ながさき歴史の旅

ホーム   >  ながさき歴史の旅  >  ながさき歴史散歩

ながさき歴史散歩

  • 第37回 身近な友人 中国との交流を探る 2009年05月27日
    第37回 身近な友人 中国との交流を探る
    ~唐通事の足跡と四福寺~  長崎独特の空気感や文化は「和華蘭(わからん)」といわれます。日本と中国、オランダの文化が混ざり合って同居しているところから「よく分からない」という意味の掛詞で、文化のるつぼ「長崎」のことをよく表しています。  「漢字」「陶磁器」など、日本は古くから中国の文化や習慣の影響を受けてきました。特に長崎は、江戸時代、中国と貿易を続けていたため、長崎に住む中国人たちも多くいました。また、交易の中で外交官のような役割を果たす唐通事[とうつうじ]が大活躍しています。  オランダ通詞を「通詞」と表記するのに対して、「唐通事」は「通事」とされます。「唐通事」は、貿易に関することはもちろんですが、唐人屋敷の住民や乗組員の生活など広い範囲にわたって世話をしたからだといわれます。当時の海外との交易は対中国が3分の2ほどを占めていたそうです。  今回の歴史散歩では、唐通事の墓や中国寺を訪ねながら、歴史的にとても交流の深い、身近な国「中国」とのかかわりを見つめてみましょう。 歴史のとびら  戦国時代の末期から、九州各地に中国人たちが住み始めました。長崎に住み着いた中国人は、長崎港における対中国貿易を支えます。1603年(慶長8)、長崎奉行の命令で、憑六(ひょうろく)が最初の唐通事になりました。憑六は中国の山西省の東南部の出身という説があり、後に唐通事を代々受け継ぐ平野氏のルーツとなります。こうして日本人の母方の姓を名乗ることを長崎奉行所に許され、二世、三世と代々唐通事の役目を担いました。時代とともに唐通事を世襲する家は増えていき、70近くあったようです。唐通事の役職や年齢などを記録した『訳司統譜』によると、1867年(慶応3)に解散されるまで、延べ1,600人を超える唐通事がおり、頴川家(えがわけ)や林家(はやしけ)、彭城家(さかきけ)などは名門といわれました。  しかし、中国との貿易も次第に廃れていきます。貿易が衰退する一方で、唐通事たちは階級を増やし、人数を増やしていきました。受用銀12貫目を給与としていた大通事でしたが、四分の一の3貫目という困窮した時代も・・・。しかも親が現役の唐通事の場合は子供は無給という一家族に一給与しか与えないなどの厳しい対策がとられたこともあったそうです。  幕末になると、没落していく家がある一方で、一部の唐通事たちは英語やフランス語の通訳へと転換しつつ、西欧諸国との交渉などに借り出されていきました。  現在、長崎には中国寺が多く残っています。16世紀末、長崎に在留する中国人たちは稲佐地区の悟真寺を菩提寺とし、墓地をつくりました。その後、1637年(寛永14)に起こった島原の乱以降、キリスト教の取り締まりが強化される中で、「三福寺」とよばれる「興福寺」「福済寺」「祟福寺」が次々と建立されていきます。命がけの航海の安全を祈願したり、異郷の地で命を落とした仲間の弔いをしたりというのはいうまでもありませんが、出身地方によって寺は分かれていて、今でいう「県人会」のような役割も果たしていたのではないでしょうか。その中心はやはり唐通事たちだったようです。三福寺の創建から約半世紀遅れて、「聖福寺」が建立され、こうして長崎の「四福寺」の歴史が始まりました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 1福済寺と頴川家の墓 ↓徒歩約5分 2聖福寺 ↓電停「桜町」から「新中川」まで 路面電車で約10分 徒歩約10分 3東海さんの墓 ↓徒歩約15分 4長崎聖堂跡 ↓徒歩約15分 5興福寺と長崎聖堂の門 ↓徒歩約15分 6祟福寺 1福済寺と頴川家の墓  福済寺の裏には頴川家と寺の歴代住職の墓があります。馬蹄形に組まれた石垣で取り囲む特有のスタイルが印象的です。頴川家は代々唐通事の家柄で、福建省から渡ってきた陳冲一(ちんちゅういち)を開祖とし、その長男である藤左衛門(とうざえもん)が頴川家の初代となりました。藤左衛門は1628年(寛永5)に建立した福済寺の檀家の筆頭で、寺の整備に尽力しました。唐通事界のトップに君臨し、経済的にも社会的にも恵まれていたからだといわれます。  残念なことに当時の福済寺は1945年(昭和20)の原爆で焼失。現在の寺は戦後に新しく建てられました。昔の面影は頴川家と歴代の住職の墓にしかみることができません。  現在の福済寺の大きな如来像の中には、世界一の大きさを誇る「フーコーの振り子」があります。絶え間なくゆっくりと動く振り子が一時間おきに棒を倒す様子から、地球の自転を目で見て実感できます。 2聖福寺  福済寺裏の墓地を通って歩いていくと、長崎の四福寺のひとつ聖福寺にたどり着きます。聖福寺は1677年(延宝5)に建立されました。「桃」「こうもり」「牡丹」「龍」。境内には、中国らしい植物や動物がたくさん“住んで”います。これらの意匠はひっそりとした寺の雰囲気にぴったりで、緑と静寂に包まれた空間は日常の喧騒を離れ、心を落ち着かせてくれます。 3東海さんの墓  長崎市桜馬場町の春徳寺の裏に広がる墓地の中に、ひと際大きな墓が目をひきます。これが「東海さんの墓」です。墓にまつわるエピソードが残っています。  唐通事だった東海徳左衛門(とうかいとくざえもん)は約50年もの間、その役職に就いていました。東海家の開祖で両親だった徐敬雲(じょけいうん)夫妻のために、1670年(寛文10)ごろから墓をつくり始めましたが、細かい指示を出していたため、いっこうに工事が進まず、1677年(延宝5)ごろにようやく完成しました。しかし、墓をつくった本人は消息不明となり、結局、墓に入っていないそうです。長崎では、仕事などが長くかかってはかどらないことを「東海さんの墓普請(はかぶしん)」といいます。 4長崎聖堂跡  1647年(正保4)、儒学者の向井元升(むかいげんしょう)は後興善町に孔子廟と私塾をつくりました。その後、東上町に移転し、「立山書院」と名づけ、多くの儒学者を育てています。1711年(正徳元)には中島川沿い(現在の伊勢町あたり)に移転し、「長崎聖堂」または「中島聖堂」と呼ばれました。このときの孔子を祭る儀式の内容はその後、聖堂の大切な儀式として受け継がれていきました。聖堂設立は中国文化への敬意でもあったようです。東京の湯島聖堂、佐賀の多久聖堂とともに、日本三大聖堂の一つといわれるようになりました。  しかし、明治になって聖堂は閉鎖。1959年(昭和34)、門扉が興福寺境内に移築されました。 5興福寺と長崎聖堂の門  日本最古の黄檗宗の寺である興福寺は1620年(元和6)に創建されました。創建当時の檀家には、唐通事の祖となる面々が名を連ねました。  寺の見どころはたくさんあります。国指定の重要文化財である大雄宝殿(本堂)はもちろん、媽祖堂、鐘鼓楼などは独特の趣があります。4で紹介した長崎聖堂の移築された門も境内にありますので、お見逃しなく。 6祟福寺  「第一峰門」と「大雄宝殿」の2つの国宝、鐘鼓楼など3つの国指定重要文化財を有しています。2つの国宝は中国で組まれて、船に載せられたといわれ、屋根の部分の細かな装飾は、何ともいえない美しさを放っています。 〔文:大浦由美子〕 参考文献 『長崎唐人の研究』李献璋(新和文庫) 『唐通事家系論攷』宮田安(長崎文献社) 『中国文化と長崎県』長崎県教育委員会 『長崎唐人屋敷』山本紀綱(謙光社) 『長崎県の文化財』長崎県教育委員会 スタート地点までのアクセス 福済寺と頴川家の墓 所在長崎県長崎市筑後町2-56 駐車場あり 料金大人 200円、小中学生 100円 営業時間7:00〜17:00 休業日無休 お問い合わせ  TEL095-823-2663 アクセス  JR…JR長崎駅から徒歩8分
  • 第36回 2つの西海橋と3本の無線塔がある風景 2009年04月15日
    第36回 2つの西海橋と3本の無線塔がある風景
