ながさき歴史の旅

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ながさき歴史散歩

  • 第7回 殉教の足跡を探して 2007年07月04日
    第7回 殉教の足跡を探して
     17世紀、徳川幕府を震撼させた日本最大の一揆「島原の乱」。飢饉と凶作のなかでの重税、築城のための過重な負担、幕府の禁教令によるキリシタンへの拷問などなど、耐えるだけ耐えた島原・天草の領民たちの苦しみは怒りへと変わりました。 キリスト教の棄教を迫る厳しい拷問のはじまり、島原の乱の原因となった背景、天草四郎率いる一揆軍が原城へと篭城するまでの歴史を追いかけます。  雲仙岳の麓にある小浜からスタートして雲仙・島原・天草を巡り、島原の乱が勃発したきっかけを掴む今回の旅。訪れる先は、いまは風光明媚な温泉の名所ばかり。車とフェリーを乗り継いで、湯ったりのんびり歴史と温泉の旅を満喫しましょう! 歴史のとびら  豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康へと政治の主導権が移りました。家康は慶長8年(1603)に江戸幕府を開き強力な幕藩体制を確立していきます。当初、キリスト教の布教に寛大だった幕府は、布教を条件とするポルトガルとの貿易に対して不信感を持ち、増え続ける日本のキリシタンたちに脅威を抱くようになりました。特に、西日本を中心に増えるキリシタンが豊臣方の残党勢力が結束するのを恐れ、ついに幕府は禁教令を発布。1612年には天領に、そして1614年には全国に広げ、キリシタン摘発がおこなわれます。  1637年、このような厳しい拷問が続くなか、これに追いうちをかけるように天災、飢饉・凶作・重税などが島原半島と天草の領民を苦しめていました。同年、妊婦を拷問死させた事件や、代官が聖画像を踏みにじる事件が相次いで起こり、領民たちは激昂。おさまらない怒りに次々と島原半島南部の代官を襲いました。そして、島原半島と天草の間に浮かぶ湯島で、一揆軍の首謀者が密かに集まってキリシタンであることを表明し合い、天草四郎を総大将に蜂起することを誓った「湯島の談合」とよばれる密談がおこなわれました。一揆軍は数日後には島原城下を焼き払い、森岳城(島原城)を攻撃するも落城できず。天草では、本渡瀬で一揆軍と幕府の唐津軍が合戦、そして富岡城の総攻撃、最後の砦の本丸を陥落できず。城を落とせなかった島原と天草の領民ら約3万7千人(約2万7千人ともいわれる)は、廃城となっていた“原城”へと向かい籠城。一揆軍は若干16、17歳の天草四郎を総大将にポルトガルからの援軍を待ちながら、幕府の攻撃に耐えていました。悲愴なまでの覚悟を胸に、幕府という強大な権力に立ち向かった一揆軍の魂を感じる歴史の旅がはじまります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日(車) 1小浜町歴史資料館(湯太夫跡) ↓車で30分 2雲仙教会(雲仙市小浜町雲仙) ↓車で3分 3雲仙地獄(雲仙市小浜町雲仙) ↓車で40分 4島原城(島原市) ↓ 車で30分→フェリー(須川港−湯島)で約30分 5湯島(熊本県上天草市) ↓→フェリー(湯島-三角)で約70分→車で60分 6天草切支丹館(熊本県天草市) ↓車で40分 7殉教公園(熊本県天草市) ↓車で約40分 8富岡城跡(熊本県天草郡) 1小浜町歴史資料館(湯太夫跡) 森岳城(島原城)の門が残る湯の町・小浜  今回の旅は、雲仙への登山口でもある温泉郷・小浜からスタート。雲仙地獄での厳しい拷問をおこなった島原藩主 松倉重政は、長崎からの帰り道にこの小浜の温泉の入浴を楽しんでいる最中に、長崎奉行の刺客に暗殺されたといわれています。また、小浜地域の民話では、島原の乱勃発直前に天草四郎一行がこの辺りの温泉に立ち寄ったとも伝えられています。史郎は、戦を前にして、小浜の温泉で何を思っていたのでしょうか。島原の乱には、小浜の領民の多くが参加したそうです。(写真は小浜温泉街(長崎県観光連盟)  当時の様子を詳しく知るために、築160年を誇る温泉の番人 本多家の屋敷を利用した小浜町歴史資料館を訪れました。館内には小浜温泉を発展させた本多家の業績のほかに、島原の乱が起こったときの小浜の様子などが展示されています。