち、筆者が可能な限り収集したものから梅屋写真館にまつわる情報のみを抜き出し、表にしたものが次の表です。なお、収集できなかった年度分については網掛けの上空欄としました。



  本資料により、梅屋写真館は遅くとも1920年(大正9)の時点で、香港のクイーンズロード・セントラルの8号にあったことが確認できました。1925年(大正14)前後を境に同38,40号に移転していることも解ります。また、1904年に香港を離れて以降、梅屋本人が写真館の経営に直接関わっていないことも、この資料から推測できます。

 その他目をひくのは、第17版(1926年)にのみある開業年度です。ここには1886年(明治19)とあります。梅屋写真館が開業した正確な年は不明ですが、梅屋が1893年にアモイにいること、1895年に香港で梅屋写真館にて孫文と出会っていることから、1894年または1895年と推測されています。

 1886年開業という記述はこれらと10年近く異なります。またこの時梅屋は18歳であり、アメリカ遊学を目指すも失敗するなどしており、香港に滞在していると考えるのは困難です。よって、この1886年は第11版(1920年)で「佐野みさを」を「佐野みとを」としているのと同様、誤植と考えるのが適当でしょう。

 明治・大正期の梅屋写真館の経営状態について知ることができる史料は、管見の及ぶ限りでは以上です。しかし住所のみにしぼれば、まだ有力なものが残されています。その代表的なものは、当時の香港で発行されていた新聞の広告欄です。

次回からは、この新聞資料を使って、梅屋写真館が19世紀末にクイーンズロード・セントラル・8Aにあったことを検証していきたいと思います。(つづく)

【長崎県文化振興課  佐野実】

 

参考文献

小坂文乃『革命をプロデュースした日本人』(講談社,2009)

外務省通商局編『海外日本実業者の調査 第1巻 明治36年〜大正元年』(復刻版,不二出版,2006)

島津長次郎氏編『支那在留邦人人名録』(金風社,1917―)


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