    〜急流の針尾瀬戸から針尾送信所無線塔を望む〜 歴史のとびら  佐世保市と西海市間の有料道路「西海パールライン」に、2006年(平成18)3月、美しいアーチ線形を描いた「新西海橋(しんさいかいばし)」が開通しました。そばに寄りそうように架かる「西海橋」は、1955年(昭和30)12月に完成した312mの歴史ある橋。完成当時は固定式アーチ橋として東洋一(世界第3位)の規模を誇り、全国初の有料橋として営業を始めたのがこの橋でした(現在は無料)。  この2つの橋の景観を比べてみると、西海橋には威風堂々とした紳士の風格を、新西海橋にはしなやかで凛とした貴婦人のような趣を感じます。これらの橋から針尾(伊ノ浦)瀬戸を挟んで3本の巨大なコンクリートの塔が見えてきますが、これが佐世保市針尾中町にある針尾送信所無線塔です。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1時間 1西海橋 ↓車で5分 2新西海橋 1怪獣映画に登場した西海橋!  「西海橋」といえば、開通の翌年(1956年)に『空の大怪獣 ラドン』という怪獣映画に登場しています。この映画は東宝の特撮怪獣映画の記念すべきカラー作品第1号。つまり、赤いアーチ橋の西海橋はいきなり総天然色で全国に紹介されたのです。しかしながら、当時東洋一の規模を誇ったのがあだになってしまったのか、超高速で飛ぶ鳥獣ラドンの翼から繰り出される衝撃波で、完成したばかりの西海橋が破壊されるという、県民にとってはショッキングなシーンになってしまいました。この映画には当時の佐世保駅などがロケ地として登場し、懐かしい昭和30年代の町並みを知る、格好の材料ともなっています。 2新西海橋の歩道から潮流が見える!  新西海橋の全長は約620m。西海橋はアーチの上に車道と歩道がありますが、新西海橋はアーチの中間部分に道路(上は車道、下は歩道)が位置するという構造になっています。  新西海橋を車で渡ってみました。橋の中央に近づくとライトブルーのアーチが左右に見えてきて爽快な気分になります。車で渡ったあとは、下の歩道橋を歩いてみましょう。心地よい潮風が通りぬけていきます。しばらく歩くと真ん中付近に休憩所があるので、ちょっと足を止めてひと休み。すると、足元に設置された丸いガラス窓を発見!ガラス窓を通して真下の海をのぞくことができるのです。全国有数の急流で知られる針尾(伊ノ浦)瀬戸の豪快なうず潮が真下でグルグル・・・。吸い込まれそうなスリルの中で、このうず潮を見ることができますが、高所恐怖症の方にはガラス越しとはいえ、ちょっと怖いかもですね。  さて、この新西海橋も映画に登場しています。開通の前年(2005年)のこと、作品は『釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった』。バーの経営者・輝男(尾崎紀世彦)とハマちゃん(西田敏行)が、佐世保の街をテーマにした曲を歌うシーンが印象的な映画でした。新西海橋は、ハマちゃんが勤める鈴木建設が着工した「第二西海橋」という設定で連結式のシーンに華やかに映し出されました。しかしこの場面の影響か、いまだに橋の正式名称を「第二西海橋」だと思いこんでいる地元の人が多いとの噂もあるそうです。 圧倒される高さの針尾送信所無線塔  西海橋・新西海橋から針尾瀬戸を挟んで、煙突のようにそびえたつ3本の塔が見えます。この針尾送信所無線塔は、旧日本海軍が1918年(大正7)から4年の歳月をかけて1922年(大正11)に完成させたものです。終戦後は1948年(昭和23)に発足した海上保安庁(佐世保海上保安部)が管理を引き継ぎ、1997年(平成9)まで現役で海難通信や海上保安業務に大活躍しました。  旧日本軍は、1941年(昭和16)12月2日、「ニイタカヤマノボレ一二○八」という大平洋戦争開戦を指示する歴史的な暗号文を送信します。これは連合艦隊の戦艦長門から発信され、有線ケーブルを経由して針尾送信所無線塔から中国大陸や南大平洋の部隊に伝えられたといわれています(ほかにも諸説あります)。  異様に高い塔が建設された理由ですが、完成当時は無線電波が中波や短波ではなく、長波だった関係で、高い場所にアンテナ線を張る必要があったと考えられており、こんなに存在感のある高い煙突の施設になったそうです。  2つの西海橋と3本の無線塔があるこの風景は、いまや佐世保を代表する風景のひとつとして、市民にもちろん県民にも親しまれています。オススメの時期は、約1500本の桜が咲き誇り、豪快なうず潮を見ることができる春ですが、それぞれの季節ごとに素敵な風景を魅せてくれますので、ぜひお出かけください。 〔文:小川内清孝〕 参考文献 『旅する長崎学8 近代化ものがたり2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 参考資料 「佐世保海上保安部業務紹介」ホームページ スタート地点までのアクセス 西海橋 所在長崎県佐世保市針尾東町 アクセス  JR・バス…JR佐世保駅から西肥バス「西海橋コラソンホテル行き」西海橋東口下車(約40分) 車…西九州自動車道「佐世保大塔IC」から国道205号を5km長崎方面に走った江上交差点を右折、さらに国道202号を西海方面に10km お問い合わせTEL/0959-28-1913
  • 第35回 十万石の城下町の面影がのこるまち“厳原” 2009年03月18日
    第35回 十万石の城下町の面影がのこるまち“厳原”
    〜朝鮮通信使が見た府中〜  長崎県の北東に位置する対馬の空港(美津島町)に降り立つと、日本語とハングルの案内板が目に飛び込んできます。朝鮮半島に近い国境の島には、 異国から運ばれてくる特有の“空気と時間”が流れていました。対馬空港から車で15分ほどの、島南部にある対馬市厳原町(いづはらまち)は、 江戸時代に対馬藩主宗(そう)氏の城下町「府中(ふちゅう)」として栄えました。朝鮮から派遣された使節「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」が最初に上陸する日本の島が対馬でした。 当時、朝鮮との交易や交流の窓口となっていた対馬藩は、藩をあげて朝鮮通信使をもてなしました。今回は、城下町の風情が残る厳原町を散策しながら、 朝鮮通信使ゆかりの地や足跡を訪ねる旅です。 歴史のとびら  1719年(享保4)、江戸時代9回目の朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)が来日しました。その中に製述官(せいじゅつかん)として随行したのが申維翰(シンユハン)です。 彼はのちに『海游録(かいゆうろく)』という記録を残しています。『海游録』には対馬の佐須浦(佐須奈)などを経て、6月27日に府中(厳原)に到着した様子が描かれています。 到着後に藩主による歓迎式がおこなわれ、府中に3週間滞在したのち、藩主船の先導で壱岐に向かったことなどが記されています。 申維翰はこのとき藩の朝鮮外交を担当していた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)と出会いました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3〜4時間 1以酊庵跡(西山寺) ↓徒歩10分 2長崎県立対馬歴史民俗資料館 ↓徒歩5分 3金石城跡 ↓徒歩5分 4万松院 ↓車で10分 5武家屋敷・城下町跡 ↓車で10分 6雨森芳洲の墓 ↓車で10分 7朝鮮通信使客館跡(国分寺) 1以酊庵跡(西山寺)  府中に上陸した朝鮮通信使一行は、正装をして、国書を奉じ、楽隊を組んでくり出しました。 華やかな行列の向かった先は西山寺(せいざんじ)でした。西山寺は外交僧の玄蘇(げんそ)や弟子の玄方(げんぽう)が居住した以酊庵跡(いていあんあと)。 使節の宿泊所にもなりました。『海游録』によると西山寺は当時新築で、飯、羹(かん)、菜、魚、果物などの食事が出されたとの記述があります。 食事の膳は14、5歳の小姓(こしょう)が運んだようです。 申維翰は食事のあとお茶をすすりますが、「味は苦いが、湯を吹いて小飲すると胸中が爽快であった」と感想を述べています。 2長崎県立対馬歴史民俗資料館 長崎県立対馬歴史民俗資料館蔵  朝鮮通信使の知識を得るため、行列を再現した「朝鮮国信使絵巻」を見るならここです。先頭に「清道」旗、楽隊、国書をのせた轎(かご)、 正使・副使がつづく絢爛(けんらん)な行列のようすが理解できます。通信使に出された正式な食事の盛り付け例である「朝鮮通信使饗応料理絵図」は興味深いです。 ほかに雨森芳洲の肖像画なども展示されています。 3金石城(かねいしじょう)跡  1669(寛文9)年に宗義真(そうよしざね)が築いた城です。館中心で天守閣はありません。大手の櫓門(やぐらもん)は平成2年(1990)に復元されています。 通信使は府中滞在中に藩主に招かれていますが、『海游録』には「府中の外側に城郭はなく、ただ高い垣を築いて大門を設け、 白木版を立てて“下馬”と書いている」と描かれています。 4万松院(ばんしょういん)  対馬宗家歴代の菩提寺です。十万石の風格がただよう広大な敷地に宗義智(そうよしとし)以降の歴代の藩主、正室、側室などの立派な墓が並んでいます。 山門は桃山様式。石灯籠が両脇に並ぶ荘厳な132段の石段(百雁木 ひゃくがんぎ)を登っていくと天然記念物(長崎県指定)の大杉が目に飛び込んできます。 