ながさき歴史の旅
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テーマで歩く歴史散策
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2010年05月12日
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第12回 城下町“厳原”を巡る
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ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「城下町“厳原”を巡る」です。
厳原(いづはら)は、宗氏が1486年(文明18)に佐賀(さか:峰町)から移館して以降、約380年間続いた城下町です。対馬藩時代の武家屋敷跡や朝鮮通信使ゆかりの地など格式ある10万石の城下町を歩き、日朝関係の継続に尽力した歴史にも注目しましょう!
散策エリアの位置をチェック
散策コース&マップ
長崎県立対馬歴史民俗資料館
↓歩いて約5分
金石城跡(かねいしじょうあと)
↓歩いて約5分
万松院(ばんしょういん)
↓歩いて約8分
以酊庵(いていあん)跡
↓歩いて約10分
八幡宮神社(はちまんぐうじんじゃ)
↓歩いて約10分
対馬藩家老屋敷跡・武家屋敷(つしまはんかろうやしきあと・ぶけやしき)
スポットの紹介
長崎県立対馬歴史民俗資料館
※ドライブルート(2010年5月6日更新)のスタート地点
まず対馬の歴史を知るために、県立対馬歴史民俗資料館からスタートしましょう。
対馬の文化財、考古学資料、民俗資料、宗家文庫などを収蔵・展示しています。
詳しくはこちらをご覧ください。
金石城跡(かねいしじょうあと)
金石城跡
櫓門
1528年(享禄元)に起こった宗盛治の兵乱で、宗氏の「池の館」は炎上焼失しました。その後、清水山の麓の島分寺(国分寺)があったと伝えられる金石(かねいし)に、
宗家14代将盛(まさもり)は館を移して「金石の館」と称しました。そして1699年(寛文9)に21代義真(よしざね)が城郭を改修し、櫓を築いて「府城(ふじょう)」または「金石城(かねいしじょう)」とよばれました。この時代は、全国的に豪壮な築城が流行していましたが、対馬では天守閣をもつ城は築かれていません。
櫓門は1919年(大正8)に解体されましたが、1990年(平成2)に当時の写真や模型にもとづいて再建されました。
□ 旧金石城庭園
国の名勝に指定されている庭園は、当時を偲ばせてくれます。
2008年(平成20)の発掘調査により遺構の全容が明らかになりました。
玉砂利敷きによる洲浜は奈良時代から平安時代にかけて流行した様式で、近世庭園としては希少な意匠・構造をもっています。
対馬独特の風土を活かした作庭精神と骨格がきわめて良好なことから、2007年(平成19)に国の名勝指定を受けました。
■お問合せ先:
TEL:0920-52-5454
■休園日 :
火曜日・木曜日
■開館時間:
9:00〜17:00(16:30まで受付)
■見学料 :
一般300円 小・中学生100円
□ 李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑(りおうけ・そうはくしゃくけごけっこんきねんひ)
1931年(昭和6)、朝鮮王朝最後の李太王「高宗」の王女徳恵(とくへ)と、対馬藩主の後裔伯爵宗武志(たけゆき)の結婚式が東京で日本式に行われました。同年、二人は対馬を訪れ、島民の歓迎を受けました。しかし、戦後両国の関係悪化のなか、誤解や風説が流れ、1955年(昭和30)にやむなく離別することになりました。徳恵は1989年(平成元)に故国において永眠。宗武志は貴族院議員として活動していましたが、1985年(昭和60)に亡くなりました。白秋門下の詩人としても活躍し、何冊もの詩集を発行しています。
その後両国のなかで歴史が見直され、日韓交隣を促進する声があがり2001年(平成13)に対馬と韓国の両方で「記念碑復元実行委員会」が発足し、旧金石城庭園の近くに記念碑が建立されました。
万松院(ばんしょういん)
山門は、現存する対馬最古の建物で桃山様式を伝える貴重な建造物です。照葉樹林に覆われた山腹の宗家歴代の墓地がある一帯も含め、「対馬藩主宗家墓所」として国の史跡に指定されています。宗家墓所は、金沢の前田家、荻の毛利家の墓地とともに日本三大墓地といわれています。
1615年(元和元)、対馬藩2代藩主(宗氏20代)の義成(よしなり)が、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、朝鮮国交回復と苦難を重ねた初代藩主(宗氏19代)・義智(よしとし)の供養のため、金石屋形の西の峰に松音寺を創建しました。1622年(元和8)には、義智の法号にちなんで万松院と改めました。1647年(正保4)に現在地に移り、累代の菩提寺となりました。義智から15代藩主・義和(よしより)までの歴代藩主と正夫人の墓があります。
墓所は、百雁木(ひゃくがんき)とよばれる132段の石段を登った山腹の御霊屋(おたまや)にあります。中御霊屋には、厳原に最初に府を開いた宗氏10代貞国(さだくに)の墓もあります。なかでも朝鮮貿易が活況を呈し藩財政が潤っていた頃の2代藩主・義成、3代藩主・義真(よしざね)とその夫人の墓は上御霊屋にあり、ひときわ偉容です。
■拝観料:
大人300円 高校生200円 小・中学生100円
以酊庵(いていあん)跡
宗家16代・宗義調(よししげ)に招かれて、博多聖福寺の景轍玄蘇(けいてつげんそ)が対馬にひらいた禅寺を以酊庵とよびました。
景徹玄蘇は、豊臣秀吉・徳川家康の命令で、朝鮮との外交文書をこの以酊庵で取り扱かったといいます。玄蘇の弟子・規伯玄方(きはくげんぽう)が第2代となりましたが、1635年(寛永12)の柳川一件(日本と朝鮮間の国書偽造をめぐって、対馬藩主と家老が対立した事件)に関与したことから、陸奥国に流罪となりました。
柳川一件以降、以酊庵は輪番制として、京都五山から輪番で対馬へ派遣させることになりました。対馬に派遣された僧は、以酊庵に駐在して朝鮮との外交に関する往復文書を取り扱いました。輪番制には、対馬藩の朝鮮外交を監視する意味も含まれていたといいます。
以酊庵は何度か場所を変わりましたが、1732年(享保17)に西山寺に移りました。また、朝鮮通信使の宿泊所にも使用されました。
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2010年04月14日
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第11回 捕鯨・炭鉱の足跡残る島、松島
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今回の歴史散策は、西海市の松島を訪ねます。
散策コース&マップ
瀬戸フェリー乗り場
↓瀬戸から松島へは約15分
釜浦港(かまうらこう)
↓歩いて約2分
三国屋の屋敷跡(釜浦地区)
↓歩いて約3分
松島神社
↓自転車で約10分
桜坂
↓自転車を押しながら坂道を登って約10分
あこうの樹
↓自転車で約15分
日本一小さな公園
↓自転車で約8分
松島炭鉱四坑(しこう)跡
↓登り坂を自転車を押しながら歩いて約35分
遠見岳公園(とおみだけこうえん)
↓自転車で約20分(下り坂なのでスピードに注意!)
深澤与五郎の墓・浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)の墓
↓瀬戸港から車で約2分
大瀬戸歴史民俗資料館(おおせとれきしみんぞくしりょうかん)
スポットの紹介
瀬戸フェリー乗り場
松島へ渡るには、西海市大瀬戸町にある瀬戸港(せとこう)から定期船に乗ります。瀬戸から松島へは約15分です。市営船「New松島」(西海市営交通船)とフェリー「シャトル5号」(江崎海陸運送)が運行しています。「New松島」は自転車や原付バイク、二輪バイクもOK。もし、車を渡したい場合は「シャトル5号」をご利用ください。
○瀬戸〜釜浦間乗車券(片道)
■旅客運賃
大人・・・200円 小人(小学生まで)・・・100円
■旅客以外
市営船「New松島」の運賃
自転車・・・50円
原付バイク(50cc以下)・・・100円
二輪バイク(50cc以上)・・・150円
■旅客以外
フェリー「シャトル5号」の運賃
車両の長さによって異なります。
詳しくは、それぞれのサイトをご覧ください。
○New松島
http://www.city.saikai.nagasaki.jp/living/living1101-02.html
○シャトル5号
http://www.ezakikaiun.co.jp/
釜浦港(かまうらこう)
釜浦港
らくだ島
大村藩時代には、各地からの商船が盛んに出入りし、領内第一といってよいほど繁栄した港町でした。当時、釜浦港周辺には問屋や宿屋、飲み屋、遊郭などが軒を並べ、夜ともなれば三味線や太鼓の音色で賑わい、大村の城下から遊びに来る藩士も多かったといわれています。
島に来る人を出迎えるように横たわっているかわいらしい島があります。おやっ、何かに似てませんか! そう、まるで「らくだ」のようです!「らくだ島」は、いまや松島のシンボルとなっています。
三国屋の屋敷跡(釜浦地区)
当時の様子を残す釜浦地区
松島の玄関口「釜浦港」から入江沿いに50メートルほど行くと、三国屋の屋敷跡があります。松島では薩摩藩との貿易が盛んだったそうです。慶応年間(1865〜1868)には、この釜浦や崎戸の蛎浦で大村藩、薩摩藩、長州藩の倒幕の志士たちが、幕吏の目を避けて密かに謀議をこらしていたといわれ、その密会場所は釜浦の三国屋であったとされています。
1866年(慶応2)、大村藩の志士・渡辺昇は、長州藩の桂小五郎から銃器購入の世話を依頼され、大村藩の重臣たちに時局の重大さを説いてもらうことを約束に、共に長崎に赴きました。外国商館と銃器購入について交渉にあたっていたところ、桂小五郎が長崎の幕吏に見つかって捕らえられそうになったため、渡辺昇は奇策をこうじて桂小五郎を救ったといわれています。その後無事に銃器を購入した桂小五郎は、松島の三国屋に宿泊して、大村藩の家老江頭隼之助と御用人大村一学と大いに談笑し、時局の重大さについても討論がおこなわれました。
この時、桂小五郎は江頭隼之助に手土産として「国重」の刀を贈りました。また、江頭隼之助も「重秀」の短刀を桂小五郎に贈って感謝の意を表し、
夢は夢 夢の夢にて過ぎこしを 今宵はさめて 君と語りつ
と歌を詠んで、桂小五郎にその胸中を示しました。桂小五郎はこの日の歓待に感謝し、松島を去っていきました。
三国屋は火災によって焼失し、残念ながら跡形もなくなっていますが、釜浦地区の石段や建物に当時の面影を見ることができます。
松島神社
松島神社は松島釜浦郷の高台に建ち、若宮八幡宮と祇園三所天皇の二社が合祀されています。
1645年(正保2)に豊前国の小倉より八幡宮及び祇園社を奉遷し、1656年(明暦2)に現在地を社地と定めて社殿を造営し、奉祀したといわれています。その際に地元住民が奉納したといわれる「親子獅子」の舞は今も民俗芸能として引き継がれ、その時に使用した親子獅子の面とともに貴重な文化財として残っています。
境内のクスの大木や大瀬戸の景観など、とても見応えあります。
自転車で行こう!
釜浦港の方へ戻って、港の目の前に貸自転車があります。利用時間によって料金が変わりますが、300円から借りることができます。ここからは自転車で松島を一周してみよう!