資料館の入口には、明治維新の際に森岳城(島原城)解体で買い取ったという門が残っていました。この門を挟んで一揆軍と幕府軍が攻防を繰り返したのかもしれません。中庭には、昔から親しまれていた足湯や、武士や藩士が宿泊して湯地できる施設さむらい小屋などがあって、今では家族風呂として楽しめるそうですよ。 旅人コメント 「公民館の向かいにある「上の川湧水」に行ってみて!ここはキリシタン殉教の秘話に登場する湧水だそうです。」(茜) 「小浜の小さい路地を散策していたら発見しました『炭酸泉』。ボコボコと音をたてながら湧いています。熱いのかなと思って手を入れたら冷たかったのでビックリ! 肌によさそうね!」(芳乃) 2雲仙教会 殉教者に捧げられた教会  小浜から車で山道をうねうねと登ると、閑静な山あいに雲仙教会があります。日光に反射する赤レンガが特徴です。この教会は、雲仙地獄で長期間の拷問に耐えた後、長崎にある西坂の丘で火あぶりの刑に処せられた殉教者・アントニオ石田神父らに捧げるため、1981年に建てられました。毎年5月には殉教祭がおこなわれ、多くの巡礼者や観光客が訪れて、静かに祈りを捧げています。 3雲仙地獄 多くのキリシタンが殉教した文字通りの地獄  雲仙教会からさらに山手へ車を進めると、雲仙地獄に到着。立ち上る湯気と硫黄の独特なにおい、無骨な岩がゴロゴロしている光景はまさに「地獄」の様相です! 1627年、なんとこの熱湯煮えたぎる地獄にキリシタンを浸けては引き上げるという非道な拷問が始まります。幕府の禁教令に従ってキリスト教を棄教させるためとは言え、悲しい出来事です…。2007年6月1日、正式に列福が決まった「ペトロ岐部と187殉教者」のなかには、キリシタン大名の有馬晴信に仕え身分の高い武士だった内堀作右衛門をはじめとする雲仙で殉教した29名も含まれています。  時代は変わって明治になると、雲仙は外国人の避暑地として賑わいました。ゴルフやテニスといった当時ハイカラなスポーツが楽しめる温泉街。四季折々に楽しめる懐深い雲仙の自然は、日本で初めて国立公園の指定を受けました。 旅人コメント 「この看板を見て!私も大好きなんです。硫黄の燻製みたいな感じでおいしいんですよ。雲仙でしか味わえないタマゴです。」(温泉博士) 4島原城(森岳城) 一揆軍の攻撃を跳ね返した難攻不落の城  この島原城(森岳城)は、藩主・松倉重政が1624年の完成までに7年の歳月を費やしました。石高4万石に対して立派すぎる城郭建築のための重税と労役が、ゆくゆくは島原の乱を招くことになりました。湯島の談合の2日後、い1637年旧暦の10月26日に、一揆軍は総攻撃を仕掛けましたが、ついに落城できませんでした。  激戦の跡を、館内に展示された資料が物語っています。現在の城郭は、戦後に復元されたもの。湧水の豊かな島原! お城近くの店では、島原名物の“具雑煮”や夏限定の和のスイーツ“かんざらし”をいただくことができますよ。 旅人コメント 「城内に天草四郎の像を発見! 島原の一揆軍が籠城して最期を迎えたのが島原城だと勘違いしている人も多いとか・・。」(千秋) 5湯島  雲仙から県道132号線を通って南島原市西有家町の須川港から湯島商船のフェリーに乗って、天草の湯島へと渡りましょう。  目の前にぽっかりと浮かぶ「湯島」が見えてきますよ。この島は島原の乱 一揆軍の密やかな作戦会議の場となったことから「談合島」ともよばれます。1637年旧暦の10月、島原と天草の首謀者たちがこの湯島に集まり、一揆の計画を企てました。この密談で、若き天草四郎が一揆軍の総大将として決定しました。談合の翌日、一揆軍は、島原藩の代官 林兵左衛門を殺害し、2日後には森岳城(島原城)を攻めました。島原藩、幕府という強大な敵に立ち向かう時、彼らの心中にはどんな思いが交錯したのでしょうか。ちなみに湯島へは熊本の三角港から湯島商船の船で渡ることができます。夏には鯛釣り大会で賑わっています。  静かに浮かぶ湯島を見つめながら、今度は天草の一揆をたどってみましょう。 三角から天草パールラインを通る途中にある天草四郎公園(上天草市の大矢野島) で、1637年旧暦の10月28日に一揆軍がノロシを挙げました。ここからも湯島が見えますよ。