本堂には朝鮮国王から贈られた三具足(みつぐそく)や徳川将軍家の位牌などが安置されています。 5武家屋敷・城下町跡  厳原は対馬藩十万石の格式ある城下町で、武家屋敷が並んでいます。江戸時代初期から屋敷を囲む石垣塀が築かれましたが、 現在、宮谷地区を中心に家老屋敷跡などが残っています。石垣塀は、易地聘礼(えきちへいれい) *のときにさらに美しく整備されたといわれます。石垣塀はいたる所で見られますが、 厳原の景観を代表する“顔”的存在です。 *易地聘礼/「朝鮮通信使客館跡」参照 6雨森芳洲の墓  長寿院(ちょうじゅいん)の裏山を少し登ると、対馬藩に仕え朝鮮外交に尽力した雨森芳洲の墓があります。彼は朝鮮語、中国語が堪能でした。『海游録』にもその名はたびたび登場し、使節に同行しながら、申維翰と丁々発止のやり取りを展開していきます。申維翰との関係については、“油断はできないが、互いを認め合う外交官同士の付き合い”といったところでしょうか。芳洲はそれぞれの国の事情や立場を尊重する国際人であり、朝鮮通信使の応接になくてはならない人材でした。平成2年(1990)、当時来日中の盧泰愚(ノテウ)韓国大統領が、宮中晩餐会の答礼の言葉の中で、朝鮮の玄徳潤(ヒョンドギュン)とともに雨森芳洲の「相互尊重」の外交姿勢を讃えています。芳洲は「互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わり」と方針を説き、朝鮮外交と友好親善に務めたのです。 7朝鮮通信使客館跡(国分寺)  徳川家斉の将軍就任を祝う聘礼(へいれい)式を府中でおこなうにあたり、1807年(文化4)、国分寺(こくぶんじ)に朝鮮通信使の客館が新設されました。山門は当時のまま残っています。1811年(文化8)には、日本側の財政事情から朝鮮通信使一行336名を対馬の地のみで迎え、幕府の使者とともに、儀式・接待をおこないました。これが最後の朝鮮通信使となり、「易地聘礼」といいます。 〔文:小川内清孝〕 参考文献 『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』申維翰著(平凡社/東洋文庫252) スタート地点までのアクセス 以酊庵跡(西山寺) 所在長崎県対馬市厳原町国分1453 お問い合わせ  TEL0920-52-0444 FAX0920-52-0655 アクセス  飛行機・車…<ANA>福岡空港─(30分)→対馬空港→車で20分  <ORC>長崎空港─(35分)→対馬空港→車で20分 船…<フェリー>博多港─(直行3時間45分・壱岐経由4時間30分)→厳原港→徒歩10分  <ジェットフォイル>博多港─(壱岐経由2時間15分)→厳原港→徒歩10分
  • 第34回 長崎の国際墓地を訪ねて 2009年02月18日
    第34回 長崎の国際墓地を訪ねて
    〜長崎の地に眠る異国の人々〜 20カ国1500人を超える人々が眠る長崎国際墓地  長崎市には、稲佐悟真寺(いなさごしんじ)国際墓地、大浦国際墓地、坂本国際墓地という3カ所の大きな国際墓地があります。そこには中国人、オランダ人、ロシア人、イギリス人、アメリカ人など、20カ国1500人を超える人々が永遠の眠りについています。それらの墓碑には、長崎に暮らした有名無名の外国人の名前が刻まれているのです。 歴史のとびら  長崎市にある3つの国際墓地には、長崎を人生終えんの地とした異国の人々のお墓があります。このなかには、のちの日本で有名になった事件やできごとに関わった外国人たちも眠っています。たとえば、坂本龍馬の海援隊に犯人の嫌疑がかかった「英国人水夫殺害(イカルス号)事件」の被害者の墓(大浦国際墓地)、西洋人最古の墓で司馬江漢(しばこうかん)が墓碑を紹介した出島オランダ商館長の墓(稲佐悟真寺)、などです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 1大浦国際墓地  開放時間8〜18時(管理:長崎市) ↓路面電車“赤迫行”で「長崎駅前」まで行き、「長崎駅南口」から長崎バスの“稲佐行”に乗り、「悟真寺前」バス停下車徒歩2分 2稲佐悟真寺国際墓地  入る場合は許可が必要(管理:悟真寺) ↓「悟真寺前」バス停から長崎駅方面へ向かうバスに乗車。「宝町」で下車し、対面に移動して“立山行”バス(マイクロ)に乗車し、「あじさい荘」バス停で下車。バス停のすぐ側が墓地の入口 ※「宝町」から路面電車の場合は、“赤迫行”に乗り、「茂里町」電停で下車徒歩10分 3坂本国際墓地  開放時間8〜18時(管理:長崎市) 1「英国人水夫殺害(イカルス号)事件」の乗組員が眠る墓地 ロバート・フォードとジョン・ハッチングス  1867年(慶応3)7月6日深夜(7日の説あり)、長崎の丸山の路上で酩酊(めいてい)し寝込んでいた外国人2人を、通りかかった武士が切り殺してしまうという事件が起こりました。被害にあったのは、長崎港に停泊中のイギリス船イカルス号の乗組員2人、ロバート・フォードとジョン・ハッチングスでした。彼らの墓が大浦国際墓地にあります。  当時の英国公使パークスは坂本龍馬率いる海援隊の仕業とみて、長崎奉行所に関係者の逮捕を要求しましたが、海援隊は激しく反論。奉行所は吟味の結果証拠不十分と判断しました。この事件は国際問題にまで発展し、その後、真犯人は福岡藩の武士であることが明らかになっています。 2現存する最古の中国人墓碑・西洋人墓碑  稲佐悟真寺の中国人(唐人)墓地は、江戸初期に有力唐人が、悟真寺を菩提寺にして墓地の敷地を定めたことにはじまります。現在約230基の墓があり、福建省出身の墓が6割を超えています。現存する最も古いものとして、1627年(寛永4)の墓が2基確認されています。  また、稲佐悟真寺のオランダ人墓地には、日本に現存する最古の西洋人の墓があります。ひときわ大きなヘンドリック・ダークープの墓です。ダークープは、出島オランダ商館の副商館長や商館長を務めていたオランダ人。1778年(安永7)7月、出島のオランダ商館長として帰任するため、オランダ船に乗っていましたが、航海中に急病のため死去しました。遺体は長崎に到着後すぐに悟真寺に埋葬され、オランダ人の手で盛大な葬儀がおこなわれたそうです。彼の墓碑には羽の付いた時計や十字架と子羊の模様が刻まれており、寛政年間(1789-1801)に著わされた司馬江漢の『西洋旅譚(さいゆうりょたん)』の中に、挿し絵付きで紹介されています。 3オペラ『蝶々夫人』誕生につながった宣教師デビソン  1873年(明治6)、プロテスタントのメソジスト監督教会から派遣されたアメリカ人宣教師ジョン・デビソンは、新妻エリザベスとともに日本へやってきました。彼は翌年、出島メソジスト教会を建設し宣教活動を続けました。キリスト教の日本布教には教育が重要であると考えたデビソンは、伝道局に学校開設のための人材派遣を要請します。その働きかけにより1879年(明治12)にはエリザベス・ラッセルとジニー・ギールが来日し、活水(かっすい)女学校を開校しました。また翌年にはC・S・ロングが来日し、加伯利(カブリ)英和学校(のちの鎮西学館)が開校されることになり、デビソン夫妻は一時帰国するまでそこで教鞭をとっています。  1891年(明治24)、デビソンが開設に尽力した鎮西学館の校長に就任したのがアメリカ人のアービン・コレルで、妻のジェニー・コレルとともに東山手12番館に住みました。実は、このコレル夫人の実弟が小説『蝶々夫人』を著したジョン・ルーサー・ロングなのです。ロングはアメリカに帰国したコレル夫人の見聞談をもとにして小説を書き上げたといわれています。かの有名なオペラ「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」は、この小説がデビット・ベラスコによって劇化され、さらにジャコモ・プッチーニの手によってオペラ化されたものです。デビソンによる学校開設の働きかけがコレル夫人の長崎居留地居住につながり、ひいては世界的なオペラ作品の誕生のきっかけになったといってもいいかもしれませんね。  デビソン夫妻は再来日を果たしますが、1915年(大正4)、妻エリザベスは中国に住む娘を訪問した帰途の睡眠中に急死し、彼女の遺体は坂本国際墓地に埋葬されました。その後、デビソンはカリフォルニアで84歳の生涯を終え、彼自身の遺言により夫妻の新しい墓が坂本国際墓地に建てられました。今も2人仲良く長崎の地に眠っているのです。  さて、国際墓地に眠る人々のそれぞれのドラマ、いかがでしたか?時は流れて現在ひっそりとたたずむ墓碑群ですが、そこを訪れる私たちに、16世紀半ばから海外交流で繁栄してきた長崎の歴史の確かな一面を、静かに語りかけてくるようです。 〔文:小川内清孝〕 参考文献 『旅する長崎学9 近代化ものがたりIII』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『時の流れを超えて −長崎国際墓地に眠る人々−』レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著(長崎文献社) 『長崎居留地の西洋人』レイン・アーンズ著(長崎文献社) 『長崎県文化百選7 海外交流編』(企画/長崎県 制作/長崎新聞社) スタート地点までのアクセス 大浦国際墓地(管理:長崎市) 所在長長崎県長崎市川上町 開場時間午前8:00~午後6:00 入場料無料 アクセス  路面電車…長崎駅から路面電車の“正覚寺行”に乗り、「築町電停」で乗り換え、「石橋電停」下車 徒歩10分