受付・取扱:理容タサキ TEL:0959-22-1392
桜坂
松島の桜の名所「桜坂」です。坂道の両脇に桜の木が植えられており、開花時期には桜のトンネルとなって、人々を楽しませてくれます。
あこうの樹
桜坂を通り過ぎて登っていくと、あこうの樹と松山神社があります。このあこうの樹齢は定かではありませんが、地上1メートルの幹囲は8.2メートル、樹高は約20メートルもある巨木です。
日本一小さな公園
芝生の上にとても居心地がよさそうな手づくりのベンチがある、とても小さな公園です。五島灘を見渡すことができ、記念撮影や散策途中の休憩に最適です。
この公園は地元の方々のボランティアによって、美しい公園として保たれています。
すぐそばには上五島の奈良尾まで電気を送る海底ケーブルが設置されています。53キロメートルにも及ぶ海底ケーブルは日本最長です。
少し進むと、池島炭鉱跡が見えてきます。
松島炭鉱四坑(しこう)跡
松島の石炭採掘に関する歴史は、1782年(天明元)から始まるといわれています。この頃は時津町の住人が串島で掘り出し、さらに松島の住人2人が共同で採掘していたといいますが、なかなか石炭を売りさばくことができず、格別な利益も得られなかったので、ほどなく中止されたといいます。その後も新炭脈が何度か発見され採掘されましたが、経営は長続きしませんでした。しかし、1807年(文化9)に大村藩の直営となった頃から鉱主が増え始め、諸国から石炭積船が絶えず出入りするようになったそうです。
相次いで経営者が変わるなか、古賀善兵衛(こがぜんべえ:佐賀銀行の創始者)になってから1906年(明治39)に第一坑、第二坑、第三坑と開坑しました。1913年(大正2)に松島炭坑株式会社がこれらを買収し、1914年(大正3)に第四坑の開坑に着手しましたが、1915年(大正5)に第二坑が浸水。翌年に第四坑が完成したものの1918年(大正8)には第一坑が水没してしまいます。
山の中に点在する四角い電柱
それでも第四坑の完成によって出炭量は年間40万トンに達し、1920年(大正10)には約51万5千トンを記録して、松島石炭産業の全盛期を迎えました。
しかし、1929年(昭和4)に第三坑が、1935年(昭和10)には第四坑が水没するという大事故が発生しました。第四坑の水没事故では多くの方が犠牲となりました。その中には16歳から60歳までの女性10名の名前もあり、当時、坑内の採掘現場で女性も働いていたことがわかります。
ドイツ人技士によって建てられた赤煉瓦の建物とコンクリートの変電所跡、四角い電柱、が当時の四坑の面影を伝えています。
遠見岳公園(とおみだけこうえん)
1809年(文化6)、大村藩主・大村純昌(すみよし)はこの遠見岳に狼煙場を設置しました。そして1858年(安政5)には、純煕(すみひろ)が外国船の来航、漂着、密貿易などを監視させるため、外洋の展望のきく遠見岳頂上に番所を設けました。
現在、公園の展望所からは、素晴らしい展望とともに、眼下に広がる松島火力発電所などを見ることができます。
深澤与五郎の墓・浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)の墓・深澤与五郎(松島与五郎)の墓
田島助次郎と名乗っていましたが、2代目儀太夫(勝幸)の養子となり、平島(ひらしま:西海市崎戸町の島)の鯨組を継ぎました。1695年(元禄8)、平島から松島へ転居し、松島を本拠地として、平島、江島(えのしま:西海市崎戸町の島)から壱岐、対馬、長戸をまたぐ海域で捕鯨の操業をおこないました。松島鯨組とともに東西にその盛名をうたわれました。
巨万の富みを得、大村藩に御用金を奉上したことよって、当時の藩主・大村純庸(すみつね)から深澤氏を賜りました。
浅田弥次右衛門の墓
浅田弥次右衛門は、勤王、佐幕の対立で、国内が騒然としていた幕末の頃、大村藩で佐幕派家老として大きな力を占めていました。1864年(元治元)、当時尊皇攘夷運動の中心であった長州藩は、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)で敗戦し、朝敵とされました。幕府は長州征伐に乗り出し、大村藩へ、長崎の長州藩邸を接収するよう命じました。家老であった浅田弥次右衛門がその任務にあたりましたが、巷に流れる流言や噂などに惑わされて慎重を期するあまり、ついに接収する機を失ってしまいました。このことにより、松島に流罪となったといわれています。
自転車に乗って約10分ほどで釜浦港へ着きます。自転車を返却したら、船に乗って瀬戸港へ戻ります。
大瀬戸歴史民俗資料館(おおせとれきしみんぞくしりょうかん)
西海市役所の先に大瀬戸歴史民俗資料館があります。この資料館では、松島炭鉱の歴史やホゲット石鍋工房跡から出土した石鍋、串島遺跡の遺物など、貴重な資料が展示されています。
大瀬戸歴史民俗資料館入口に展示されている石鍋製作跡岩塊
石鍋とは、古代人や平家の落人が厨房具として使用していたのではないかといわれる石で、日本の生活史上に登場するのは平安末期から鎌倉時代といわれています。しかしその起源や消滅した時期については明らかではありません。京都や奈良をはじめ近畿地方から西日本一帯、南は石垣島に至る各地から多数の石鍋が出土していますが、その生産地は数少ないといわれています。
※資料館から車で約10分、さらに歩いて約20分ほど行ったところにホゲット第6製作所跡があります。保存状況、遺跡の規模、内容等に優れており、日本でも最大のものであることから、1981年(昭和56)に国の史跡に指定されました。
この資料館は、複製品ではなくすべて本物を展示しています。
鍋だけではなく、皿型も出土しました。貴重な唯一の資料です。
串島遺跡に関する遺物
家船のミニチュア
・大村藩と家船の関係
瀬戸(大瀬戸町)や崎戸島、蛎浦島に存在していたという家船(えぶね)のミニチュアサイズのものが、資料館に展示されています。全長10メートルほどの船の中に、食物や衣服、家財一切を乗せ、磯もぐりや沖もぐりなどの漁法で、網を使わず鉾突きで魚をしとめて暮らしていたといいます。このように舟上で生きる家船は九州東西の沿岸や瀬戸内海に存在したそうですが、大村氏領内の家船は数百年に渡り領主と特別な関係を保ってきたのが特徴です。
1474年(文明6)、領主・大村純伊(すみこれ)が有馬貴純(ありまたかずみ)に攻められ、中岳城の合戦において敗れました。敗走する純伊を救い、敵の目をくらましながら玄海・加々良島(佐賀県)の渋江氏のもとまで連れて行ったのが家船の人々でした。大村氏の領地は有馬氏の支配下に置かれてしまいますが、家船の人々は密かに旧領地と連絡をとるなど水面下で純伊を助け、旧領地の回復に多大な貢献をしました。大村氏は渋江氏の協力により、波多氏、千葉氏、平井氏との連盟をつくり、敗戦から6年後に旧領地回復を果たしました。純伊は家船の功をたたえ、領内の漁業を自由にし、家船の長に姓を与えたといわれています。その後、大村藩になっても関係は続き、家船は明治の廃藩置県まで年末年始にアワビ42杯を大村藩主に献上し、毎年、初アワビや初雲丹を藩主に献上したあとに磯開きをおこなって、漁を始めていたそうです。
取材協力
・西海市役所 水産商工観光課
参考資料
・『大村史話 上巻』(木下義春編著/大村史談会発行)
・『大瀬戸町郷土誌』
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2010年03月17日
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第10回 太古の浪漫・一支国を感じて
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ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、
「太古の浪漫・一支国(いきこく)を感じて」です。
2010年(平成22)3月14日、壱岐市に新しい歴史文化体験施設「壱岐市立一支国博物館」が誕生しました。
そしてこの博物館の眼下には、邪馬台国が存在したころの国・一支国の王都「原の辻遺跡」が広がっています。
当時の遺物の数々が展示されている「一支国博物館」と国の特別史跡に指定されている「原の辻遺跡」を訪ねて、太古の浪漫を感じよう!
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散策コース&マップ
壱岐市立一支国博物館・長崎県埋蔵文化財センター
↓車で約3分(徒歩で約30分)
原の辻遺跡 原の辻一支国王都復元公園
スポットの紹介
壱岐市立一支国博物館・長崎県埋蔵文化財センター
新しくオープンした「一支国博物館」では、“海上の貿易センター”として弥生時代に繁栄した壱岐の王国・一支国の歴史を学ぶことができます。また、東アジアを舞台に壱岐の歴史が紹介され、海を介した国々の各時代における社会情勢や時代背景などについても知ることができます。“見て・触れて・楽しむ”体験型の博物館なので、大人も子どももみんなでワクワク!感動と発見が待っている新感覚のミュージアムです。
しま全体に歴史の足跡が残る壱岐の島は、まるで“しまごと博物館”。その拠点となる情報発信の施設としての役割も果たしてくれそうです。まずは、博物館に行ってみよう!