一揆軍は徐々に上島から南下して、11月14日に本渡瀬戸の合戦、11月19日に富岡城まで攻め込みます。この距離を車で走るだけでも、その凄まじい勢いが伝わってきます 7殉教公園 一揆軍の武勇を伝える資料館と史跡のある殉教公園 ○天草切支丹資料館  島原の乱における天草最大の激戦地、本渡の町へ来ました。乱で使用されたキリシタンの品々を展示している天草切支丹館。現在は本渡歴史民俗資料館に移転され、仮館として開設しています(*)。館内のスタッフさんが話してくれる見事な島原の乱の物語を聞きながら、天草四郎陣中旗など貴重な資料を拝見。天草での一揆軍の勢いが、リアルに感じられるスポットです。 *現在、天草切支丹館は改装工事のため、天草市今釜新町にある本渡歴史民俗資料館の1階に移転しています。完成の予定は平成21年頃です。 ○殉教戦千人塚とキリシタン墓地(殉教公園)  本渡の町が一望できる高台にある殉教公園は、天草氏の本渡城があった場所です。ここは、16世紀に宣教師を招いて天草氏やその家臣たちが洗礼を受けたといわれている城の跡なのです。公園内に建つ殉教戦千人塚は、1637年旧暦11月、天草四郎率いる7千人のキリシタンと、幕府の唐津軍約2万5千人が本渡で激突した時に、命を落とした人たちを手厚く祀った地蔵堂を各所から集めてひとつにしたものです。  もう少し上の方へ歩いていくと、芝生の上に無数の白い十字架が並んだキリシタン墓地があります。ここで、日本で初めて西洋医学を伝えた宣教師ルイス・デ・アルメイダの記念碑を発見しました。長崎での布教にも活躍したアルメイダは、1583年、58歳のときにこの天草の地で亡くなったのですね。 旅人コメント 「天草四郎の像をここでも発見しました!九州には何体の像があるんでしょうね?」(バンブー) 8富岡城跡 一揆軍が攻めあぐねた山城  この旅の最後に訪れたのは富岡城跡です。一揆軍は、この城に総攻撃をかけ攻めたてたものの、ついに落とせず、これが戦局のターニングポイントになったという城です。城下には島原の乱の戦闘で命を落としたキリシタンを祀ったという首塚(千人塚)があり、戦いの凄惨さがひしひしと感じられます。  城郭は現在改修中。天守閣付近からは、青く美しい天草灘をぐるりと見渡せて、抜群の眺望が楽しめます。特に夕暮れ時は最高! 珍しい天草の海中生物などを展示している富岡ビジターセンターもありますよ。 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 特集2-第2章 アルメイダとヴィレラの足跡 長崎における布教と教会建設 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 特集2-第5章 雲仙地獄の拷問 そして絵踏みは始まった… 特集2 幕府をゆるがせた123日-島原の乱 『旅する長崎学6 キリシタン文化 別冊総集編』 第4章 キリシタン受難そして島原の乱 島原半島 スタート地点までのアクセス 小浜町歴史資料館(湯太夫) 所在 長崎県雲仙市小浜町北本町923-1 お問い合わせ TEL/0957-75-0858 開館時間 9:00〜18:00 休館日 月曜日 年末年始(12月29日〜1月3日) 料金 100円(小学生以下無料) 駐車場 11台 アクセス 車…国道57線より伊勢屋旅館先を左折、つきあたりを右へ約50m(諫早ICより50分) バス…島鉄バス[島原・雲仙・愛野駅・諫早線]《西登山口》より徒歩3分、長崎空港から約70分、諫早駅より約40分 ● 長崎空港、島鉄バスのバス停[小浜]までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第6回 世界遺産候補を巡る旅 上五島編 2007年06月20日
    第6回 世界遺産候補を巡る旅 上五島編