  • 第33回 近代医学の地 島原散策 2009年01月21日
    第33回 近代医学の地 島原散策
    〜藩医 賀来佐一郎の足跡をたどる〜  “近代医学”と言えば、「長崎」「シーボルト」を想像する人は多いでしょう。実は、長崎県の島原で、九州内の他藩や長崎に先駆けて、人体解剖が行われているのですが、意外と知られていません。藩主の松平家は歴代、学問に造詣が深く、好学の家柄であったため、人材育成の基礎となる教育には力を入れていたようです。日本三大薬園跡の一つ、旧島原藩薬園跡も残っています。  今回の歴史散歩では、シーボルトに師事し、島原藩の藩医だった賀来佐一郎(かく すけいちろう)の足跡をたどりながら、島原の近代教育や近代医学の歴史を探ります。 歴史のとびら 島原市蔵、島原市提供  島原藩は1792(寛政4)年の普賢岳噴火に伴う災害「島原大変」で、未曾有の被害を受けました。このとき、眉山(まゆやま)が崩落して城下も埋没。藩の財政は窮乏しました。  しかし、1793(寛政5)年、災害からの復旧と藩の建て直しを目指して、人材育成のための藩校「稽古館」を創設。1821(文政4)年には、医学分野を独立させ、いわゆる医学校「済衆館」を設置しました。「済衆」とは「民衆を助ける」という意味。病院や医師会としての機能も備えていたようです。  当時、島原藩は松平氏が治め、豊後(現在の大分県)にも領地を持っていました。江戸時代の中期、豊後や豊前には有名な儒学者や医家が多くいました。  豊後の島原領の出身だった賀来佐一郎は「豊後の三賢」の一人、帆足万里(ほあし ばんり)の弟子でした。佐一郎は、オランダ語を長崎のオランダ通詞の吉雄幸載(よしお こうさい)に、西洋医学と植物学をシーボルトに学び、長崎で約6年間過ごした後、1829(文政12)年、豊前安心院(あじむ)で医師として開業。その後、京都方面への遊学などを経て、1842(天保13)年に島原藩医として招かれました。翌年、藩医だった市川泰朴(いちかわ たいぼく)とともに、囚人を使った人体解剖に協力しました。同じ年、済衆館内にあった薬園の主任に任命されて、薬草の栽培研究を始め、その後、薬園の移転拡張工事にも尽力し、藩の再建に貢献します。1857(安政4)年、佐一郎は島原で息を引き取りました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 1旧島原藩薬園跡 ↓車で5分 2本光寺 ↓車で5分 3島原城 ↓徒歩5分 4島原図書館 松平文庫 ↓徒歩10分 5武家屋敷跡 1旧島原藩薬園  島原藩は1805(文化2)年、領内に薬園をつくりました。島原大変のとき、窮乏した藩は、栽培した薬草を各藩に売って、財政難を乗り切る方針だったようです。薬園は1843(天保14)年、島原藩の医学校「済衆館」内に移転。このとき賀来佐一郎が薬園主任を務めました。  薬園が手狭で栽培に不向きだったことから、1846(弘化3)年、藩士の飯島義角(いいじま よしずみ)とともに、眉山のふもとを開墾。拡張工事を繰り返しながら、1853(嘉永6)年、現在の「旧島原藩薬園跡」の場所に完成させました。しかし、約15年後の明治維新を迎えて、薬園は廃園。民間所有を経て、現在は国指定の史跡として管理されています。  現在、薬園の山手側には、薬師の詰め所跡や倉庫跡など、貴重な遺構がみられます。南北90m、東西110mの広大な敷地には、ハーブや樹木などが植えられ、真っ赤なシマバライチゴが、たわわに実を付けていました。長崎県や熊本県に分布する珍しいキイチゴです。冬にかけて、枝先に葡萄の房のような実をつけます。  園内には、ほかにも柿の木、アジサイ、棗など多種多様に植樹されており、それぞれに効能があることを伝えてくれます。現代の私たちの生活の中では観賞用として身近な植物が、薬として珍重されていた時代があったことをしみじみ実感します。 2本光寺  島原藩主松平家の菩提寺である瑞雲山本光寺。松平家の墓地のほか、1857(安政4)年に島原で亡くなった賀来佐一郎の墓もあります。境内には、貴重な文献や資料を展示した常盤歴史資料館もあります。 3島原城  島原城には郷土資料が展示されており、その中には医学に関するものがあります。当時、西洋医学の先進地だった長崎に先駆けて1843(天保14)年、人体解剖が行われました。解剖図も展示されています。  人体解剖には医学の実証的な研究のため、藩の医学校だった「済衆館」の教授や領内の医師たちが参加。教授でもあり、藩医だった市川泰朴が指導し、賀来佐一郎らが協力して、結果をまとめました。 (島原市蔵、島原市提供)  解剖していく段階を経て、肉の部分を褐色、臓器を青色、血管を赤色で表記。臓器の形や配置を絵で表現し、「小腸ニ丈九尺二寸 囲二寸五分」「左肺重八十目 長七寸五分 幅五寸六分」というように、重さや長さも正確に測定されています。既に「網膜」「肺」「胃」などの名称が記されており、科学知識の確かさやレベルの高さを伺えます。  展示物の中には、「済衆館」の扁額も残っています。書は福岡藩士、亀井照陽(かめい しょうよう)によるものだそうです。市川泰朴の生家の薬箪笥など、薬を調合する道具なども展示されています。 4島原図書館 肥前嶋原松平文庫  島原城主だった松平家が歴代にわたって収集・所蔵していた書籍などが「肥前嶋原 松平文庫」として、今に受け継がれています。その蔵書は藩政の記録はもちろん、歴史、宗教、政治、経済、自然科学、文学など幅広く、3000部1万冊以上にのぼります。中には最古の写本とされる「甲州式目」など4冊をはじめ、「紫式部日記歌」など、お宝がたくさん。松平家は代々、学問を好む家柄だったそうです。これらの書籍は藩校「稽古館」の教科書として活用され、藩学の基礎を築きました。  蔵書の中に、賀来佐一郎が関わった本を発見しましたよ。「墨是可新話(めきしこしんわ)」です。島原半島の深江村出身の太吉という人物が1841(天保12)年、遭難して太平洋を漂流しているとき、イスパニアの海賊船に助けられたものの、そのままメキシコに連れて行かれ、5年ほど後に中国の船に乗せられて長崎港に到着。島原に帰り着きました。その漂流とメキシコ滞在の実録がこの本で、賀来佐一郎が藩士たちとともに、太吉に聞き取りしてまとめました。医学とは関係ありませんが、こんな偉業も残していたとは…。当時の外国の生活や風俗を知る貴重な資料になったはずです。 5武家屋敷跡  島原城の西側には武士たちの集合住宅、武家屋敷が残っています。島原に残る武家屋敷は鉄砲の歩兵部隊の住居で、鉄砲町と呼ばれていたそうです。町名に上新丁(うわじんちょう)や下新丁(したじんちょう)など、「丁」が使われているのもそのゆえんでしょうか。  屋敷の並ぶ道路の中央には水路が設けられ、生活用水として使われていました。それぞれの屋敷内には藩の命令で、梅や柿などの果樹が植えられ、自給自足できるようにしていたそうです。 〔文:大浦由美子〕 参考文献・資料 『島原半島医史』島原市医師会 スタート地点までのアクセス 旧島原藩薬園跡 所在 〒855-0856 長崎県島原市小山町4703 営業期間 見学自由 休み 無休 料金 無料 問い合わせ 0957-63-4853 アクセス 鉄道… JR長崎本線「諫早駅」で、島原鉄道に乗り換え、島原鉄道「島原駅」で下車。所要時間は各駅停車で約1時間。 バス… 福岡博多交通センターより、島鉄高速バスで約3時間。 船… 福岡天神より西鉄特急で約1時間、「大牟田駅」下車。西鉄バスで約10分、三池港へ。島原港行き高速船で約50分。
  • 第32回 新旧の「高麗橋」を結ぶ歴史散歩 2008年12月17日
    第32回 新旧の「高麗橋」を結ぶ歴史散歩