・建物
故・黒川紀章氏の設計。県立の埋蔵文化財センターと市立の博物館が一体となった施設は、全国でも珍しい。
・エントランスホール
来館者を迎える壱岐の総合インフォメーション。奥には「邪馬台国への道」も見え、期待に胸がふくらみます。
・キッズこうこがく研究所
考古学や歴史を体感学習できる体験スペースです。土器のパズルや組み立て、発掘体験など、子どもだけでなく大人も一緒に楽しめます。
・オープン収蔵庫
普通はあまり公開されていない収蔵庫内を見せる演出です。キッズこうこがく研究所からも迫力ある貴重な遺物が閲覧できます。
・観察路
発掘調査で出土した遺物の整理を作業別に見学できる観察路です。長崎県埋蔵文化財センターと一体となった博物館ならではです。
・通史ゾーン
壱岐の歴史を、現代から一支国の時代までさかのぼる歴史通史絵巻。東アジア史と日本史の歴史事象を比較しながら紹介しています。
・古墳ゾーン
壱岐に残る約270基の古墳が物語る“古墳時代“の歴史を紹介しています。
・海の王都・原の辻
朝鮮半島と日本本土との海道を行き来していた古代船は、海の王都の象徴。櫓をこぐ体験もできます。
・一支国トピックス
一支国の王都として栄えた原の辻遺跡の世界をジオラマ模型で再現。当時の生活の様子がよくわかります。
・テーマ展示室
テーマを設定して、企画展示を行うスペースです。2010年3月14日から6月20日までは「『魏志』倭人伝の国々に残る至宝展」が開催されています。
・邪馬台国への道
中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」に書かれた一支国の様子をはじめ、邪馬台国までの国に関する情報を紹介しています。
・ビューシアター
海を介した交流によって栄えた一支国の様子をシアター映像で再現します。東アジアの視点にたった歴史ストーリーをご覧ください。
・情報プラザ
壱岐の歴史や観光をはじめ、東アジアの遺跡に関する情報などを検索することができます。
・屋上展望広場
館外の緑のオープンスペース。天然芝生の憩いの場です。深江田原に広がる「原の辻遺跡」を一望できます。
・4F展望室
エレベーターを利用して展望室に上がると、大パノラマの素晴らしい眺めが楽しめます。
「一支国博物館」の眼下に広がる「原の辻遺跡」も、「原の辻一支国王都復元公園」として整備され、一般公開されています。博物館から歩くと約30分程度(車で約3分程度)のところ。弥生時代を想像しながらゆったりと歩き、途中「大塚山古墳」や「安国寺」に立ち寄って、壱岐島の歴史に触れる散策もおススメです。
原の辻遺跡 原の辻一支国王都復元公園(はるのつじいせき はるのつじいきこくおうとふくげんこうえん)
かつて邪馬台国が存在していた時代、一支国の王都が広がっていたところです。一支国は、「魏志倭人伝」に記された国の中で、国の場所と王都の位置の両方が特定された国内唯一の遺跡です。
1904年(明治37)、松本友雄(まつもとともお)氏によって発見された原の辻遺跡では、その後の発掘調査によって、日本最古の船着き場の跡(1996年(平成8)検出)や当時の「一支国」が大陸との交流によって繁栄していたことを示す住居跡、交易によってもたらされた様々な地域の土器、中国の貨幣、日本唯一の人面石やココヤシで作った笛などが発見されています。
史跡の国宝級ともいえる“国の特別史跡”に指定され、数々の遺構や遺物の発見・検出をもとに、当時の建物などの復元整備がおこなわれてきました。今回、一支国博物館の開館にあわせて、「原の辻遺跡 原の辻一支国王都復元公園」としてリニューアル公開されることになりました。単に建物の外観の復元だけではなく、その役割によって内部もそれぞれ整備されています。
発掘から調査・復元までの経過も踏まえて、ちょっと観察してみましょう。
2005年(平成17)、遺跡の中心域の3棟が復元されました。また、この年には、丘陵の祭儀場跡周辺で大規模な土器溜りや甕棺墓、石棺墓が検出されました。
・主祭殿
神と一支国王が共に食を交わす場で、王以外の者は入室できない神聖な場といわれています。
・平屋脇殿
一支国王が神との儀式の前に身を清めたといわれています。
・大型竪穴住居(迎賓場)
一支国を訪れた使節団を歓迎するところです。
2006年(平成18)には、 遺跡の中心域の5棟と管理小屋を復元しました。また、丘陵の祭儀場跡周辺で発見された土器溜りは、その範囲が確認され、土器のほかに人骨や獣骨、丹塗りの土器なども新たに見つかりました。
・大型竪穴住居(王の居館)
一支国王が生活していたところです。
・竪穴住居(使節滞在場)
使節団が滞在する間の食材や荷物を保管しておく場です。
・竪穴住居(長老の家)
一支国の中で長老的存在の人が暮らしていた場です。
・大型壁立建物(集会場)
一支国を担う各種団の長(おさ)が集合し、話し合いを行いました。
・高床建物
滞在中の使節団の貴重品を保管するための倉庫です。
2007年(平成19)には、遺跡の中心域に5棟を復元しました。
・小型高床倉庫群(2棟)
手前は祭りや儀式に供える食材を納める倉で、奥の倉庫には祭りに用いる祭器を納めていました。
・方形壁立建物
(交易を司る者の家)
一支国の交易を司る人が暮らしていた場です。
・円形壁立住居(通詞の家)
中国や朝鮮半島に精通した人が滞在する場です。
・大型壁立建物
(使節宿泊場)
使節団に随行してきた人が宿泊する場です。
2008年(平成20)には、中心域に4棟復元しました。
・物見櫓
集落の外の動きを見張る建物です。鳴り物などの音で危険を知らせていたといわれています。
・円形壁立住居(番小屋)
物見櫓の見張り番から知らせを受けて、警備につく兵士の詰め所です。
・穀倉
収穫された米や麦などを入れる倉です。中心域の暮らしに使われていたといいます。
・交易の倉
外国や九州本土との交易品などを収めていたといわれています。
2009年(平成21)まで「原の辻展示館」だった建物は、今回の「原の辻一支国王都復元公園」において、原の辻遺跡の発掘の歴史や四季の風情を紹介するガイダンス施設の役割を果たします。
公園内には中国原産のハナモモなどが植えられ、環濠域も整備され、土器溜り遺構の露出展示もおこなわれています。
・土器溜り
一般の土器や石器などとともに、祭りに使用された土器がこの辺りにまとめて捨てられていました。
現在も発掘調査は続けられています。これまで調査が行われた部分は、広大な遺跡のなかの1割程度の面積だそうです。まだまだこの公園の下には弥生時代の浪漫が眠っているのかもしれません。今後の発掘調査もとても楽しみです。
取材協力
・壱岐市立一支国博物館
・長崎県埋蔵文化財センター
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2010年02月10日
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第9回 龍馬が駆け抜けた長崎 その2
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今回も、前回に引き続き、坂本龍馬ゆかりの地の特集です! 好評放送中の『龍馬伝』でますます注目度アップの坂本龍馬。激動の幕末を生きた龍馬の夢は、長崎抜きには語れません。彼が残した足跡をたどりながら、幕末長崎の面影を訪ねる第2回目です。
ながさき龍馬くん、今回もよろしくね。
長崎駅付近の臨時駐車場に車を止めて、さあ出発。
※ランタンフェスティバル※
平成22年2月14日(日)〜2月28日(日)
「臨時駐車場から中央橋付近までの行き方と料金」
●無料シャトルバス
土日祝日ランタンフェスティバル期間中運行
●らんらんバス
バス停「長崎駅前」で乗車し、「浜の町(S東美前)」で下車。徒歩約1分で中央橋。1回100円(小人50円)
●路面電車
電停「長崎駅前」で乗車し、「西浜町」で下車。徒歩約2分で中央橋。1回120円(小人60円)
散策コース&マップ
↓中央橋から歩いてすぐ
土佐商会跡
↓歩いて約5分
長崎まちなか龍馬館
↓歩いて約1分
清風亭(せいふうてい)跡
↓歩いて約5分
大浦慶居宅(おおうらけいきょたく)跡
↓歩いて約8分
史跡料亭 花月
↓歩いて約20分
長崎奉行所西役所跡・海軍伝習所跡・医学伝習所跡
↓歩いて約3分
唐通事会所跡(とうつうじかいしょあと)・活版伝習所跡(かっぱんでんしゅうじょあと)
↓歩いて約3分
小曽根邸跡
↓歩いて約3分
新町活版印刷所跡
スポットの紹介
土佐商会跡
土佐藩は、1866年(慶応2)に藩の経済活動を盛んにするため、この地に土佐商会を設置しました。
土佐商会は、藩の産物を売り、西洋の武器を購入しました。岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が主任として駐在し、龍馬の海援隊もここを拠点として活動した時期がありました。明治に入ると、弥太郎は海援隊と藩の海運事業を引き継いで、経営者として一本立ちし、のちの三菱財閥を築きます。
長崎まちなか龍馬館
今回の龍馬ブームにのって、「長崎龍馬の道」と名付けられた道が誕生!“長崎くんち”で有名な「諏訪神社」から「グラバー園」までの約3キロに及ぶ道です。龍馬ゆかりの地などを中心に45の史跡がこの道の周辺に点在しています。この道のちょうど真ん中あたりに位置するのが、ここ「長崎まちなか龍馬館」です。
「長崎まちなか龍馬館」は、2010年(平成22)1月2日にオープンしたばかりの情報センターです。
まずは、「長崎龍馬の道」のコンセプトとイメージが、9メートルのワイドスクリーンで上映されます。道に沿って点在するスポットや名物のほか、龍馬を取り巻く人物や当時の風景(古写真)などについて、パネルやタペストリーを使ってわかりやすく紹介しています。亀山社中から望む風景を再現した空間、清風亭(せいふうてい)で使用されていた吸物膳や蒔絵五段重などの調達品の展示、岩崎弥太郎と長崎・三菱造船の歴史の紹介コーナーなども見どころです。
龍馬にまつわる長崎市のまち歩きを楽しむためのいろいろな情報が集まっていますので、この施設をスタートに歴史探訪に出かけるのもいいですね。龍馬に関するグッズやお土産も充実しています。
顔を出して記念撮影!
■入館料
一般
300円(15名以上の団体の場合 400円)
高校生
200円(15名以上の団体の場合 160円)
小中学生
150円(15名以上の団体の場合 120円)
■開館時間
10:00〜20:00(入館は閉館時間の30分前まで)
2010年1月2日(土)〜2011年2月28日(月)の期間限定
上記期間中は、年中無休
清風亭(せいふうてい)跡
1867年(慶応3)、龍馬と土佐藩の後藤象二郎との会談がおこなわれ、日本回天の舞台ともなった料亭の跡です。この会談をきっかけに船中八策提案がつくられることになり、大政奉還、そして明治維新へと時代は流れました。
これまで清風亭がどこにあったのかわかりませんでしたが、2009年(平成21)、現代龍馬学会会員の加藤貴行氏らの調査によりその場所が特定されました。現在は駐車場になっているので面影はなく、場所もわかりづらいのですが、「長崎まちなか龍馬館」の近くです。
大浦慶居宅(おおうらけいきょたく)跡
大浦慶は、油屋の老舗に生まれました。女性の起業家として注目すべき人物で、当時は誰もおこなっていなかった日本茶の輸出事業を興します。九州各地の茶の産地の生産拡大をはかり、1856年(安政3)、イギリス商人・オルトとの間で1万斤(6トン)の貿易に成功すると、以後日本茶を海外に輸出して莫大な利益を得ました。外国人商人からも、「信用できる日本人」という評判だったそうです。彼女は、海援隊など勤王志士のスポンサーであったともいわれています。
後に、元熊本藩士・遠山一也とオルト商会との間でおこなわれた煙草の取引の連帯保証人となったことで詐欺に遭い、没落しますが、晩年に製茶貿易の功績が認められ、明治政府から功労褒賞を贈られました。
史跡料亭 花月
歴史を感じる玄関
卓袱料理イメージです
卓袱(しっぽく)料理の「卓」はテーブル、「袱」はクロスを意味します。卓袱料理は、西洋や中国の影響を受けて完成した和華蘭(和・洋・中)料理で、いかにも長崎らしい食文化。さまざまな文化を受け入れてできた長崎の格別なおもてなし料理です。
尾鰭(おひれ)と呼ばれるお吸い物に始まり、大皿に盛られた料理をみんなで楽しく分け合っていただきます。
花月でのお食事の料金はおひとり10,080円からで予約が必要です。平日のみお昼に松華堂風卓袱料理が5,200円から味わえます。
坂本龍馬や岩崎弥太郎、後藤象二郎なども訪れたという丸山の花月で卓袱料理を味わいながら、風情ある雰囲気を楽しみ、長崎の食文化を堪能するのも一興ですね。
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2010年02月10日
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第8回 大航海時代を物語る平戸城下町
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ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「大航海時代を物語る平戸城下町」です。
このエリアは、16世紀から17世紀初頭、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスの貿易船がと来航し、国際貿易の中心地となり、「西の都」とも呼ばれ栄えていました。
さっそく大航海時代の面影を訪ねてみよう!