    小さな漁港が長崎のルーツ!?  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産の候補となりました。長崎におけるキリスト教の歴史は、伝来、繁栄、禁教、弾圧のあと、長い潜伏を経て奇跡の復活を遂げ、その後各地に教会が建てられ、いまに続いています。この世界宗教史上まれにみる激動の歴史と、厳しい迫害の中で何代にもわたって受け継がれてきた篤い信仰の姿を、いまもなお現存する教会や史跡の数々が物語っています。現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」には、県内各地に残るキリシタンの歴史を物語る文化遺産のなかでも、代表的な史跡や教会が構成資産として、県内20箇所がピックアップされています。  このウェブサイト「旅する長崎学<<たびなが>>」では、この20箇所を「平戸&外海編」「長崎市街&島原編」「下五島編」「上五島編」と、4編に分けてご紹介します。長崎のキリシタンの歴史を旅してそのすばらしさと価値を体感すると、これらの“長崎のたからもの”をずっと大切にして、世界中の人にも知ってほしいと思わずにはいられません。今回は、「上五島編」です。このエリアに点在する貴重な教会と遺産を旅してきました。教会は祈りの場所ですから、マナーを守って見学させていただきましょう。 歴史のとびら  長崎におけるキリスト教の歴史は、1550年、平戸に来航したフランシスコ・ザビエルの布教にはじまります。海外からやってきた宣教師たちの熱心な宣教活動と、南蛮貿易の利を得たい領主たちの思惑もはたらいて、キリシタンの数は増え続けますが、一転して受難の時代を迎えることになります。禁教下での弾圧による迫害、そして殉教・・・。1644年には日本国内にはひとりの神父もいなくなってしまいますが、キリシタンたちは先祖から伝えられた伝承やマリア信仰を心のよりどころに、潜伏しながらその教えを守り続けるのです。こうして受け継がれた篤い信仰は、約250年もの長い潜伏の時を経て、1865年、大浦天主堂を舞台に起こった「信徒発見」とよばれる信仰表明の感動的な瞬間へとつながり、日本キリシタンの復活は世界中に感動と衝撃を与えました。こののち、信仰の証として信徒たちの手によって建てられた教会は、まさに復活のシンボル的な存在となったことでしょう。長崎の自然環境とみごとに調和した幻想的で厳かな空間はもちろん、西洋と日本の技術が折り込まれた美しく独創的な意匠は、訪れる人々を魅了します。これらの遺産は450年以上もの歴史が育んだ結晶なのです。  現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産としてピックアップされているのは20資産。そのうち教会が12件、キリスト教関連遺産は史跡など8件となっています。この長崎の“たから”を、次の世代へと大切に受け継ぎたい。2007年、長崎県は世界遺産の登録へ向けての大きな一歩を踏み出しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日 1頭ヶ島天主堂 ↓車で約40分 2青砂ヶ浦天主堂 ↓有川港へ車で約20分+小値賀港へフェリーで約40分+町営船〔はまゆう〕35分+野崎港より徒歩20分 3旧野首教会 1頭ヶ島天主堂 キリシタンの楽園を夢見た石造りの教会  五島列島のほぼ中央にある中通島を目指し、フェリーに乗って有川港に着きました。さらに東へとバスで移動し、小さな頭ヶ島へと到着。石造りというので、重厚で硬い感じの教会かと思っていましたが、実際に見ると、その外観は砂岩らしい柔らくて温かみのある教会でした。  とても信心深いドミンゴ森松次郎という人物がいました。信徒発見後、長崎でプチジャン神父の教えを受けた彼は、上五島の鯛ノ浦へ戻り、五島キリシタンの指導者となりました。幕末まで無人島だった頭ヶ島に神父をかくまうために移り住み、家に仮聖堂を置いて伝道士を養成しながら信仰を続けました。しかし、この島へも迫害が迫ったため、一時住民たちは脱出しますが、禁教令が解かれたあとに再び戻り、教会の建設にあたりました。最初、森松次郎の屋敷跡に木造の聖堂が建てられました(明治20年)が、その後、石造りの聖堂建設が始まります(明治43年)。これは、教会建築の父といわれる鉄川与助の設計・施工によるもの。島で産出する天然の砂岩を使ったという、全国にも数少ない切石積みの天主堂です。内部は白椿の花が繊細に表現されていて、石造りのどっしりした外観からは想像もつかないほど清楚で可憐な雰囲気。ハンマービーム架構で折りあげられた天井は、他の教会でも見る事が出来ない珍しいものです。工事は資金難などで一時中断したりしながらも、大正8年に現在の聖堂が完成しました。  