    〜歴史今昔ウォーキング〜  長崎の総氏神である諏訪神社の鳥居横から入り、長崎大学経済学部キャンパス前を通って、西山バイパス入口に向かう大きな通りがあります。この西山通りは車道を挟む両側の歩道の道幅が広く、一年を通して街路樹や季節の花々に囲まれていますので、市民の間では気持ちよく歩けるウォーキングコースとして親しまれています。  そこで今回は、新・高麗橋(こうらいばし)を出発し、西山通りに面する近代化遺産にふれながら、西山ダム河川公園に移築された旧・高麗橋をたずねる歴史散策に出かけてみることにしました。 歴史のとびら 移築復元された旧・高麗橋  眼鏡橋に代表される長崎市の中島川に架かるアーチ型の石橋群は有名です。この石橋群のひとつに「高麗橋」(市指定有形文化財)がありました。高麗橋は承応元年(1652)に長崎在住の中国人の手により中島川上部の伊勢町(いせまち)と八幡町(やはたまち)の間に架橋されたと伝えられています。1866年(慶応2)には拡幅改架がなされています。しかし1982年(昭和57)に発生した長崎大水害の河川改修のために、5年後に新しい高麗橋が架設され、由緒ある旧高麗橋は解体、1993年(平成5)に西山ダム河川公園に移築復元されたのです。移築の際には旧石を使用しましたが幅が足りず、両端の石材を新しく補い、失われていた高欄を復元して完成したといいます。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:徒歩約40分 1新・高麗橋<伊勢宮前> ↓徒歩5分 2諏訪神社 ↓徒歩約5分 3料亭 富貴楼 ↓徒歩約5分 4西山御薬園跡 ↓徒歩約10分 5長崎大学経済学部 ↓徒歩約15分 6旧・高麗橋<西山高部水源地(西山ダム、西山高部浄水場)> 1新・高麗橋  諏訪神社や松森神社(まつのもりじんじゃ)と並び長崎三社のひとつに数えられるのが伊勢町に建つ伊勢宮(いせのみや)です。この伊勢宮では1901年(明治34)に長崎で初めての神前結婚式が行われたといわれています。その伊勢宮の鳥居の前に架かる橋が、今回の歴史散歩のスタート地点「新・高麗橋」です。この橋は1987年(昭和62)に新しく架設されました。写真は移築前の旧・高麗橋が写った「長崎伊勢の宮神社」というタイトルの絵葉書です。 *当サイトの「ふるさと写真館」に、高麗橋が写った絵葉書や、それと同じアングルで撮影した現在の写真を掲載しています。今と昔をくらべて見ることができますよ。ぜひご覧ください。 2諏訪神社(すわじんじゃ)  諏訪神社は1625年(寛永2)に諏訪・森崎・住吉の三社を再興し祀った神社です。秋の例大祭「長崎くんち」で全国的に有名な長崎の氏神でもあります。市民には「おすわさん」の愛称で親しまれています。 3料亭 富貴楼(ふうきろう)  西山通りの諏訪神社前バス停の先左手にひときわ高い石垣が見えてきます。その上には創業120年余りの老舗「料亭 富貴楼」が建っています。富貴楼の建物自体は江戸時代初期に建てられ、その後拡充されたといいます。富貴楼は2007年(平成19)に国の登録有形文化財に指定されました。この料亭「富貴楼」という屋号ですが、伊藤博文(いとうひろぶみ)が明治22年来亭の際に、経営者内田トミに「何かいい屋号はありませんか?」と依頼されて伊藤自身が命名し、当時の屋号「富士亭」から変更したものだということです。 4西山御薬園跡(にしやまおやくえんあと) (長崎歴史文化博物館蔵)  下西山通りの西山郵便局そばに「西山御薬園跡」の石碑が建っています。江戸幕府は1810年(文化7)に小島郷十善寺から西山郷(現下西山町)へ御薬園を移転しました。敷地にオランダ船や唐人船が運んでくる舶来の薬草木を多数植えて幕府の薬草園としたのです。約1,200坪の園内には和漢洋の数百種の薬種を栽培し、効能を明らかにして幕府の需要にこたえたといいます。薬草木は園内で増産され(幕府の収入源として)高価な商品となっていきました。 5長崎大学経済学部  西山御薬園跡そばの横断歩道をわたり、右側の歩道をしばらく歩くと、長崎大学経済学部の門が見えてきます。このキャンパス内には旧長崎高等商業学校時代の3つの国指定登録有形文化財があります。一つめは1903年(明治36)に架橋された「拱橋(こまねきばし)」。橋の長さは17mで幅が約9mの石橋です。車道沿いに望む橋全体の景観は周囲の緑と調和して美しく映えています。  二つめは拱橋を渡りまっすぐ行った突き当たりにある「長崎大学瓊林会館(けいりんかいかん)」。旧長崎高等商業学校の教官の研究館だった建物です。1919年(大正8)に建てられたもので、外観はレンガ造りで左右対称が特徴です。  三つめは「長崎大学経済学部倉庫」。1907年(明治40)に旧長崎高等商業学校の倉庫として建てられたものです。赤レンガ造りで瓦ぶき屋根が特徴の建物です。ちなみに「料亭 富貴楼」「長崎大学瓊林会館」「長崎大学経済学部倉庫」の3件は、2007年(平成19)6月、同時に国の有形文化財に登録されました。 (注:拱橋より先の長崎大学経済学部敷地内へ入るには許可が必要です) 6旧・高麗橋<西山高部水源地(西山ダム、西山高部浄水場)>  長崎大学経済学部から長崎バイパス入口方面へ進み、片淵丸尾バス停を過ぎると左側に西山高部(にしやまこうぶ)水源地が見えてきます。西山高部水源地(西山ダム、西山高部浄水場)は1904年(明治37)に完成しました。昭和時代から桜の名所としても市民に親しまれている場所です。2001年(平成13)には長崎大水害後の治水対策として新・西山ダムが完成。新しく西山ダム河川公園として整備されました。この河川公園に中島川の旧・高麗橋が移築復元されているのです。 (国立国会図書館蔵)  さて、新・西山ダム下の河川公園入口には、長崎市栄町生まれの伊東巳代治(いとうみよじ)を顕彰するモニュメントと石門があります。巳代治は長崎町年寄書物役の家に生まれ、早くから蘭学、漢学、英仏語を修得し、伊藤博文の欧州憲法調査に随行した官僚であり政治家でした。彼は1900年(明治33)からおこなわれた長崎市水道の第1回拡張工事の際に国庫補助金獲得に奔走した人物です。モニュメントと石門には「寒奨濟我人(かんしょうさいがじん)」という巳代治自筆の文字が刻まれています。寒奨濟我人とは「どんなに寒いときでも、市民のために水を汲んであげましょう」という意味で、1904年(明治37)に完成した旧・西山ダムの堤体の銘板に刻まれた文字でした。生まれ故郷である長崎の市民のために水源地を造りたいという巳代治の熱い思いが伝ってくるようですね。 〔文:小川内清孝〕 参考文献・資料 『旅する長崎学8 近代ものがたりII』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 長崎大学薬学部のホームページ「長崎薬学史の研究」 国立国会図書館資料 スタート地点までのアクセス 新・高麗橋<伊勢宮前> 所在長崎県長崎市伊勢町 アクセス  路面電車…「長崎駅前」電停から蛍茶屋行「諏訪神社前」電停下車 バス…「長崎駅前」バス停から県営バスの循環(立山・浜平行、サンフランシスコ病院行、西山木場行も可)に乗り「諏訪神社前」バス停下車
  • 第31回 大正・昭和の長崎へ 2008年11月19日
    第31回 大正・昭和の長崎へ
    〜当時の市街地図をたずさえて〜 (長崎歴史文化博物館蔵)  鶴が羽を広げた形に似ていたことから、「鶴の港」と称された長崎港。多くの国際観光客船が寄港する風景は今も昔も変わりません。  明治時代から始まった港の改修工事によって大型客船の接岸が可能になり、また埋め立てによって長崎の街は土地を広げてきました。残念なことに、江戸時代に西洋との窓口だった出島は埋められ、特徴的な扇の形は失われてしまいました。  今回の旅のナビゲーターは大正、昭和初期に発行された「長崎市街地図」。大正13年、大正15年、昭和6年の地図を見くらべながら、長崎観光と長崎港の埋め立ての変遷を追ってみましょう。 歴史のとびら (長崎歴史文化博物館蔵)  幕末、長崎港には土砂が堆積しやすく、大型船の寄港や海上交通などに支障をきたしていました。明治維新後の1886年(明治19)から昭和初期にかけて、近代的な港を目指し、長崎港の改修工事が3回に分けて始まりました。かつてポルトガル人を収容するためにつくられ、後にオランダ人たちが住んでいた人工の島「出島」も明治中期から徐々に埋め立てられ、その姿を変えていきました。現在のJR長崎駅周辺を中心に大幅に埋め立てられて、第2次、第3次と埋め立て工事は進んでいきます。  1924年(大正13)、大型船を接岸できる出島岸壁が完成しました。それまで大きな蒸気船や帆船などは長崎港に浮かび、ハシケやサンパンと呼ばれる手漕ぎの小型船で上陸していました。出島岸壁完成の前年の1923年(大正12)、長崎と上海をつなぐ日本郵船の定期便「長崎丸」が就航。出島岸壁がのちに発着場となって、港は賑わいを見せました。  