散策エリアの位置をチェック
散策コース&マップ
平戸城・亀岡神社
↓車で約3分
平戸港交流広場
↓歩いて約5分
外国貿易船錨遣唐使船碇
↓歩いて約3分
イギリス商館記念碑
↓車で約1分
幸橋
↓歩いて約3分
イギリス商館跡
↓歩いて約1分
三浦按針の館・三浦按針終焉の地
↓歩いて約3分
王直屋敷・天門寺跡
↓歩いて約3分
寺院と教会の見える風景、コルネリアの塔(瑞雲寺)
↓歩いて約3分
吉田松陰宿泊紙屋跡
↓歩いて約3分
六角井戸、延命町(えんめいちょう)の町並み
↓歩いて約3分
藤浦洸の歌碑・平戸温泉うで湯・あし湯
↓歩いて約3分
松浦史料博物館
↓歩いて約3分
ポルトガル船入港碑・じゃがたら娘像
↓歩いて約3分
平戸オランダ商館跡・オランダ埠頭・オランダ井戸・常燈の鼻
↓歩いて約2分
オランダ塀・日蘭親交記念碑・オランダ公園
↓歩いて約3分
崎方公園からの展望
スポットの紹介
平戸城(ひらどじょう)・亀岡神社(かめおかじんじゃ)
平戸松浦氏は、豊臣秀吉権下の1587年(天正15)、63,200石の大名となり、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際は、約3,000の軍兵を率いて朝鮮半島を転戦しました。帰還後の1599年(慶長4)、初めてこの地に「日の岳城」築城すべく着手しますが、完成を間近にした1613年(慶長18)の大火によって焼失してしまいました。
1603年(慶長8)、徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任官されて江戸幕府が始まり、幕藩体制は確立されつつありました。そのような中、家康は、秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしをむけていました。松浦鎮信(しげのぶ)(法印(ほういん))はその疑いを払拭するために、日の岳城に火をつけて焼却し、所領を安堵されたともいわれています。
天守閣からの展望。かつてこの海に帆船が往来していた・・・
それから約100年後の1704年(宝永元)、幕府の許可のもと、平戸城(亀岡城)再築に着手しました。山鹿素行(やまがそこう)の軍学に沿った縄張りがなされた、全国でも珍しい城です。14年の歳月を費やし、1718年(享保3)に完成しました。
1871年(明治4)に廃城。北虎口門、狸櫓、石垣、空壕などが残っていたものを、1962年(昭和37)、平戸市が復元しました。
天守閣からの眺望は素晴らしく、遠くは壱岐まで望むことができます。平戸港を擁した好地にそびえる城は、西海屈指の名城であり、幾多の歴史を物語っています。
天守内は資料館となっており、松浦党などの貴重な資料が展示されています。このほか、弥生時代の里田原遺跡(さとたばるいせき)や遣唐使時代の資料、明治天皇とその祖母にあたる中山愛子姫(平戸出身)の資料などもあります。
狸櫓について
平戸城北虎口門から入場するとすぐに、狸櫓があります。この狸櫓は、正確には「多門蔵(たもんぐら)」というのですが、こう呼ばれています。その由来については、松浦熈(ひろむ)(観中(かんちゅう))が「亀岡随筆三十六」に次のように記していました。
“櫓の床下に狸が住みついていた。1830年頃(天保初年)のこと、櫓の修理のため床板を剥ぎ取ったところ、ある夜、小姓に化けた狸が煕の寝所にやって来て、「私たち一族を櫓に棲ませてください。そうすればこの城を永代守護します」と嘆願した。そこで、翌日、床を元通りに戻してやった。”
こんなことがあって、この櫓は、狸櫓と呼ばれるようになったそうです。
亀岡神社
亀岡神社は、1880年(明治13)、松浦詮(あきら)(心月(しんげつ))によって、従来の祖廟霊椿山神社と八幡神社、乙宮神社、七郎宮が合祀されたものです。平戸の氏神であり、また松浦家の祖廟です。4世紀頃に西海鎮護のため、志々伎(ししき)、宮の浦に駐留した十城別王(とおきわけぎみ)(仲哀天皇の弟)の武将、七郎氏広の環頭(かんとう)の太刀などを所蔵しています。
境内には、浦敬一(うらけいいち)や菅沼貞風(すがぬまただかぜ / ていふう)、沖禎介(おきていすけ)、作江伊之助(さくえいのすけ)等の記念碑や中山愛子像があります。
この平戸城と各櫓、マキ並木を有した一帯「亀岡公園(かめおかこうえん)」は、桜の名所としても人気があり、観光客だけでなく市民にも親しまれています。平戸城は、常日22時までライトアップされ、対岸の平戸港交流広場やバスターミナルからも幻想的な光景を見ることができます。また期間限定ですが、平戸大橋もライトアップされますので、記念写真に是非おさえておきたいですね。
【平戸城】
入場料金
大人500円 中人300円 小人200円
団体割引:30名様以上2割引
開館時間
8:30〜17:30
休館日
12月29・30・31日
お問合せ先
0950-22-2201
平戸港交流広場
平戸港にある広場には、観光案内所が設置されており、観光や食事処などの情報を知ることができます。2時間程度無料で駐車できるスペースも設置されています。
ここから歩いて、大航海時代の足跡を見て行こう!
外国貿易船錨遣唐使船碇
大型の錨は1952年(昭和27)に川内港から引き揚げられたもので、松浦史料博物館に展示されているオランダ船錨ともよく似ており、海外貿易で栄えた平戸の様子をうかがわせてくれます。小型の錨は1956年(昭和31)に平戸瀬戸で引き揚げられたものです。一緒に展示されている方柱状の石材は、平戸の最南端に位置する宮の浦港から引き揚げられた中国船の碇石です。
イギリス商館記念碑
イギリスと日本の交流発祥の地である「平戸イギリス商館」を記念して、1927年(昭和2)に在日イギリス人たちより寄贈され、イギリス商館跡の対岸のこの地に設置されました。
幸橋(さいわいばし)
松浦棟(たかし)(雄香(ゆうこう))の命で、1702年(元禄15)に築造された石造りのアーチ橋です。かつてオランダ商館が築造した石造倉庫の技法によって造られたといわれており、別名「オランダ橋」とも呼ばれています。
イギリス商館跡
1613年(慶長18)にイギリス商館が設置され、1623年(元和9)に撤退するまでの10年間、イギリスは平戸を拠点として日本との貿易活動をおこないました。最終的には対日貿易で成果をあげることができず、商館を閉鎖して日本から撤退しました。
商館の位置は文献には詳しく残されていませんが、オランダのハーグ国立文書館保存の1621年(元和7)の古地図によれば、今の親和銀行付近にアーチ式門、円筒形の建物が見え、この一帯にあったといわれています。
初代イギリス商館長リチャード・コックスが、日本で初めて移植栽培したと伝えられる甘藷(かんしょ)畑跡(県指定史跡)は平戸市川内町にあり、イギリスとの関係を今に伝えています。
三浦按針の館(あんじんのやかた)・三浦按針(みうらあんじん)終焉(しゅうえん)の地
三浦按針の館
三浦按針終焉の地
イギリス人ウィリアム・アダムスは、オランダ艦隊の航海長としてマゼラン海峡を経て1600年(慶長5)、豊後に漂着しました。日本に着いたのは5隻艦隊のうちリーフデ号ただ1隻のみ。2年の歳月をかけた航海は、500人近くいた乗組員のうち生きて動ける者がたったの10数名と、相当に過酷なものだったそうです。ウィリアム・アダムスは、徳川家康に謁見して信任を受け、家康の外交顧問として、三浦郡逸見村(神奈川県)に知行地を受け、三浦按針と名乗りました。
松浦鎮信(しげのぶ)(法印(ほういん))は、このリーフデ号の乗組員をマレー半島のバタニへ送りとどける役目をかってでて、1609年(慶長13)には2隻のオランダ船を平戸へ入港させます。そして、オランダの使節を家康、秀忠に謁見させて貿易と商館設置の許可を得、平戸にオランダ商館を設置することに尽力しました。さらに1613年(慶長18)には、イギリス商館も設置されます。
按針は日本と交易する諸外国と公平な立場をとるため、商館には住まず、木田弥治右衛門宅を住まいとし、在宅中はイギリス国旗を掲げていたといいます。1620年(元和6)、ここで亡くなりました。享年57歳でした。現在この館は、平戸を訪れる人々の休憩の場所として活用されています。
<ちょっと一息>(平戸伝統菓子の紹介)
平戸に伝わるお菓子を味わおう!
「三浦按針の館」でちょっと一休み。南蛮の香りただよう平戸名物のお菓子「カスドース」をお土産に買ってみました。美味しそう!
