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旅する長崎学講座「蒙古襲来 神風の島 鷹島」〔in江戸東京博物館〕の質問に対する回答

2012年09月05日

 8/21(火)、江戸東京博物館で開催した旅する長崎学講座「蒙古襲来 神風の島 鷹島−水中考古学が語るもの−」が、約400名のご来場をいただき盛大に終了しました。

 参加いただいた方からは、「先生方の迫力ある説明で臨場感あふれる講演で、特に動画ビデオ資料は面白かった。素晴らしい。久しぶりに興奮しました。水中考古学がいかに大変であるかがわかり興味深かった。平戸神楽はすごい迫力でした。次は、平戸・松浦方面を旅したい。」などの声をいただきました。参加いただいた皆さんありがとうございました。

 さて、参加いただいた方からアンケートの中で質問をいただきましたので、この場をかりて回答をしたいと思います。以下、長崎学アドバイザーの本馬貞夫先生から回答をいただきました。
 


 十数人の方からご質問をいただきました。十分ではありませんが回答させていただきます。講師の高野・池田両先生が用意してくださったレジュメも再読をお願いします。
                              
○元寇と鎌倉幕府について
・北条氏の対処
 フビライからの服属を要求する国書に対して、鎌倉幕府は若き執権 北条時宗を中心に
九州の御家人に命じて防衛体制を整備しました。とくに文永の役で苦戦してからは、御家人に異国警固番役を課して防衛体制を強化し、両先生のレジュメにあるように博多沿岸には堅固な石塁(元寇防塁)を築かせました。これが弘安の役の際、東路軍の上陸を阻んだことは周知のとおりです。
・北条一族のその後
 弘安の役後も、元の襲来を警戒して異国警固番役を継続するとともに、博多に鎮西探題(北条兼時・時家)を設置して九州の御家人を統括しました。また、西国の守護に北条一門を多く配置して幕府権力を強化しましたが、文永・弘安の両役において土地を奪った訳ではないので、実戦で活躍した御家人を満足させるような恩賞(所領)を与えることはできず、幕府への不満は大きくなっていったようです。鎌倉幕府の滅亡は、元寇から約50年後の1333年のことでした。

○文永の役は脅かしだったのか
 博多に上陸して大宰府防衛前面の水城付近まで攻め込んだ元軍でしたが、突然撤退しました。理由としては高野先生のレジュメに「官軍不整、又矢盡」とあるように、元・高麗混成軍であり意見・方針の違いがあったこと、最大の武器である矢が尽きたことが撤退の主たる要因ではないでしょうか。脅かしのために膨大な戦費・犠牲をはらったとは考えられません。

○元寇の呼称について
 この大戦争は鎌倉時代以来、蒙古襲来、蒙古合戦、文永合戦・弘安合戦とか呼ばれていましたが、国学・国粋思想の影響もあって江戸時代後期からは、「元寇」「文永・弘安の役」が使われるようになりました。「蒙古襲来」だけは現在でもよく使われています。歴史教科書の表記もほぼこのあたりで統一されているようです。

 なお、元寇全般については、佐伯弘次『モンゴル襲来の衝撃』(日本の中世 9 中央公論新社)をご参照ください。

○元寇兵船について
 モンゴルは草原の民ですから水軍は持っていませんでした。高麗に命じて兵船を造らせ、1279年に南宋を滅ぼしてからは、宋の水軍を接収するとともに新規に造船を命じたと考えられます。今後の調査によって明らかになることが多いと思われますが、現時点での推測も含めたものとしてお読みください。
・兵船の大きさ、乗員数
東路軍:約4万人、900艘     1艘平均 約44人
江南軍:約10万人、3500艘   1艘平均 約29人
 これらの数字は全くの概数であり、また兵船の中には大船もあれば上陸用の小船もあったと考えられます。すべての船に兵員が乗っていたわけではないようです。江南軍の船団の中には長江(揚子江)で使用する川船が含まれていたかもしれません。外海用に比べて小型の船です。
 また、現在鷹島埋蔵文化財センターで展示されている「3号木椗」を復元すると約7mの木椗(いかり)となり、船の長さ40mクラスの大型船に使用されたと推測できるそうです。 
・元寇兵船の「碇」(椗)
 鷹島海底遺跡からは「鷹島型碇石」という二つセットで木椗に取り付けられた碇石が多く発見されています。一方、博多湾海底や平戸・五島(小値賀島)などからも「博多湾型碇石」名付けられた大型の碇石が多く発見されており、博多湾のものは通称「蒙古碇石」と呼ばれてきましたが、今日では宋・元時代の貿易船の碇石ではないかと言われています。
 これまで鷹島で発見された碇石は中国福建省の泉州で産する花崗岩であることが分かってきました。日本遠征のために急ぎ泉州で兵船を造らせた可能性も指摘されています。引き上げられた木椗はアカガシ、船材はクス、コウヨウザン(広葉杉)などで、中国南部の植生を考えれば、泉州で造られたとして矛盾はありません。