さぁ、湾に沿って、次の目的地・青砂ヶ浦天主堂に向かいましょう。 2青砂ヶ浦天主堂 アンジェラスの鐘が鳴り響く 丘の上の教会  汗をかきながら教会の白い入口をくぐって扉を開く。瞬間にハッと息を飲みました。ステンドグラスから差し込む陽光が、あまりに美しく、万華鏡のような空間をつくりだしていたのです。目に映った光景を見た時、旅の疲れが肩からフーッと抜けていく感じがしました。  青砂ヶ浦に住む人たちのご先祖さまは、外海のかくれキリシタンだといわれています。現在の天主堂は3代目。建材は長崎県内各地から運ばれたそうで、木材は平戸島、石材は頭ヶ島、レンガは早岐から。八丁櫓の船を濃いで運び、子どもたちも一緒になって奉仕したといいます。  奈摩湾を見下ろすように建ち、遠くからもよく見えます。 3旧野首教会 キビナゴ漁と共同生活が実った、海に向かって凛々しく建つ教会  西海国立公園に指定されている小値賀町野崎島へと町営船で渡りました。今はシカだけが住む無人島。ただ一人、旧野崎小学校を宿泊施設にした「自然学塾村」の管理人が住民票をおいています。白い砂浜と青い海がとてもきれいな野首海水浴場から、さらに歩いて5分。小高い丘の上にありました。海に向かって建つレンガ造りの教会です。  凛々しい佇まいの影には、信徒の血のにじむ努力が隠されていました。明治2年、島民がキリシタンと発覚して迫害を受ける事件が起こります。平戸へ移送された人たちは、仏教への改宗を迫る苦しい拷問に耐え、やっとの思いで故郷へと帰ってきますが、この島で信徒たちを待ち構えていたのは、荒れた家と貧困でした。痩せた土地のため現金収入が少なく、共同生活をしながらキビナゴ漁でこつこつと蓄えを増やし、教会建設の発注までに30年以上もかかりました。あまりにも信者が貧しいわりには発注された教会が立派だったため、施工した大工たちは最後に自分たちが埋められるのではないかと心配したといいます。信仰の証として立派な教会を建てることが、信徒たちの願いであり、心血を捧げた努力の結晶なのではないでしょうか。  今では無人となった島で、旧野首教会は貴重な宝として、小値賀国際音楽祭の会場などに活用されています。見学を希望するときは、事前に「おぢかアイランドツーリズム協会」(0959-56-2646)へ予約をしましょう。  「世界遺産候補を巡る旅」4回シリーズの最後に訪れた旧野首教会を、名残り惜しい気持ちいっぱいであとにしました。長崎のキリシタンの歴史、そう、迫害も殉教も今の私たちにとっては実感のないものだなって思っていたけれど、今回の旅で、こうした目には見えない歴史を、カタチある姿として物語りながら後世に伝えている教会や史跡を巡って、本当に感動しました。 旅人コメント 「蒼い海を望む教会、殉教者の血の色を表すという椿模様。物悲しくも美しい。」(ヒロ) 参考文献 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 特集4-第4章 五島のキリシタンと信徒発見後の迫害 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 特集3-第2章 教会建築の第一人者 鉄川与助は仏教徒の棟梁 特集4 教会がある風景は長崎の歴史を語る文化遺産 『文化百選 五島編』 企画/長崎県 製作/長崎新聞社 長崎県の文化財 長崎から世界遺産を「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」 スタート地点までのアクセス 頭ヶ島天主堂 所在 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷頭ヶ島(頭ヶ島) お問い合わせ 鯛ノ浦教会 TEL/0959-42-0221 新上五島町観光協会 TEL/0959-52-4964 開館時間 鯛ノ浦教会へ要予約 休館日 なし ミサ 第2・4日曜日16:00〜 駐車場 20台 アクセス 長崎からのアクセス…長崎港ターミナルより九州商船の「高速船(長崎-福江)」に乗船、中通島にある≪奈良尾≫で下船(所要時間は約1時間30分)。さらに奈良尾港より国道384号線を北上し車で約50分。