カスドース
ポルトガルとの交流によってうまれた南蛮菓子のひとつですが、長崎カステラとは一味違います。外はサックリ、中はしっとりとしているのが特長。卵と砂糖は当時大変貴重で藩主のお留め菓子だったそうです。
牛蒡餅(ごぼうもち)
中国から伝わったと言われています。慶弔時の菓子として用いられていました。その姿が牛蒡に似ていたことからその名がついたといわれています。王直が製法を伝えたという説もあります。
王直屋敷(おうちょくやしき)・天門寺跡
1542年(天文10)、中国の海商・王直が邸宅を構えたところです。この地に唐様式の建物を建て、松浦隆信(たかのぶ)(道可(どうか))の寵を得て15年間栄華を極めました。
1556年(弘治2)、王直は明に捕らわれ、処刑されてしまいます。1588年(天正16)には隆信の隠宅として用いられ、後に印山寺と称されました。
天門寺跡
1550年(天文19)のポルトガル船入港によって、平戸における西洋貿易が始まりました。しかし、1561年(永禄4)に平戸商人とポルトガル船員との間に起こった殺傷事件(宮ノ前事件)が原因となり、ポルトガル人は新たな港を求めて横瀬浦(西海市西海町)へと去ってしまいます。しかし、横瀬浦が焼き討ちにあったため、2年後には再びポルトガル船は、平戸へ戻ってきました。松浦隆信(道可)は歓迎し、この地に御宿(みやど)りのサンタ・マリア教会(天門寺)の建立を許可したといいます。
寺院と教会の見える風景、コルネリアの塔(瑞雲寺)
光明寺・瑞雲寺・正宗寺と3つの寺院に重なるように、聖フランシスコ・ザビエル記念教会の屋根と十字架が望める場所です。異国文化の溶け合う町並みに、寺院と教会が混在する平戸の象徴的な風景を堪能することができます。
周辺の石畳の階段や坂道は風情ある静かな散歩道で、観光客が記念撮影をする姿がよく見られます。
コルネリアの塔(瑞雲寺内)
コルネリアはオランダ人男性と日本人女性の間に生まれました。父親は、オランダ商館長コルネリス・ファン・ナイエンローデ。彼は10年間平戸に勤務し、1633年(寛永10)にこの世を去りました。はじめトケシヨという日本人と結婚して一女エステル(山崎甚左衛門の義姉に当たる)をもうけ、後にスリシャという女性と結婚してコルネリアが生まれました。スリシャはナイエンローデ死後復籍して判田五右衛門に嫁ぎ、コルネリアは商館に引きとられて育ちました。
1637年(寛永14)、幕府の鎖国政策により、彼女たちのような混血児はバタビア(今のジャカルタ)に追放されてしまいます。コルネリアは、その地で東インド会社の事務員ピーテル・コノルと結婚して裕福に暮らしましたが、平戸に残った母を慕い、子を抱いた自分の木彫り像を判田家に送ったといいます。1679年(延宝7)、両親の菩提(ぼだい)を弔いたいという彼女の願いによって、判田家は西久保法華宗本成寺の境内に五輪の塔を建てました。現在は、瑞雲寺境内に移されています。
吉田松陰宿泊紙屋跡
1850年(嘉永3)、吉田松陰は、山鹿流軍学を学ぶために平戸を訪れました。儒学者で平戸藩家老でもあった葉山佐内にひかれ、この地にあった紙屋に滞在しながら数多くの書物を書き写したといいます。
六角井戸、延命町の町並み
中国人の海商・王直がつくったといわれる六角井戸です。唐人や倭寇にゆかりの遺構として伝承されています。
江戸時代初期の平戸には、オランダやイギリスの東インド会社による貿易の窓口がおかれていました。この付近には川崎、半田家などの豪商や大商人が軒を連ね、武士や町人、外国人の往来が多かったといいます。
藤浦洸(ふじうらこう)の歌碑・平戸温泉うで湯・あし湯
藤浦洸は、オランダ商館跡に建った家を生家とし、詩人・作詞家として活動しました。代表作には、美空ひばりの「東京キッド」や、ラジオ体操の歌などなじみ深い作品があります。
横には、平戸温泉を無料で楽しめる手足専用の「平戸温泉うで湯・あし湯」があるので、散策に疲れたら、ここでひと休みしましょう。平戸温泉は、神経痛ややけどにも良いナトリウム炭酸水素塩泉です。(利用時間8:00〜21:00)
うで湯
あし湯
松浦史料博物館
1955年(昭和30)に開館した博物館で、松浦陞(すすむ)(如月(じょげつ))によって寄贈された松浦家伝来の貴重な資料等を中心に収蔵しています。建物はもと鶴ケ峰邸と称して1893年(明治26)に建てられた当主の私邸で、現在は国の登録文化財となっています。
館内には、オランダ製で江戸時代に松浦清(きよし)(静山(せいざん))が長崎で購入した地球儀や天球儀、異国船絵巻、室町末期の作の紺糸威肩白赤胴丸(こんいとおどしかたしろあかどうまる)など、貴重なコレクションが展示されています。地球儀をよく見ると、北海道と大陸がつながって描かれています。おもしろいですね。また、定期的に企画展も開催されています。
兜や鎧などを自由に試着して、記念撮影ができるコーナーもあります。
平戸藩最後のお殿様が建てた茶室・閑雲亭(かんうんてい)。台風によって崩壊したため復元されました。元禄時代、松浦鎮信(しげのぶ)(天祥(てんしょう))によって始められた武家茶道・鎮信流(ちんしんりゅう)。閑雲亭は、今に受け継ぐ門人たちの稽古道場となっており、茶道体験もおこなわれています。詳しくはお問い合わせください。
1997年(平成9)、博物館の敷地内にオープンした喫茶ミューゼアム「眺望亭(ちょうぼうてい)」です。外観は純和風の倉造りになっていますが、中に入るとアンティークな家具や調度品が並び、西欧の雰囲気に包まれます。少し時間をとって、景色を楽しみながらのティータイムを過ごしてはいかが?
ここでしか手に入らないオリジナルグッズも販売されています。
【松浦史料博物館】
入館料
個人:大人500円 高校生300円 小・中学生200円
団体:大人400円 高校生240円 小・中学生160円
身障者(個人):大人90円 高校生50円 小・中学生 40円
身障者(団体):大人80円 高校生40円 小・中学生 20円
※団体割引は30名様以上、一括購入のみ適用です
※身体障害者割引は、証明書が必要です
※館内は写真撮影・ビデオ撮影は禁止しています
開館時間
8:00〜17:30 8:00〜16:30(12月のみ)
休館日
年末年始のみ(12月29日〜1月1日)
お問合せ先
0950-22-2281
ポルトガル船入港碑・じゃがたら娘像
ポルトガル船が平戸に初めて来航したのは1550年(天文19)のこと。その歴史を記念し、碑が建てられています。この場所は、「王直屋敷(おうちょくやしき)・天門寺跡」のところで紹介した、1561年(永禄4)の宮ノ前事件の現場といわれています。
ポルトガル船入港碑のそばには、じゃがたら娘像があります。島原の乱以降、幕府の鎖国政策とキリシタン弾圧はますます厳しくなりました。瑞雲寺にある「コルネリアの塔」でもふれましたが、コルネリアのような混血児たちは平戸から出航してジャカルタに追放され、二度と日本には帰れなかったのです。この像は、異国より望郷の念をジャガタラ文に託す娘の姿をしのび、1965年(昭和40)に建立されました。
平戸オランダ商館跡・オランダ埠頭・オランダ井戸・常燈の鼻
古い町並みを味わいながらゆっくり歩きましょう!
1609年(慶長14)、オランダは耐火倉庫付き家屋1軒を借り受けて商館業務を開始しました。貿易の拡大とともに海岸を埋め立て敷地を拡大していきます。1640年(寛永17)、建物の破風(はふ)にキリスト生誕を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に、幕府による破壊命令がくだります。オランダ商館は1641年(寛永18)に長崎出島へと移転することとなり、平戸オランダ商館の歴史は幕を閉じました。
平戸オランダ商館跡
現在、「平戸和蘭(オランダ)商館1639年(寛永16)築造倉庫復元整備」がおこなわれており、2011年秋に完成する予定です。楽しみです!
周辺には、オランダとの交流をしめす面影が残っています。さあ、散策してみよう。
オランダ埠頭
東インド会社が所有する帆船の荷卸し、積み込みをおこなっていたところです。背後に水門があり、さらに荷物を置く広場があったと考えられています。築造年代は不明です。
オランダ井戸
オランダ商館員用の井戸として掘られたものです。オランダ埠頭と同様、築造年代については明らかではありませんが、商館移転の際に破壊を免れた遺構として貴重なものです。
常燈の鼻
1630年代におこなわれた拡張工事によって、ほぼ現在の地形が整いました。この海岸石垣も当時のものといわれています。常燈の鼻には、かつてオランダ国旗が翻っていましたが、商館が長崎へ移行した後の1643年(寛永20)に常夜燈が設置され、夜間の船の航行の安全を守る平戸瀬戸の灯台として機能しました。
オランダ塀・日蘭親交記念碑・オランダ公園
オランダ塀
石段に沿って続く漆喰(しっくい)で塗り固められた塀は、オランダ塀とよばれています。1609年(慶長14)から1641年(寛永18)までの間、この塀の東側にオランダ商館が置かれていました。商館を外から覗かれないように、この塀が設置されたといいます。塀の高さは2メートル、底辺の幅は約70センチあります。当時の様子を知ることができる遺構のひとつです。
日蘭親交記念碑
1925年(大正14)に日蘭交流発祥の地として、当時の日蘭協会が両国の親交を記念し建立したものです。除幕式はオランダ国特命公使らを迎えて執り行われました。
オランダ公園
きれいに整備されたオランダ公園。オランダ人も見ていた景観を味わおう。
崎方公園からの展望
平戸桟橋の裏手山一帯で、桜とつつじの名所として知られています。
平戸市街を見下ろす高台にあるので、対岸にそびえる平戸城や港をぐるりと囲む町並みを見ることができます。今回巡った散策コースを思い出しながら、あらためて平戸の歴史を感じてみましょう。
取材協力
・社団法人 平戸観光協会
・平戸市振興公社 平戸城
・財団法人 松浦史料博物館
参考資料
・『旅する長崎学1 キリシタン文化I』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
・「史都平戸―年表と史談―」/松浦史料博物館
・「郷土史事典」(長崎県/石田 保著昌平社出版)
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2010年01月13日
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第7回 遣唐使の旅立ちの地をめぐる
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ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「遣唐使の旅立ちの地をめぐる」です。
五島を経由した遣唐使のなかで、最も有名なのが804(延暦23)の船団。4隻の船が筑紫博多の津を出帆し、唐をめざしました。第1船には、大使・藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)、空海(くうかい)、橘逸勢(たちばなはやなり=空海・嵯峨天皇と並んで三筆のひとりと称される書道の名人)が、第2船には最澄(さいちょう)が乗船していました。後世日本を代表する名僧が渡唐したことでも特筆すべき船団といえます。
今回は、東シナ海から吹く潮風を感じながら、遣唐使ゆかりの地を辿ってみましょう!
*「高崎鼻公園」から「道の駅 遣唐使ふるさと館」へは車で移動しました。
散策エリアの位置をチェック
散策コース&マップ
柏崎公園(かしわざきこうえん)・空海記念碑「辞本涯(じほんがい)」
↓歩いて約5分
ふぜん河・岩獄神社(いわたけじんじゃ)
↓歩いて約15分
高崎鼻公園(たかさきばなこうえん)
↓車で約20分
道の駅 遣唐使ふるさと館
↓歩いて約10分
白良ヶ浜万葉公園(しららがはままんようこうえん)
スポットの紹介
柏崎公園(かしわざきこうえん)・空海記念碑「辞本涯(じほんがい)」
五島市三井楽(みいらく)は、「肥前国風土記」に『美弥良久(みみらく みねらく)の崎』として登場する、遣唐使船最後の寄港地であるといわれています。遣唐使たちはこの柏崎を日本の見納めとし、決死の覚悟で東シナ海へと漕ぎ出していきました。その心境を記した空海の名文“日本最果ての地を去る”という意味の「辞本涯」の碑や、遣唐使として旅立つ我が子の無事を祈る母の歌を刻んだ碑が建立されています。この地に立って、大海原を眺めながら詠んでみると、とても感慨深いものがあります。
江戸時代に入ると、五島は捕鯨で栄えますが、この柏地区にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを猟期として活躍したそうです。当時は、「鯨一頭捕れれば七浦潤う」といわれ、五島藩財政にとっても重要な資源でした。しかし、鯨の減少により幕末にはほとんどの鯨組が解散しました。
ふぜん河・岩獄神社(いわたけじんじゃ)
【ふぜん河】
「肥前国風土記」の中に、「遣唐の使は、この停から出発して、美弥良久の崎に至り、ここから発船して西を指して渡る」と記されています。
この美弥良久の崎が現在の柏であり、遣唐使が廃止された後も、中国へ渡航する船の日本最後の寄港地として重要な役割を果たしました。この川の水は、それらの船の乗組員たちの飲料水として利用されたといわれ、岩盤から湧き出る水は渇水期でも尽きることがありません。
【岩獄神社】
遣唐使船が柏に寄港した832年(天長9)頃、遣唐使の守護の任にあった鎖鎌(武器)の名人が、順風を待って滞在しているあいだに病死してしまったため、碑石を建ててその霊を祀ったといわれています。老松が生い茂り石垣は波に洗われていたところを、村人たちが話し合ってこの神社を建てたそうです。
高崎鼻公園(たかさきばなこうえん)
高崎草原の遥か彼方には、東シナ海を経て中国大陸が続いています。草原に落ちる夕陽や、冬の激しい白波は一見の価値があります。
この公園の広場には、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」の作者・藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母の歌碑が建立されています。
「蜻蛉日記」には、「いづことか音にのみ聞くみみらくの 島がくれにし人をたづねむ」と詠まれ、“三井楽というところに行けば、死んだ人に会える”という噂が京の都でなされていたことが書き残されています。都人にとって、五島はこの世の果てとも感じられるほど遠い存在だったのでしょう。
公園内には「万葉荒雄の路」と名付けらた散策路も設置されており、遣唐使の日本最後の地までの800mを、万葉の浪漫に浸りながら歩くことができます。
道の駅 遣唐使ふるさと館
島にある“道の駅”で、遣唐使の歴史を知ることができるスポットです。お土産や食事をめあてに立ち寄るのももちろんいいですが、遣唐使をテーマとした歴史に関する資料の展示や映像があるのでお見逃しなく!