○遺物の保存問題
 上記「3号木椗」を公開展示するまでに、 ̄抜き(2年)、■丕釘如淵櫂螢┘船譽鵐哀螢魁璽襦亡淇蚕萢(10年)、真空凍結乾燥 というように3段階の処理をしなければなりません。しかもそのための大きな装置が必要でした。
 もし、今回発見されたキール(竜骨)ほか船体を引き上げるとすれば、木椗の保存処理をした装置の何倍もの大規模な装置と、保存研究所の設立、管理運営の費用(公開のためのランニングコスト)が必要となります。
 また、現在約4000点もの遺物が引き上げられていますが、今後の調査で膨大な増加が予想され、これらの保存処理及び保管施設も必要となってきます。現在の鷹島の施設ではとても収蔵できません。

○回回砲と石弾について
 もともと城壁を破壊するための回回砲を元軍は日本遠征にもってきたようで、回回砲で飛ばす石弾が鷹島では発見されています。江南軍がしばらく伊万里湾海域に留まったのは、一帯に加工しやすい玄武岩が分布していることから、それで石弾を製作して補充するためではないかという説もあるくらいです。博多上陸をさえぎられた東路軍から情報が来たのでしょうか。

○伊万里湾周辺地域に、元寇に関する資料・伝承は残っていないのか
 対馬も含めて西北九州沿岸各地に、元寇に関連付けた蒙古塚と呼ばれる積み石塚がありますが、まだ十分に調査されていません。また、元軍に殺害された日本人を祀った塚や供養塔も散在しています。鷹島には、ニワトリが鳴いたために元軍に発見され、家族8人のうち7人が殺されたという「開田の七人塚」の伝承が残っています。

○松浦党の活躍
 日本有数の海の武士団として著名な松浦党は、とくに弘安の役で大活躍しました。博多上陸を阻止された東路軍が、江南軍の到着を待つために壱岐南岸海域に集結したとき、平戸(峯)氏・山代氏・御厨氏・志佐氏などの松浦党武士団はじめ、九州各地の武士団が船を操って敵船に乗り込み、厳しく攻撃しました。竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」にはその様子が描かれています。この他、少弐氏、菊池氏、島津氏など九州の有力御家人も大いに活躍しました。
・日本軍の遺物は?
 元寇に参戦した日本軍の遺物もあるはずですが、出土しても一般的な鎧・甲、刀剣の類で、それらが元寇のときのものか、他の戦乱かどうか判断がつきません。

○倭寇の根拠地としての五島
 五島列島には北から宇久氏、値賀氏、青方氏、有川氏、奈留氏など松浦党のメンバーが割拠しており、南北朝時代を中心とした前期倭寇の時代には中国大陸、朝鮮半島と交易し、また略奪行為を行いました。根拠地はそれぞれの地域にあって山城や館跡が残っています。注目すべきは、列島中ほどの日ノ島に存在する日引石の石塔群です。日引石は福井県若狭湾の日引地区に産するもので、日本海沿岸の各地域で日引石の石塔が発見されており、日ノ島はその西端に当たります。→ 大石一久氏(長崎歴史文化博物館)の論考参照
 戦国時代の後期倭寇は、中国人主体の海商(海賊)集団といわれ、その頭目である王直の根拠地は福江島にありました。六角井戸や明人堂などの遺跡が残っています。
                                 【本馬貞夫】


 以上質問に対する回答です。今後とも「旅する長崎学」をよろしくお願いします。


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