バスの場合は、奈良尾港ターミナルより〔有川港〕行きに乗車し終点≪有川港ターミナル≫で下車(所要時間は約30分) 、〔頭ヶ島教教会〕に乗り換え≪頭ヶ島教会≫で下車(所用時間は約20分) 。 佐世保からのアクセス…佐世保港ターミナルより九州商船の「高速船( 佐世保-上五島)」に乗船、≪有川≫で下船(所要時間は約90分) 。または、「フェリーなみじ(佐世保-有川)」に乗船の場合は所要時間約2時間35分。さらに有川車港より約15分。バスの場合は、有川港ターミナルより〔頭ヶ島教教会〕行きに乗り換え≪頭ヶ島教会≫で下車(所用時間は約20分) 。 福岡からのアクセス…博多埠頭第2ターミナルより野母商船「太古」に乗船、≪青方≫で下船(所要時間は約6時間30分) 。さらに青方港より車で約10分。バスの場合は、青方港ターミナルより〔有川港〕行きに乗車、終点≪有川港ターミナル≫で下車(所用時間は約30分)。〔頭ヶ島教教会〕に乗り換え≪頭ヶ島教会≫で下車(所用時間は約20分) ● 長崎港ターミナル・佐世保港ターミナル・博多埠頭第2ターミナルまでのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。 五島を旅する前に! 教会見学は予約が必要な場合がありますから、事前に連絡しましょう。また、教会ではミサや冠婚葬祭がおこなわれますので、予約をしていても見学できないことがあることを心得ておきましょう。 海上タクシーや遊覧船を利用される場合は、事前に予約を入れる際に、旅のルートを相談してみましょう。 悪天候のためフェリーや高速船が運休になる場合があります。ゆとりをもって旅の計画をたてましょう。
  • 第5回 世界遺産候補を巡る旅 下五島編 2007年06月06日
    第5回 世界遺産候補を巡る旅 下五島編
    しまの教会群が物語るキリシタンの歴史  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産の候補となりました。長崎におけるキリスト教の歴史は、伝来、繁栄、禁教、弾圧のあと、長い潜伏を経て奇跡の復活を遂げ、その後各地に教会が建てられ、いまに続いています。この世界宗教史上まれにみる激動の歴史と、厳しい迫害の中で何代にもわたって受け継がれてきた篤い信仰の姿を、いまもなお現存する教会や史跡の数々が物語っています。現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」には、県内各地に残るキリシタンの歴史を物語る文化遺産のなかでも、代表的な史跡や教会が構成資産として、県内20箇所がピックアップされています。  このウェブサイト「旅する長崎学<<たびなが>>」では、この20箇所を「平戸&外海編」「長崎市街&島原編」「下五島編」「上五島編」と、4編に分けてご紹介します。長崎のキリシタンの歴史を旅してそのすばらしさと価値を体感すると、これらの“長崎のたからもの”をずっと大切にして、世界中の人にも知ってほしいと思わずにはいられません。今回は、「下五島編」です。このエリアに点在する貴重な教会と遺産を旅してきました。教会堂は祈りの場所ですから、マナーを守って見学させていただきましょう。 歴史のとびら  長崎におけるキリスト教の歴史は、1550年、平戸に来航したフランシスコ・ザビエルの布教にはじまります。海外からやってきた宣教師たちの熱心な宣教活動と、南蛮貿易の利を得たい領主たちの思惑もはたらいて、キリシタンの数は増え続けますが、一転して受難の時代を迎えることになります。禁教下での弾圧による迫害、そして殉教・・・。1644年には日本国内にはひとりの神父もいなくなってしまいますが、キリシタンたちは先祖から伝えられた伝承やマリア信仰を心のよりどころに、潜伏しながらその教えを守り続けるのです。こうして受け継がれた篤い信仰は、約250年もの長い潜伏の時を経て、1865年、大浦天主堂を舞台に起こった「信徒発見」とよばれる信仰表明の感動的な瞬間へとつながり、日本キリシタンの復活は世界中に感動と衝撃を与えました。こののち、信仰の証として信徒たちの手によって建てられた教会は、まさに復活のシンボル的な存在となったことでしょう。長崎の自然環境とみごとに調和した幻想的で厳かな空間はもちろん、西洋と日本の技術が折り込まれた美しく独創的な意匠は、訪れる人々を魅了します。