長崎駅と出島岸壁の間には臨港鉄道が敷設され、1930年(昭和5)、出島岸壁に長崎港駅がオープン。こうして日華連絡船が鉄道と連結され、上海―東京間を大幅短縮し、当時としては快適な海外旅行を実現しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約2時間 1元船遊歩道 ↓徒歩約10分 2長崎港駅までのレール ↓徒歩約3分 3出島 ↓徒歩約10分 4新地中華街 ↓徒歩約15分 5大徳寺 ↓徒歩約15分 6祟福寺 ↓電車「正覚寺下」から約10分「大浦天主堂下」下車 7長崎市香港上海銀行長崎支店記念館 1元船遊歩道  現在のJR長崎駅から大波止まで遊歩道があります。実はこの遊歩道の場所を、以前は長崎駅と長崎港駅を結ぶ臨港鉄道が走っていました。大正15年の地図には線路はまだ描かれていませんが、昭和6年にははっきりと描かれています。  木々が植えられた遊歩道には、甘い金木犀の香りが漂っていました。 2長崎港駅までのレール  中島川の入り口付近には、臨港鉄道の車輪とレールが残り、当時の面影を残しています。現在の出島ワーフから長崎税関の間には日華連絡船の発着所だった長崎港駅の駅舎がありました。大正後期から昭和初期にかけて、長崎と上海を結ぶ日本郵船の姉妹船「上海丸」と「長崎丸」が岸壁に接岸していました。日華連絡船が開通していた時代を知る人たちは、古きよき時代と口をそろえていいます。週2回の運行で、26時間で上海に行くことができたため、「下駄履きで上海へ」といわれるほど身近な土地でした。新天地へ希望を膨らませて旅立った人、見送る人たちの歓声が聞こえてきそうです。 3出島  建物の再現などが進んでいる復元された出島(国史跡 出島和蘭商館跡)。水門(入場口)側に行くと、国道にかつての出島の形跡が描かれていることに気付くでしょう。現在の長崎が埋め立てられて形成されていることを実感できます。さらに出島の南側に整備されたガラス張りの歩道を歩くと、扇形の石垣をのぞくことができます。下の方は発掘された当時のものだそうです。 4新地中華街  中華街の門に着くと「ハイチーズ!」。ここでは観光客が記念写真を撮っている光景をよく目にします。江戸時代、長崎に来ていた中国人を唐人屋敷に集めて住まわせていました。1698年、長崎の大火によって、五島町や大黒町にあった荷蔵が焼失。新しく唐人屋敷前を埋め立て、荷蔵の土地を造成しました。これが新地の始まりです。明治になって、唐人屋敷は廃止され、長崎に在住の中国人たちは新地に移り住むようになりました。こうして新地の中華街ができたのです。 5大徳寺  「寺はないのに大徳寺」。神仏分離の際に神社信仰を選んだために廃寺となり、現在は梅宮天満宮となっています。小高い丘に広がる大徳寺はかつて、長崎の景勝地でした。名物の焼餅は今も食べることができます。3軒あった焼餅の店も今は1軒だけになってしまいました。明治創業の「菊水」は注文を受けてから焼き始めます。あんこは薪を使ってじっくりと炊き上げた手づくり。外皮がパリッ、中はもっちり、あんこの後味はあっさり。とりこになる人も多いそうですよ。楠の大木も有名で、樹齢は800年を超えるといわれています。 6祟福寺 『華の長崎』ブライアン・バーフガフニ著(長崎文献社)より  崇福寺は明治、大正、昭和初期、外国人たちの定番の観光地として人気がありました。このお寺には、1681年の大飢饉のときにつくられ、粥を炊いて多くの命を救ったといわれる大釜が残っています。1日1000人以上の米を炊いたそうです。当時の絵葉書に大釜の写真が載っていました。「コンナオオキナオカマ、ミタコトナイネ!」と外国人の驚いた顔が目に浮かぶようです。 7長崎市香港上海銀行長崎支店記念館  少しコースから離れて大浦地区へ。ギリシャの建物を思わせるような、大きな石造りの近代建築物に出会うはずです。長崎市香港上海銀行長崎支店記念館。1904年(明治37)、香港上海銀行長崎支店の社屋としてオープンしました。明治期の長崎の港の様子を伝える貴重な建物です。設計を手掛けたのは鉄骨鉄筋コンクリート構造の工法を日本に紹介した下田菊太郎でした。3階には上海航路の歴史を伝える展示があります。 〔文:大浦由美子〕 スタート地点までのアクセス 元船遊歩道 所在長崎県長崎市元船町 徒歩…長崎駅から約5分
  • 第30回 龍馬と弥太郎、ゆかりの地 2008年10月15日
    第30回 龍馬と弥太郎、ゆかりの地"長崎"にそびえ立つ
       威風堂々・・・、長崎港を間に挟んで秋空に向かいそびえ立つ像。長崎市の風頭(かざがしら)公園と高島港には幕末に活躍した土佐出身の2人の立像があります。みなさんご存知の坂本龍馬と、三菱財閥の礎を築いた岩崎弥太郎(いわさきやたろう)です。龍馬像の視線は眼下に広がる長崎港を見つめていますが、その長崎港の玄関口に位置する高島に建つのが弥太郎像です。龍馬と同じように、弥太郎もまた幕末に長崎を訪れ活躍したひとりなのです。同郷の2人は長崎の地で交流を深めてきます。そして龍馬の死後、明治の新時代を迎え、弥太郎は龍馬も夢みていたといわれる海運業を興していきました。今回は2人が長崎で関わった2つの事件を振り返りながら、長崎ゆかりの地を巡ることにしましょう。 歴史のとびら 「伊呂波丸(いろはまる)事件」と「英国人水夫殺害(イカルス号)事件」  1867年(慶応3)4月23日の夜。海援隊士を乗せた伊呂波丸が濃霧の中を航行中、突如現れた紀州藩の明光丸が横腹に衝突し、その衝撃で伊呂波丸は沈没してしまいました。龍馬ら乗組員は、相手方の船に乗り移り全員無事でした。龍馬率いる海援隊は、この事故に対して相手方に否があるとして紀州藩に抗議。土佐藩の後藤象二郎が全権となり紀州藩と交渉を行い、明光丸士官の詫び状一札と賠償金8万3千両余りを得たのです。この事件では土佐商会に着任したばかりの岩崎弥太郎も土佐藩側の一員として交渉に関わっています。  続いて1867年(慶応3)7月6日の夜、長崎の丸山で福岡(黒田)藩士の金子才吉が英国人水夫と喧嘩をして殺害するという事件が起こりました。直後に金子は自殺しますが表沙汰にならず、長崎奉行と英国公使パークスは海援隊の隊士が犯人だと思い込んでしまいました。坂本龍馬は事実無根と猛抗議し、弥太郎も長崎の藩責任者として英国側と折衝を行っています。しかし、英国人相手の交渉は難航したようです。結局、長崎奉行所の裁定では海援隊は無関係となりましたが、真犯人が金子才吉と判明したのは約1年後のことでした。この事件は弥太郎の日記に「丸山異人横死の件」とあるように、遊廓街のあった丸山の路上で起こったものです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約95分(徒歩、車、高速船利用※利用する高速船の発着時刻で異なります) 1風頭公園 ↓徒歩約5分 2亀山社中跡 ↓徒歩約20分 3土佐商会跡 ↓徒歩約15分 4後藤象二郎邸跡 ↓徒歩約15分 5長崎奉行所立山役所(長崎歴史文化博物館) ↓長崎港まで車で約5分。長崎港(大波止ターミナル)から高速船「高島行」で約35分 6高島 1風頭(かざがしら)公園  龍馬はかつてこの場所から長崎港を見下ろしたことがあったのでしょうか。風頭山には坂本龍馬の像が建つ風頭公園があります。展望台から長崎市街地や長崎港を一望することが出来ます。この公園では春になると江戸時代から続く長崎名物のハタ揚げ大会が開催されます。または桜や紫陽花(あじさい)の名所としても長崎市民に親しまれています。 2亀山社中(かめやましゃちゅう)跡  坂本龍馬は、1865年(慶応元)、長崎を拠点にして日本初の商社といわれる「亀山社中」を設立しました。当初は小松帯刀(こまつたてわき)が家老を勤めていた薩摩藩が資金面の後ろ楯となりましたが、運営のための資金繰りは厳しく火の車でした。そこで新たな後ろ楯となったのは後藤象二郎が参政を勤めていた土佐藩で、名称も1867年(慶応3)に「海援隊」と変わりました。 3土佐商会(とさしょうかい)跡  「長崎土佐商会」は幕末の長崎に設置された土佐藩「開成館」の出先機関です。正式名称は「土佐藩開成館貨殖局長崎出張所」。ここでは紙、樟脳(しょうのう)、鰹節(かつおぶし)など土佐藩の専売品を輸出し、外国から軍艦や鉄砲などの武器類を購入していました。岩崎弥太郎は、1867年(慶応3)、長崎土佐商会に赴任し間もなく主任となりました。現在、長崎市の西浜町電停そばに架かる鐵橋(てつばし)のたもとには「土佐商会」跡の石碑が建っています。その石碑には海援隊発祥の地とも刻まれています。 4後藤象二郎(ごとうしょうじろう)邸跡  開成館の総裁で土佐藩の参政だった後藤象二郎は、長崎土佐商会の経営に当たるため長崎に滞在していました。