展示コーナーでは、万葉集に掲載されている三井楽を読んだ歌などをピックアップして紹介しています。「万葉シアター」(有料)では、万葉集の「筑前国志賀(ちくぜんのくにしか)の白水郎(あま)の歌十首」で山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだという歌をテーマにした『行きし荒雄ら』と、三井楽で別れを惜しみつつ旅立つという歴史をもとにした感動のオリジナル物語『遣唐使ものがたり』の2本が鑑賞できます。
【万葉シアターについて】
■上映時間
約28分
■料金
一般:大人300円 小人200円/団体:大人250円 小人150円
(団体は15名様以上)
地域向けの企画展示スペースや休憩所もあり、五島列島の海の幸・山の幸をはじめ、椿油やご当地グッズなど人気商品がズラリと並ぶ販売所は充実の品揃えです。
展示コーナー万葉シアター入口(左端)
右は展示コーナー
特産品販売
また、収容人数70名のレストラン、研修室、五島牛焼肉コーナーもあります。
三井楽町の婦人会の方々との共同による、地元の食材・調理法にこだわった郷土料理のバイキングが定期的にレストランでおこなわれています。特産である五島うどん、つわやタラの芽の天ぷらなど季節の郷土料理も人気があります。
【道の駅 遣唐使ふるさと館】
■開館時間
9:00〜18:00
■休館日
年末年始
■レストラン
ランチタイム:11:30〜14:30
ディナータイム:18:00〜20:30
■問合せ先
株式会社 みいらく万葉村
TEL:0959-84-3555
FAX:0959-75-1021
■URL
http://www.kentoushi-furusatokan.jp/
白良ヶ浜万葉公園(しららがはままんようこうえん)
遣唐使船の日本最後の寄港地として知られる三井楽。その当時の哀歓は、「万葉集」や「蜻蛉日記」に切々と綴られています。その歴史の面影を今に伝えようと整備されたのが、この白良ヶ浜万葉公園です。
園内には、万葉集や蜻蛉日記にゆかりの歌碑や草花があり、海を眺めながら歴史や歌を楽しむ散策ができます。また遣唐使船を模したつくりの展望台からは、白良ヶ浜を一望することができます。また、大人も子どもも楽しめるアスレチック施設や自然環境が整い、憩いの場ともなっています。
■ 五島から旅立った遣唐使のその後・・・
揃って五島を出帆した4船でしたが、2日後には第3船と第4船は連絡がとれなくなってしまいました。最澄が乗った第2船は無事に唐へと渡ることができましたが、空海が乗っていた第1船は暴雨に遭い、34日の航海でようやく福建省の福州に着岸できました。しかし、福州の役人からあまりにも厳しい取り調べを受けます。そこで空海は、「我々は日本の国から来た国使である。にもかかわらずこのような厳しい仕打ちにあうのは心外である。よろしく温情を」と、大使・藤原葛野麻呂の名で書簡を書き提出しました。
この書簡を読んだ役人は、あまりの名文に驚き、「日本は東夷(とうい)の野蛮国とばかり思っていたが、こんな文章を書ける人がいたのか」とそれまでの態度を一変し、大使たち一行は正式な使者としての待遇を受けることができたそうです。
この書簡の中には、五島を旅立った後の遭難の様子が以下のように書かれていたといいます。
決死の覚悟で海に乗り出す。日本の涯(はて)の五島列島に別れを告げて中途に及ぶころ、暴雨に逢い帆には穴があき、柁は折れてしまった。天にとどかんとばかりの高い波、舟は飛び上がり流れる。波にのって船は上がったり下ったり、風にまかせて南に流されたかと思うと今度は北に流される。目に入るものは碧い空と海だけ。難波の津を出帆して二ヶ月余り、水は尽き、人は疲れ切り、海路は長く、陸地はまだ遠い。
飛鳥・奈良・平安時代に渡って派遣された遣唐使が持ち帰った知識や文物は、日本の政治や文化に大きな影響をもたらしました。自らの命もかえりみず、唐へと渡った使者たち・・・。旅立つ人、送り出す人のいろいろな想いを考えながら、遣唐使旅立ちの地をめぐる小旅行はいかがですか?
参考資料
・『福江市史(上巻)』『福江市史(下巻)』(平成7年3月31日発行)
・『郷土史事典』(長崎県/石田 保著/昌平社出版)
取材協力
・道の駅 遣唐使ふるさと館
・五島市観光協会
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2009年12月09日
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第6回 “レトロの街・雲仙”を歩こう
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ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「“レトロの街・雲仙”を歩こう」です。
四季折々の自然はもちろん、雲仙地獄や温泉など魅力がいっぱいの雲仙。古くは『肥前国風土記』で「高来峰」と呼ばれているのがこの雲仙岳であり、“温泉”についての記述もあります。雲仙はもとは“温泉”と表記され“うんぜん”と読ませていましたが、1934年(昭和9)日本初の国立公園に指定された際に、ほかの温泉地と混同しないように、現在の表記「雲仙」に改められました。かつては、キリシタン殉教地としての悲しい歴史もありましたが、明治時代からは多くの外国人観光客が避暑に訪れて賑わい、日本を代表する温泉リゾートへと成長しました。いまでも当時のレトロな雰囲気が漂います。
車で訪れる方は、各ポイントに点在する有料駐車場をご利用ください。さぁ、さっそく雲仙をウォーキング!
散策エリアの位置をチェック
散策コース&マップ
雲仙お山の情報館
↓歩いて約3分
雲仙スパハウス・雲仙ビードロ美術館
↓歩いて約3分
雲仙地獄(うんぜんじごく)
↓歩いて約3分
満明寺(まんみょうじ)
↓歩いて約3分
雲仙おもちゃ博物館
↓歩いて約20分
白雲の池キャンプ場
スポットの紹介
雲仙お山の情報館
雲仙の自然についての情報が満載の「雲仙探訪」をはじめ、ドラマチックに移り変わった雲仙の歴史を写真で紹介する「島原〜暮らしの移り変わり」など、充実した展示になっています。
2階では、「温泉」をテーマに、日本の温泉の種類や島原半島の温泉について紹介しているほか、雲仙にはどんな野鳥や植物が住んでいるのかなどをわかりやすく解説しています。
雲仙を訪れたら、最初にこの施設で雲仙の歴史と自然を知っておくと、より雲仙を楽しめる旅となります。
雲仙スパハウス・雲仙ビードロ美術館
温泉、美術館、ガラス体験工房の3つを一度に楽しめる施設です。
「ビードロ美術館」の見どころは、19世紀を中心とした世界のアンティークガラスのコレクション。ヴェネツィア、ボヘミア、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーなど、特色あるヨーロピアン・アンティークガラス約300点を収蔵しています。
ガラスづくりを体験できる「ガラス体験工房」では、“温泉(うんぜん)レモネード”の空き瓶を利用したオリジナルガラス作品を制作しています。雲仙ならではのガラスを使った“吹きガラス”を体験することができます。
「温泉スパ」では、大浴場、サウナ、岩盤浴のほか、ナチュラル志向で人気の露天風呂、屋久杉風呂、ヒノキ湯を楽しめます。
障がい者用トイレやエレベーター等の設備が整っており、安心して訪れることができます。
大浴場
露天風呂
ヒノキ風呂
販売コーナー
ガラス体験工房
ガラスのストラップづくり
雲仙地獄(うんぜんじごく)
雲仙の温泉の泉質は、硫酸イオンの高い硫黄泉で、強い酸性を示しています。古くから温泉療法に用いられ、リウマチ、糖尿病、皮膚病に効果があります。シューシューと音をたてて噴き出している噴気の最高温度は120度もあります。大部分は水蒸気ですが、炭酸ガス、硫化水素ガスを含み、強い硫黄の臭いを漂わせています。
雲仙の地獄は、面積はそう広くありませんが標高差が大きく、古くから自然の林や草原がよく保存されてきました。多くの野鳥が住み、ヒタキ科のオオルリやキビタキのほか、メジロやキセキレイなどが訪れますし、いたるところでホオジロやシジュウカラ、ヤマガラが見られます。
鳥のさえずりを聞きながら、自然の景観を堪能できる雲仙地獄の散策。所要時間は、1時間から1時間半程度です。雲仙地獄の見どころを写真でご紹介しましょう。
八万地獄
お糸地獄
温泉たまご
人が持っている八万四千の煩悩によってなされた悪行の果てに落ちる地獄のことだといわれています。
その昔、島原城下でたいへん裕福な生活をしていたのに、密通をしたあげく、夫を殺してしまったお糸という女がいました。お糸が処刑されたころにこの地獄が噴き出したので、「家庭を乱すと地獄に落ちるぞ」という戒めを込めて、この名前がつけられたといわれています。
4個入りで300円(2009年10月30日現在)。観光客にも人気で、地獄内の休憩所で味わう姿がよくみられます。
真知子岩
大叫喚地獄
(だいきょうかんじごく)
邪見地獄
(じゃけんじごく)
1954年(昭和29)に映画「君の名は」のロケが雲仙地獄でおこなわれました。女優の岸恵子さんが手を添えた石岩が「真知子岩」として脚光を浴びました。
現在、最も活発な噴気活動をしているのが、この大叫喚地獄です。雲仙地獄の一番高い位置にあり、白い噴気は30〜40メートルにも上ります。ゴウゴウという噴気音が、地獄に落ちてゆく亡者の絶叫のようにも聞こえ、この名前がつきました。
邪見というのは、人を妬む醜い心のことです。この温泉のお湯を飲むと、夫婦や友達の間で生じた嫉妬心による不和を解消するといわれています。でも実際には、強酸性の温泉で、とても飲めるようなものではありません。
雲仙地獄の悲劇〜殉教地〜
雲仙地獄は、キリシタン殉教地としての悲しい歴史も持っています。
1616年(元和2)、島原に入部してきた松倉重政は、当初キリスト教の布教を黙認していました。島原城(森岳城)の築城には領民の力も必要で、キリシタンの多い島原を治めるためでした。しかし、江戸参府時に、徳川家光から叱責されたことが原因で、突然キリスト教徒への厳しい迫害を始めました。なかなか改宗しないキリシタンに対し、弾圧はエスカレートしていきます。
松倉重政は雲仙地獄の煮えたぎる熱湯を拷問に利用しました。長崎奉行の竹中采女正重義(たけなかうねめのしょうしげよし)も長崎の牢屋にいるキリシタンを雲仙地獄に連行し、転ぶ(棄教する)よう強要しました。熱湯につけては引き上げる、この繰り返しで、10日から1ヶ月もの長期にわたって痛めつけました。
雲仙地獄で殉教したキリシタンの中に、有馬の元家臣・パウロ内堀作右衛門(うちぼりさくえもん)という人がいます。彼の3人の息子たちは拷問のすえ、水責めで命を落としました。作右衛門は指を切られ、額に“切支丹”の焼き印をつけられて、地獄責めにあいました。それでもキリスト教の信仰を貫きとおし、最期は「いと聖き聖体は賛美させられたまえ」と叫びながら、雲仙地獄のなかに消えていったそうです。一度は辛い拷問によって信仰を棄てた人々もいましたが、彼の信仰の深さに感動して再び入信した者もいたといいます。内堀作右衛門は、カトリック教会によって福者に列せられ、2008年(平成20)に、日本で初めての列福式が長崎で行われました。
地質的な見どころ〜地獄地形の進化〜