伊呂波丸事件では、紀州藩との交渉について、後藤邸で龍馬と弥太郎との密談が行われました。1867年(慶応3)6月2日の弥太郎の日記によると「弥太郎が賠償額について原案を作り、後藤宅に行き、龍馬を呼び出して3人で密談をした」というような内容が記されています。現在の金屋町(KTNテレビ長崎ビル横)には後藤邸跡の石碑が建てられていますが、後藤邸はのちに岩崎弥太郎が譲り受け、三菱の所有として使われていました。 5長崎奉行所立山役所(ながさきぶぎょうしょたてやまやくしょ)  英国人水夫殺害事件の海援隊士への尋問や弥太郎への事情聴取は、長崎奉行所立山役所(現在の立山町)で行われました。興味深いことに、 長崎奉行所で審問された弥太郎の様子を、龍馬は佐々木三四郎に宛てた手紙の中で戦争に例えて「敗走に及び候」と非難しています。 長崎奉行所立山役所跡は2002年(平成14)から発掘調査が進められていましたが、翌年、正門前の階段と踊り場の石畳が発見されました。その階段と石畳を生かして、 長崎奉行所立山役所の一部を忠実に復元したものが、現在の長崎歴史文化博物館で、長崎県の歴史・文化の発信拠点となっています。 6高島(たかしま)  長崎港から伊王島経由の高速船に乗って、約35分で高島に着きます。「高島」は高島、端島(軍艦島)、中の島、飛島の4つの島からなっており、かつては石炭発掘で繁栄しました。高島港すぐそばの公園にはお目当ての岩崎弥太郎像が建っています。  明治維新以後、岩崎弥太郎は大阪で九十九(つくも)商会を設立し、藩営事業の海運業を継承します。1873年(明治6)には名前を三菱商会と改称、汽船会社を経営しました。その後、弥太郎は長崎の高島炭鉱を買収し経営に関わります。高島炭鉱は幕末に佐賀(鍋島)藩と英国商人グラバーが共同経営し、1874年(明治7)にいったん官営になり後藤象二郎に払い下げられ、1881年(明治14)4月に三菱の経営に移りました。  弥太郎像の前方には「石炭資料館」があります。さらに高島港から25分ほど歩く(島内循環バス有り 本町バス停下車)と、その歴史の記憶をとどめるように「北渓井坑跡(ほっけいせいこうあと)」「後藤象二郎邸跡」「グラバー別邸跡」などがありました。  また、岩崎弥太郎の晩年にも長崎との関係は続きました。1884年(明治17)、長崎製鉄所を工部省より借り受け、長崎造船所と改称し経営を始めます。その3年後には払い下げを受け三菱の所有となりました。これが長崎港発高島行の高速船から右手に見える三菱重工(株)長崎造船所なのです。 〔文:小川内清孝〕 参考文献 『旅する長崎学7 近代化ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学8 近代化ものがたり2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『岩崎弥太郎伝 上・下巻』(岩崎弥太郎・岩崎弥之助 伝記編纂会) 『岩崎弥太郎』(入交好脩著 吉川弘文館) スタート地点までのアクセス 風頭公園 所在長崎県長崎市伊良林3丁目510-6他 駐車場無し トイレ普通:有り、多目的:無し アクセス  車…長崎駅から約15分 バス・徒歩…「風頭山行」で約30分、終点下車で徒歩5分
  • 第29回 レトロな旅路 小浜鉄道をゆく 2008年09月17日
    第29回 レトロな旅路 小浜鉄道をゆく
    〜肥前小浜駅―上千々石駅 汽車ぽっぽ物語〜  肥前小浜−愛野間に開通した温泉小浜鉄道は、当時温泉リゾート地として脚光を浴びていた雲仙への観光客誘致にひと役買いました。運行期間はわずか10数年と短かったのですが、長崎県の交通発達の歴史に名を刻み、今でも道路として痕跡をたどることができます。急傾斜の多い地形で鉄道敷設が難しかった小浜から千々石までの間には、3つの馬蹄型のトンネルが残され、2007年(平成19)、経済産業省の近代産業遺産に認定されました。雲仙市商工会小浜支部のメンバーらが保存や街づくりに生かしています。メンバーの一人、城谷雅司さんに車で小浜鉄道跡「肥前小浜駅」から「上千々石駅」までを案内してもらいました。 歴史のとびら  愛野−肥前小浜間には、二つの鉄道会社の歴史があります。一つは愛野−千々石間を運行した「温泉(うんぜん)鉄道」、もう一つは千々石−肥前小浜間の「小浜鉄道」です。  温泉鉄道は1920年(大正9)に会社を設立し、1923年(大正12)に線路の敷設工事を完了しました。  一方、小浜鉄道は温泉鉄道に一年遅れて1921年(大正10)、小浜の地主だった本多親宗氏が会社を設立。私財を投げ売って、急傾斜地の岩場を切り開き、鉄道敷設に乗り出しました。当時、総工費約75万円(110万円という話も)という巨額をかけて、1926年(大正15)に工事を完成、1927年(昭和2)に待望の鉄道を開通させました。1933年(昭和8)、二つの会社は合併し、「温泉小浜鉄道」と名称を変更。始発から終着まで約17kmに及ぶ鉄道の旅は9つの駅で停車し、約1時間半の時間を要しました。  しかし、道路建設や自動車の普及のため営業不振に陥り、1938年(昭和13)に廃止。役目を終えてその姿は消えていきましたが、今では風情豊かな道 路として活用されています。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:車で40分 1小浜町歴史資料館 ↓車で10分 2「肥前小浜駅」跡 ↓車で5分 3関三兄弟の生誕地 ↓車で3分 4「富津駅」跡 ↓車で1分 5富津トンネル ↓車で3分 6緑のトンネル ↓車で1分 7「木津の浜駅」跡 ↓車で2分 8千々石第2トンネルと千々石第1トンネル ↓車で3分 9「上千々石駅」跡 1小浜町歴史資料館 小浜鉄道の歴史に触れる  まずは温泉街にある小浜町歴史資料館で小浜鉄道の歴史を予習しましょう!  小浜鉄道の創設者、本多親宗氏は資料館ゆかりの人物。といいますのも、資料館の建物には、湯太夫として小浜温泉を守り続けてきた本多家の蔵や家を活用しているからです。  展示物の中に、小浜鉄道建設の歴史をまとめた版画を見つけました。版画は1988年(昭和63)に木指小学校の5年生が制作。鉄道敷設の苦労を7枚にまとめ、小浜鉄道を郷土の誇りとして伝えています。  また、館内には再現した木津駅の駅長室もあり、昭和初期のレトロに触れることができます。 2「肥前小浜駅」跡 ようこそ小浜温泉へ 小浜鉄道の終発着駅  小浜の終発着駅、肥前小浜駅は温泉街から約3km離れた場所にあります。当時、小浜に到着した観光客たちは温泉街までタクシーを使っていたそうです。北野の第4分団消防格納庫の辺りには、今でもプラットホーム跡が残っています。 ちょっとブレイク 海を一望できるビュースポット「海の駅」 富津の入り口にある海鮮バーベキューの店。地元産の魚介類を炭火で焼いて堪能できます。ここから眺める小浜や橘湾の風景は圧巻。港を囲むように広がる富津は漁業の町で、いりこやエビなどが特産です。 3関三兄弟の生誕地 近代の児童教育に功績  ちょっと脱線して、富津に寄り道。小浜が誇る明治生まれの偉人「関三兄弟」を紹介します。3人とも日本の児童教育の礎を築いた功労者でした。  長男の衛氏は芸術教育の研究者でした。次男の寛之氏は東洋大学教授で文学博士。児童心理学などを研究し、児童の心身の健康のために臨海学校を呼び掛けた第一人者でした。三男の敬吾氏は民俗学者の柳田国男氏とともに、日本全国の民話を聞き書きして編集。「かちかち山」や「花さかじいさん」など、誰もが知っている「日本昔話」をまとめ、昔話研究の基礎を確立しました。児童教育の重要性に着眼した3人の功績の背景には、故郷富津での幼少期に聞いた母親の昔話があったといいます。故郷や家族の存在が、人を育てる力になること、あらためて心動かされました。 ちょっとブレイク 小浜の名物 小浜ちゃんぽん 小浜ちゃんぽんは今注目の名物料理。店によっては橘湾で捕れた小エビを殻ごと入れて味わいの深さを出す工夫も。地元でつくった麺はモチモチ、スープはあっさりで、おいしく頂きました! 4「富津駅」跡 高台から集落を見渡す 竹馬朋宏さん撮影  富津の集落を一望できる場所にあった富津駅。黒い煙を吐きながら、山の中腹を走る蒸気機関車の風景は小浜温泉や雲仙のよき時代の象徴だったのではないでしょうか。 5富津トンネル  富津小学校を過ぎると、馬蹄形の1つ目の近代化産業遺産に認定されたトンネルに到着。残念ながらコンクリートで一部を固められていますが、美しい馬蹄形には驚きです。 6緑のトンネル 岩場を切り通して線路を敷設 竹馬朋宏さん撮影  緑で生い茂ったトンネルは涼しい風が出迎えてくれます。両脇には切り立った岩。5年半もの歳月をかけて、岩場を切り開いてつくった鉄道敷設の苦労をしのばせます。 