雲仙地獄では、高温の噴気や熱水が噴出しているところを間近に見ることができます。地獄地帯の岩石は、温泉や噴気の影響による変質作用を受けて分解・崩壊が進み、地表は次第に浸食されて盆地状の地獄地形が形成されていきます。
地獄地帯の変遷の過程は、「地獄地形の進化」と呼ばれ、1.原始期、2.幼年期、3.壮年期、4.老年期と識別されるそうです。雲仙地獄の新湯地帯は、活発な活動を見せていますので幼年〜壮年期、旧八万地獄は、変質地帯が侵食されつつある老年期と考えられます。
満明寺(まんみょうじ)
古代・島原半島の文化の中心が、温泉山満明寺だったといわれています。
701年(大宝元)、行基の建立と伝えられる満明寺は、子院3,800余坊、塔19基を有する大寺院で、中世末から近世初頭にかけて西日本にその大伽藍(だいがらん)を誇ったといいます。真言密教の修行道場として栄えました。
満明寺から上ると、行基菩薩像が建ち、そこから旧八万地獄へと続く散策コースがあります。
八十八ヶ所巡り
満明寺の境内に並ぶお地蔵様は、四国八十八ヶ所のミニチュア版。約20分でひとめぐりできます。
羅漢像
羅漢像は一度首を切られ、その後つながったことから、「リストラ除難」として手を合わせる人も少なくないとか。
季節の移り変わりが感じられる散策コース。
散策コースは旧八万地獄へと続く。
雲仙おもちゃ博物館
むかし懐かしいおもちゃや雑貨、お菓子などを販売・展示しています。店内に入ると、時間を忘れて夢中になってしまいます。
1階には、メンコやクジ付きお菓子、おもちゃなどが所せましと並んでいます。ついつい昔に戻って、おねだりしたくなるような懐かしさです。
2階は有料の博物館。昭和20年代からのブリキのおもちゃや当たりクジ、駄玩具など希少価値のあるものばかり、約2,000点が展示されています。とにかく今となっては、めったにお目にかかれない逸品がズラリ。
■営業時間:
8:30〜21:30(不定休)
■博物館入館料(2F):
200円(中学生以上) 9:00〜18:00
白雲の池キャンプ場
白雲の池周辺にあるキャンプ場は、自然に囲まれ、野鳥や昆虫もたくさんいます。夏は涼しく、避暑には最高の場所。湖畔からは平成新山も遠望できて、ロケーションは抜群。キャンプファイヤー(設備)やトイレ・炊事場、レクレーション広場もあります。
温泉(うんぜん)レモネード
散策していると、ちょっとのどが渇いてきました。雲仙に来たからには、ぜひとも飲んでおきたいのが「温泉(うんぜん)レモネード」です。
明治期から昭和初期にかけての雲仙では、炭酸水と砂糖を混ぜ合わせた飲料水が外国人たちののどを潤しました。そんなレトロな歴史を活かし、かつての名称「温泉(うんぜん)」を商品名にした飲み物です。ラベルのデザインは、雲仙に滞在した、アメリカのノーベル賞作家パール・バックをイメージしたものです。また、王冠のデザインは、雲仙に多く自生するミヤマキリシマをモチーフにしています。
日本一?小さな公衆浴場です。・・・たぶん
街中を歩いていると、驚く光景もしばしば。これは日本一小さいかもしれない公衆浴場です。服を脱ぐ必要もありません。なぜなら、指先で温泉浴を楽しむ公衆浴場なのです。散策途中に、ぜひ利用してみてください。
※日によって温度が違いますので、高温には注意してください。
足湯でさらに歩ける!?
さすが温泉街。足湯もあります。疲れたら足湯につかって一息。これは湯元ホテルの敷地内に設置されている「語らいの場 湯元の足湯」です。知らない旅人同士でも、ついつい語らい和んでしまう。そんな特別な場所があるって嬉しいですね。
ちなみにこの足湯、血液の循環がよくなり、美容と健康に良いそうです。肩こりや足の痛みなどの疲れを癒し、万病に効果ありといわれています。
イベント
毎年11月上旬(今年は11月3日に開催されました)には、心と体を癒す「紅葉ウォーク」が開催されています。真っ赤に染まる山々の落ち葉を踏みしめ、湯けむり漂う温泉街を自然に親しみながらゆっくりと歩いてみませんか。
また、2010年2月6日〜2月27日には、霧氷(=花ぼうろ)をイメージした「花ぼうろシンボル点灯」など、幻想的な空間を演出する「雲仙灯りの花ぼうろ2010」が開催されます。イルミネーションツリーや花火などが街を彩り、昼間の雲仙とは異なるファンタジックな夜の雲仙を体感することができます。※2010年の花火の打ち上げは、2月6日、13日、20日、27日の予定です。
・お問合せ
(社)雲仙観光協会 TEL:0957-73-3434
参考資料
・『旅する長崎学3 キリシタン文化III』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
・『旅する長崎学10 近代化ものがたりIV』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
・『郷土史事典』(長崎県/石田 保著/昌平社出版)
・『国立公園雲仙ガイドブック』
取材協力
・(社)雲仙観光協会
・雲仙お山の情報館
・雲仙スパハウス・雲仙ビードロ美術館
・雲仙おもちゃ博物館
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2009年11月11日
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第5回 有川捕鯨関連文化遺産を辿る
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ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「有川捕鯨関連文化遺産(ありかわほげいかんれんぶんかいさん)を辿る」です。
「有川捕鯨関連文化遺産」は、水産庁が2006年(平成18)に発表した“未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選”に選ばれています。この百選は、全国の漁村に残る歴史的・文化的に価値の高い史跡や施設などの文化遺産を広く公募し、応募のあった350件から、地域固有の漁業文化や珍しい建築工法や形状などを基準として、選定委員会によって選ばれたものです。
「有川捕鯨関連文化遺産」には、「鯨見山(くじらみやま)」「鯨供養碑(くじらくようひ)」「海童神社(かいどうじんじゃ)」「弁財天宮(めーざいてんぐう)」「原眞一顕彰碑(はらしんいちけんしょうひ)」が含まれています。
今回は、上五島でどんな捕鯨の歴史が繰り広げられたのか、散策してみたいと思います。さあ、未来に残したい漁業漁村の歴史を辿ってみよう!
散策エリアの位置をチェック
散策コース&マップ
鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム【有川港多目的ターミナル内】
↓歩いて約2分
海童神社
↓歩いて約8分
鯨見山(山見小屋)・鯨供養碑
↓歩いて約10分
弁財天宮
↓歩いて約8分
原眞一氏・萬一郎氏銅像
↓歩いて約1分(原眞一氏・萬一郎氏銅像と同じく中筋公園内にあります)
江口甚右衛門正利像
スポットの紹介
鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム【有川港多目的ターミナル内】
上五島の北の玄関口ともいうべき有川港に建つ「有川港多目的ターミナル」。ここに「鯨賓館ミュージアム」があります。
ミュージアムは1階と2階に分かれており、1階は日本でも珍しい鯨の博物館になっています。江戸時代の有川捕鯨、近代の捕鯨を紹介する展示や、鯨やイルカの模型など、鯨に関する資料が公開されています。捕鯨の歴史はもちろん、鯨の解体・利用、捕鯨船内の様子なども紹介されています。また、有川鯨組の多くの記録が記されている『江口文書』も展示されており、非常に貴重な資料が揃っています。
藤を巻いているように見えますが、実はこれ、セミ鯨のヒゲ板を加工してつくられているんです。世界でも珍しい大変貴重な品物です。
セミ鯨のヒゲ板を使った応接セット
2階は、上五島にある教会群と、郷土力士・第50代横綱 佐田の山を紹介するコーナーです。
新上五島町にある29の教会群と、町内丸尾郷出身で数多くの教会を設計・施工した鉄川与助(てつかわよすけ)の業績が紹介されています。上五島の教会を巡る前に訪れて、参考にしてはいかがでしょうか。
また、有川出身の横綱・佐田の山関のコーナーでは、現役時代の写真や当時の相撲映像を観ることができます。番付(ばんづけ)や化粧回し、優勝盃、敢闘賞・殊勲賞・技能賞の杯などが展示されています。相撲ファンでなくとも、一見の価値があります。
開館時間:
午前9時〜午後5時
入館料 :
一般…………200円(団体・15人以上…150円)
小・中学生…100円(団体・15人以上…50円)
休館日 :
毎週月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日)
海童神社(かいどうじんじゃ)
この海童神社は、1973年(昭和48)に捕獲された、体長18.2メートルのナガスクジラの顎(アゴ)の骨でできた鳥居があることで知られています。捕鯨で栄えた有川地域を代表するもののひとつです。
1617年(元和3)から1619年(元和5)の間、毎年6月17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次ぎました。人々が気味悪く思っていると、時の乙名役(おつなやく)、高井良福右衛門の夢枕に海神様が立ち、言いました。
「わしは、この地にずっと昔から住んでいるものだが、誰も祀ってくれるものがいない。以後わしを祀るものがいれば、願いを叶える」
早速福右衛門は、村の人々に計り、当時小島だった地に海神様を祀って、即席の芝居を奉納したところ、溺死する者がいなくなったといいます。
これが今でも「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残っており、例年7月の第4日曜日に行われます。花火を合図に海童神社に奉納され、その後三味線や太鼓を響かせながら町中に繰り出して、数カ所の踊り場で寸劇が演じられます。多くの人出で賑わいます。
鯨見山(くじらみやま)・鯨供養碑
有川湾では、江戸時代の初めごろから明治時代まで捕鯨が行われていました。一番多く捕れた年は、1698年(元禄11)の83頭で、「鯨が一頭捕れると七浦が潤う」といわれた頃の有川の繁栄を物語っています。
この山の頂上には「山見小屋」が置かれ、そこから鯨が来たことを知らせたり、出漁の合図などを行っていました。
見晴らしがよく、透き通った海や有川の町並みもよく見えます。
鯨供養碑
鯨見山にある山見小屋のすぐ傍に、鯨の供養碑があります。
1712年(正徳2)、江口甚右衛門正利(えぐちじんえもんまさとし)は、供養碑を建てました。碑文には、1691年(元禄4)から1712年(正徳2)までの21年間に、鯨を1312頭捕獲したことが刻まれています。
石塔には、「鯨」のことを「鯨鯢」と標記されていますが、「鯨」はオスくじら、「鯢」はメスくじらを意味しています。
このような鯨供養碑は、有川対岸の新魚目(しんうおのめ)、五島市の富江町(とみえちょう)にもあります。この西海の地で鯨がいかに多く捕れていたかがわかります。
弁財天宮(めーざいてんぐう)
有川では、1626年(寛永3)に江口甚左衛門正明(えぐちじんざえもんまさあき)が紀州古座三郎太郎と鯨組を組織し、鯨漁を行いました。
1661年(万治4)、江口甚左衛門正明は61歳で死亡し、甚右衛門正利(まさとし)が有川庄屋及び総名主を継承します。しかし、富江領が分立して有川の海は富江領とされたため、五島藩の有川村民の入漁猟は一切禁止されてしまいました。
甚右衛門正利は村民の窮状を救うため、藩の重役たちに必死で訴えを繰り返しましたが、富江は大村藩の深沢義太夫(ふかざわぎだゆう)に15年間の捕鯨権を与えてしまいます。双方の争論は絶えず、ついに甚右衛門正利は江戸公訴を決意します。この事件は有川・魚目の海境争いとよばれます。
江戸へ四度、幕府評定所はその決死の訴えに、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と二度にわたり、有川村に海の権利を公認しました。
江戸へ行き直訴していた甚右衛門正利は、道中、鎌倉の弁天様に勝訴の祈願をしていました。有川の勝訴で決着したことから、1691年(元禄4)にこの分霊を浜の小島に祀り、有川鯨組の守り神として、年の初めに鯨漁の安全を祈ったそうです。それから300年余り、鯨組や有川の守り神として住民の厚い信仰を受けてきました。
弁財天宮の入り口には、現在散策路が設置されており、透き通る青い海を眺めながら美しい砂浜へ歩いていけます。
【弁財天(メーザイデン)】
毎年1月第三日曜日、鯨を捕まえる羽差(はざし)の姿をした若者たちが太鼓をたたき、鯨唄を歌いながら地区内を練り歩き、大漁、商売繁盛、家内安全を祈願する行事が行われます。300年以上も前の慶長年間に始まったといわれています。
原眞一氏・萬一郎氏銅像
有川・中筋公園に、原眞一・原萬一郎親子の像が建てられています。この二人は、有川の近代捕鯨において大きな功績を残しました。
原眞一は、1905年(明治38)、長崎に「富田屋」を開店して、中国貿易、トロール漁業、捕鯨業などをはじめます。そして、1908年(明治41)には大阪に東洋捕鯨株式会社、原商事会社を設立します。
翌年には不振に陥った五島捕鯨会社を吸収して、失業する郷土の従業員を残らず雇い入れ、また有川村救援資金を設けて村民の生活を助けるなど、郷土の発展に尽くしました。
原眞一の息子・萬一郎は、東洋捕鯨株式会社の三代目社長となり、近海式捕鯨の大不振期に母船式の遠洋捕鯨に着目し操業しました。商業時代最盛期には、旧有川町から600名以上の人々が捕鯨に従事したそうです。萬一郎は、現在も五島航路を運行する九州商船(設立:明治44年)の初代社長も務めました。
江口甚右衛門正利像
弁財天宮で紹介した江口甚右衛門正利の像です。有川・魚目の海境争いの時、江戸へ行って決死の訴えを行い、有川村に海の権利を公認させた彼の業績を後世に顕彰するため、1999年(平成11)、像が建立されました。
参考資料
・上五島町郷土誌(平成16年発行)
・郷土史事典(長崎県/石田 保著昌平社出版)
取材協力
鯨賓館ミュージアム
新上五島町観光物産協会
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2009年10月14日
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第4回 元寇・・・そしてモンゴルとの友好の証を辿る
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ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「元寇・・・そしてモンゴルとの友好の証を辿る」です。
700有余年の昔、“元寇”最終の地となった鷹島。総勢14万といわれる元の大軍が、「神風」とも呼ばれる大暴風雨によって、ここ鷹島沖で海の藻屑となって沈んでいったという歴史的な場所です。水中考古学の宝庫、元寇・ロマンの島として注目されています。
さあ、元寇の歴史を見つめ、それを踏まえて今のモンゴル国との友好の証を感じよう! さっそくウォーキング!!
散策エリアの位置をチェック
散策コース&マップ
龍面庵小弐公園(りゅうめんあんしょうにこうえん)
↓歩いて約8分
宮地嶽史跡公園(みやじだけしせきこうえん)
↓歩いて約15分
鷹島モンゴル村
↓歩いて約20分
白浜海水浴場
スポットの紹介
龍面庵小弐公園(りゅうめんあんしょうにこうえん)
少弐景資(しょうにかげすけ)は、元寇のとき、最前線の指揮官として活躍した人物です。ここは、弘安の役の際に彼が本陣をおいたところと伝えられています。
大暴風雨によって元軍の船団がほとんど沈没したものの、約5,000人の元軍が鷹島に上陸したとの急報を受けた少弐景資は、博多から駆けつけ、約一週間にわたる戦いの末、敵兵を全滅させたといいます。境内には無数の供養塔がひっそりと建っています。少弐景資に従って戦死した兵士の墓もあります。
すぐそばに少弐景資の像が建立されています。この公園からは、阿翁浦(あおううら)港が一望できます。
無数の供養塔
小弐景資の像
宮地嶽史跡公園(みやじだけしせきこうえん)
1970年(昭和45)に史跡公園として整備されました。玄界灘が一望できる高台にあり、絶景を楽しめます。元寇記念之碑、五輪塔があります。
元寇記念之碑
1915年(大正4)に当時の村青年会が中心となって、5月に着工し、7月30日に完成しました。以来、青年団による「元寇記念祭」が毎年8月30日に開催されています。
1976年(昭和51)、阿翁免・猿田神社境内にあったものを、宮地嶽史跡公園に移転建立しました。
鷹島モンゴル村
“元寇の歴史を中心に新しいまちづくりを”
鷹島の最北端に位置する1平方キロメートルのこの地は、元軍を迎撃したところと伝えられており、遠矢の原(とやのはる)とよばれています。江戸時代には、御備えと称し、武技を訓練する場所として常時弓矢や大筒を備え、守備隊約20名が駐屯していたといいます。
今は美しい自然を生かした“鷹島モンゴル村”がオープンし、鷹島とモンゴル国の交流のシンボル的な施設となっています。鷹島町は1988年(昭和63)からモンゴル交流団の派遣などで交流のあったカラコルム地方のホジルト市と1991年(平成3)7月に「姉妹縁組み締結調印」を交わしています。その2年後の1993年(平成5)、この原野に宿泊できるゲル30基を並べ、「鷹島モンゴル村」がオープンしました。
シンボル広場
コンビネーション遊具
【ゲル村】
ゲルは、モンゴル高原の遊牧民が住む移動式の住居で、パオとも呼ばれます。モンゴルからはるばる運んできた本物のゲルを30基設置しており、宿泊ができます。モンゴル遊牧民の生活を体感してみませんか!
ゲル村:30基のゲルを設置
ゲル村:ゲルの内部
【モンゴル生活館】
モンゴルの生活用具や民族衣裳を展示し、遊牧民の文化がわかるように整備されています。
【モンゴル温泉 草原の湯】
2002年(平成14)にオープンした温泉センターは、流水を取りいれた12種類のお風呂と、海を望む素晴らしい景観を堪能できます。展望大浴場は水着で入ることができ、ジャグジーや瞑想浴等の温泉で疲れを癒すことができます。
展望大浴場
ジャグジー
入浴料
大人500円 小人300円(宿泊時150円)
定休日
毎月第3水曜日
営業時間
11:00〜22:00頃
問合せ先
鷹島モンゴル村 TEL:0955-48-2331
毎年7月下旬には「鷹島モンゴル夏祭り」が開催されています。また11月におこなわれる「鷹島モンゴルまつり」には、大島部屋のモンゴル出身の力士たちも来島し、まつりを盛り上げてくれます。農水産物、石工製品など特産品の展示即売やよさこいダンス、元寇太鼓演奏などイベント盛りだくさんです。
白浜海水浴場
真っ白い砂浜に穏やかな波が打ち寄せるビーチは、透明度も高く、夏は多くの観光客で賑わいます。トイレ、更衣室、シャワー室(男女それぞれ完備、1回100円)、駐車場(無料)なども完備されています。
※施設内でのキャンプ及びバーベキュー等はできません。
参考文献
『鷹島郷土誌』(昭和50年発行)
『元寇ロマンの島 鷹島史跡めぐり』(鷹島町教育委員会)
取材協力
松浦市鷹島支所 地域振興課
鷹島モンゴル村
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2009年08月12日
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第3回 “軍艦島”と呼ばれた炭坑の島・端島
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歴史発見ドライブルート(平成21年8月5日更新)で旅した高島。権現山(ごんげんやま)公園・展望台に向かう途中から見えた端島(はしま)は、まるで海に浮かぶ軍艦のような島でした。いったいどんな島なのだろうか? ぜひ行ってみたいっ!!
今回の散策コースは、『軍艦島』とよばれた端島(はしま)にクローズアップします。テーマは、「“軍艦島”と呼ばれた炭坑の島・端島(はしま)」です。
1974年(昭和49)に閉山し、無人の廃墟となった今も人々のイマジネーションをかき立てる『軍艦島』。さあ、いま話題の軍艦島に近づいてみよう!
端島(軍艦島)の紹介
1810年(文化7)に石炭が発見され、その後鍋島藩が小規模な採炭をおこなっていました。1890年(明治23)三菱社が、旧深堀鍋島家当主鍋島孫六郎から10万円で譲り受け、1974年(昭和49)1月15日の閉山までの85年間操業を続けました。
長崎港から南西に19kmの沖合いに位置し、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1,200m、面積約63,000平方メートルという小さな島です。護岸堤防が島全体を囲い、高層鉄筋住宅が建ち並ぶその外観は世界的にも珍しく、また軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」とよばれるようになりました。1916年(大正5)、4月7日の大阪朝日新聞で「二本煙筒の巨大な軍艦に似ている」と報道されて以来、「軍艦島」という愛称は全国的に知れ渡ることになります。
閉山後、長い眠りについていましたが、2009年(平成21)1月に世界遺産暫定リストに掲載された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産のひとつとして、また新しい歴史を刻もうとしています。
軍艦島クルーズに参加するには
軍艦島クルーズとは
軍艦島クルーズには、「軍艦島クルーズ上陸コース」と「軍艦島クルーズ周遊コース」と2つのコースがあり、1日2便ずつ運航されています。全便予約制で、前日までに予約が必要です。大人気のクルーズですので、早めに予約されることをオススメします。
軍艦島クルーズ上陸コース
長崎港を出港して帰港するまで170分のコースです。ドルフィン桟橋に上陸し、安全に整備された見学コースをガイドの案内について歩きます。料金は、大人4,300円(船運賃 4,000円・施設使用料 300円)、中高生3,500円(船運賃 3,200円・施設使用料 300円)、小人2,150円(船運賃 2,000円・施設使用料 150円)です。上陸コースに参加するために必要なことはこちらをご覧ください。