7「木津の浜駅」跡 一枚の写真が語る鉄道の思い出  木津駅跡の近くにある小さなタバコ屋さんには、当時よく鉄道に乗車していたという橋本喜造さん(87歳)がいます。「米ば買いに千々石まで行きよりました。小さかったけん、乗らんねって言われて、ただで乗せてもらってました」。子供の"特権"を生かして、木津の近所の人たちからよく千々石までおつかいを頼まれていたといいます。  店内には、線路上に立つ青年と少年の写真が飾ってありました。写真の中の、向かって右側の少年が当時7歳だった橋本さん、もう一人は小浜鉄道に勤務していた橋本さんのお兄さんです。1927年(昭和2)の開通のとき、蒸気機関車に乗り合わせていた新聞記者が撮影してくれたそうです。  橋本さんが思い出のひとコマを話してくれました。修学旅行の団体客が小浜に向かうとき、客車を連結していましたが、坂道で重くて進まずに、大人たちは降りて押していたのだとか。木津駅では石炭を多めにたいて、燃料を補給していたそうです。  木津駅跡に立つと、ここにもプラットホームの面影が残っていました。 8千々石第2トンネルと千々石第1トンネル 近代化産業遺産の2つのトンネル 竹馬朋宏さん撮影  木津駅を過ぎると、2つのトンネルが続きます。幅の狭いトンネルを通るときはちょっとドキドキ。対向車を気にしてクラクションを鳴らしながら、走行する車も。石を積み上げた馬蹄形のトンネルは趣があります。「できるだけ手をくわえない形で残していきたいです」と城谷さん。古いものを大切にしたいという姿勢に共感がもてました。 9「上千々石駅」跡 田んぼの中にある駅跡  千々石に来ると、これまでの風景と変わって平坦になります。今回の旅の終着駅「上千々石駅」です。足元を見ると、ここにもプラットホームの跡。近代化に尽くした人物や近代の産業遺産の足跡、そして苦労、鉄道の思い出話に出会いつつ、ずっと語り継いでほしいと感じました。 〔文:大浦由美子〕 参考文献 『雲仙・小浜温泉誌』長崎県衛生公害研究所編集(小浜町) 『雲仙の歴史』(長崎県) スタート地点までのアクセス 小浜町歴史資料館 所在 長崎県雲仙市小浜町北本町923-1 お問い合わせ 0957-75-0858 開館時間 9時~18時 休館日 月曜(祝日の場合は翌日) 料金 100円 駐車場 あり
  • 第28回 「水中考古学の宝庫」鷹島を訪ねて 2008年08月20日
    第28回 「水中考古学の宝庫」鷹島を訪ねて
    松浦市立鷹島歴史民俗資料館館内  長崎県北松浦半島の北西部に位置する松浦市。松浦は魏志倭人伝に「末盧(松浦)」と記され、古代から大陸と日本を結ぶ重要なルートになっていました。その北部、伊万里湾に位置し玄界灘に浮かぶのが鷹島です。東西5km、南北13kmのこの小さな島は「元寇」最後の決戦の地として有名な場所です。  鷹島が一躍有名になったのは、1980年(昭和55)に当時の文部省の特定研究に選ばれ、1982年(昭和57)から海底の沈没船の遺物調査と引き揚げ作業が本格的に始まったとき。それ以前にも壺や碇石などが引き揚げられていたので、この海底周辺が史実や記録に残る元寇の舞台ではないかと推定されていました。調査の結果、引き揚げられた遺物には元寇当時の中国製の壺やカメが多くあり、また地元の人の手によって元軍が使用した青銅印(管軍総把印)も発見されました。そこで鷹島南岸海底は遺跡として登録され、発掘調査が行われるようになったのです。 松浦市立鷹島歴史民族資料館館外  鷹島周辺の海底には、今もなお、元軍の巨大船団と大軍の大半が沈んでいます。海底から引き揚げられた数多くの元寇遺物は保存され、現在、元寇時代のものと裏づける科学的調査がすすんでいます。今回の歴史散歩は、今や日本屈指の水中考古学の"宝庫"として注目を集める鷹島を訪ねてみることにしました。 歴史のとびら  元(蒙古)のフビライは、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2度にわたり日本遠征を行いました。鷹島に元の大軍が襲来したのは「弘安の役」の時です。元と高麗が連合した東路軍と元と旧南宋が連合した江南軍が、2つのルートから約4400隻、総勢約14万人という大船団を組み押し寄せたといわれています。  しかし、元軍は鷹島で壊滅的な打撃を受けることになります。その原因は後年日本で「神風」と呼ばれた大暴風雨で、一説によれば付近を通過中の大型台風であったともいわれています。勢いに乗った鎌倉幕府軍は、鷹島で元軍の掃討戦を展開していますが、この時、『蒙古襲来絵詞』に描かれている肥後国の御家人 竹崎季長(たけざき すえなが)も鷹島に渡っていたのです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:車で約48分 1松浦市立鷹島歴史民俗資料館と松浦市立鷹島埋蔵文化財センター ↓車で約15分 2牧ノ岳(まきのたけ)史跡公園 ↓車で約3分 3開田(ひらきだ)の七人塚 ↓車で約30分 4鷹島モンゴル村 1松浦市立鷹島歴史民俗資料館と松浦市立鷹島埋蔵文化財センター 長崎県松浦市教育委員会蔵  鷹島には「松浦市立鷹島歴史民俗資料館」と「松浦市立鷹島埋蔵文化財センター」という隣接する2つの施設があります。ここは海底に眠っていた元寇の遺物を保存・公開している施設です。  松浦市立鷹島歴史民俗資料館には、海底の中から発見された引き揚げ遺物のほか、収集された考古学や民俗学の資料などが展示されています。主なものに元寇遺物、青銅印、壺、陶磁器片、石製品、鉄製品、てつはう(陶製弾)、剣などがあります。 松浦市立鷹島埋蔵文化財センター館内  いっぽう隣の松浦市立鷹島埋蔵文化財センターでは、引き揚げられた遺物の調査・研究・保存処理が行われています。この研究には考古学・日本史学だけではなく、電子工学、海洋学など、学問の領域を越えて多くの研究者が参加しているそうです。センターでは元寇船の大型木製碇や木製船体片群などに脱塩酸処理を施し、保存処理の作業が行われています。引き揚げられた木片群は、その後の調査・研究で中国南部原産の楠が多いことが判明し、年代測定で元寇当時に使用された元船とほぼ特定されました。 長崎県松浦市教育委員会蔵  松浦市立鷹島歴史民俗資料館の担当者にお聞きしましたら、来年春の「鷹島肥前大橋(仮称)[佐賀県唐津市肥前町−長崎県松浦市鷹島石川]」開通にあわせて、大型木製碇を一般公開するよう準備を進めているそうです。さらに詳しい調査・研究が進めば、鷹島は今後ますます「水中考古学の宝庫」として、目が離せない存在になることでしょう。 2牧ノ岳(まきのたけ)史跡公園  牧ノ岳は標高117mで鷹島では一番の高い場所にあり、島全域と四方をとりまく海を一望することができます。ここは牧ノ岳史跡公園として整備され、元寇の由来を記した石碑と五輪塔が建っています。 3開田(ひらきだ)の七人塚  文永の役の元寇で元軍が鷹島に侵入した際、鷹島の開田の山中に人目につきにくい1軒屋がありました。そこには8人家族が住んでいましたが、その家で飼っていたニワトリが鳴いたため、元軍の兵士に見つかり7人が殺され、灰だめに隠れていた老婆がひとりだけ助かったという伝説が残っています。それ以来開田では「ニワトリを飼わなくなった」とも伝えられています。現在開田には犠牲になった7人をまつった塚が建てられています。 4鷹島モンゴル村  鷹島は「鷹島モンゴル村」がある風光明媚な島としても有名です。弘安の役では鷹島は蒙古軍と鎌倉幕府軍の決戦の舞台となりましたが、平成の現在では、鷹島とモンゴルの交流が深まり、カラコルム地方のホジルト市と姉妹都市の関係にあります。鷹島モンゴル村には、モンゴルから取り寄せた30棟のゲルの宿泊施設や温泉センターなどがあり、特産品でもある鷹島のとらふぐを味わうことができるレストランもあります。 〔文:小川内清孝 / 取材協力:松浦市立鷹島歴史民俗資料館〕 スタート地点までのアクセス 松浦市立鷹島歴史民俗資料館 所在長崎県松浦市鷹島町神崎免151 お問い合わせ  TEL0955-48-2744 開館時間9時~17時 休館日毎週月曜 年末・年始 料金一般 300円(10名以上の団体230円)  小・中・高生 140円(10名以上の団体110円 松浦市今福港 ↓(フェリー所要時間約40分) 鷹島殿ノ浦港 ↓(車で約5分) 佐賀県星賀港 ↓(フェリー所要時間約10分) 鷹島日比港 ↓(車で約7、8分) 松浦市立鷹島歴史民俗資料館 2009年3月から佐賀県唐津市肥前町と長崎県松浦市鷹島町石川(いしごう)間に鷹島肥前大橋(仮称)が開通予定です。 松浦市立鷹島埋蔵文化財センター 所在長崎県松浦市鷹島町神崎免151 お問い合わせ  TEL0955-48-2098 アクセス松浦市立鷹島歴史民俗資料館と隣接。