これらの遺産は450年以上もの歴史が育んだ結晶なのです。  現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産としてピックアップされているのは20資産。そのうち教会が12件、キリスト教関連遺産は史跡など8件となっています。この長崎の“たから”を、次の世代へと大切に受け継ぎたい。2007年、長崎県は世界遺産の登録へ向けての大きな一歩を踏み出しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日 1堂崎教会 ↓福江島の福江港より海上タクシーで約20分 2旧五輪教会堂 ↓福江島の福江港に戻り、奈留島の奈留港へフェリーで約40分+車で約15分 3江上教会 1堂崎教会 ほら貝の合図に、五島の信者たちが小舟で集まった教会堂  16世紀の中頃、宣教師と外科医の2つの顔を持つポルトガル人のルイス・デ・アルメイダが奥浦に着きました。これが、五島の人々がキリスト教と出会った最初でした。アルメイダが五島でおこなった布教活動で、五島に教会が建ち、キリスト教の洗礼を受ける人たちが増えました。しかし、豊臣秀吉の伴天連追放令、さらに徳川幕府が発布した禁教令によって、キリシタンは幾度も迫害・弾圧を受ける苦難の時代が長く続きます。  明治に入って、禁教令の高札が撤廃されると、信者たちの要請で堂崎にもパリ外国宣教会から派遣された神父が訪れ、仮聖堂も建てられました。そして1908年(明治41)、五島では初めての本格的なゴシック様式の教会堂が、奥浦湾の岬「堂崎」に完成! ペルー神父の設計・指導によるもので、その後の天主堂建設の模範となりました。堂崎教会の赤いレンガは、はるばるイタリアから運んだものだそうです。ミサのはじまりは、ホラ貝で知らされ、この音を聞いた信者たちは、小舟を漕いで海辺に建つこの教会に集まってきたといわれています。  現在この教会堂は、キリシタン資料館となっていて、禁教下の歴史を物語る貴重なキリシタン関連の資料を見ることができます。 旅人コメント 「2月になると、福江は原生椿が咲き誇ります。」(ローザ) 「椿といえば、椿油を使った五島うどんが名物ですよね!のど越しのいい麺は最高。」(ちか) 2旧五輪教会堂 初期の教会建築の歴史を物語る、木造の貴重な教会堂  福江島のすぐ北側にあるのが久賀島で、久賀湾が入り込んだ馬蹄形をしています。五輪はこの久賀島(ひさかじま)にあるのですが、地区に行く大きな道がなくて、島の中でも孤島のようなところ。ここに建つ旧五輪教会堂は、五島で最も古い教会です。実は、1881年(明治14)、同じ久賀島の浜脇地区に「浜脇教会」として建てられたものを、1931年(昭和6)に解体して船で運んで、この地に創建当時のままに移築しました。和風の民家を思わせる外観ですが、中は三廊式、リブ・ヴォールト天井の典型的な教会建築の様式となっています。  海辺に建つ木造教会のため痛みが激しく、数度に渡って取り壊しの危機もあったといいますが、大切に守られてきたことで、目には見えないその歴史を私たちに伝えてくれています。いつまでも大事にしていきたい貴重な教会堂のひとつです。  旧五輪教会堂までのアクセスは、ちょっと割高ですが五島ならではの海上タクシーを使うのも旅の醍醐味。また、木口汽船さんでは福江港から田ノ上までのフェリーを運航しているほかに、「教会巡礼コース」があります。全コースにガイドさんが添乗して案内してくれますので歴史を満喫できますよ!フェリーで久賀島まで渡ったとしたら、田ノ浦から県道167号線を蕨(わらび)方面への一本道を歩きます。大開から白岳の道なき道をひたすら歩いて約80分。信仰を守った場所が、陸の孤島にあることを体感できます。 3江上教会 奈留島のクリーム色の壁が美しい教会。  久賀島のすぐ北側にあるのが奈留島。江上教会は、最盛期には60名以上の信徒たちが集まったという中五島中心の教会堂です。1918年(大正7)、鉄川与助の設計・施工によって建てられました。  屋根の上に十字架はありませんが、鬼瓦に刻まれた十字架がかえって印象的です。教会堂の中に入ると、天井や窓からロマネスク様式の厳粛な雰囲気がうかがえます。島に建つ木造の教会堂なので、海からの湿気に負けないよう、床下をやや高く設計してあるそうです。そして窓ガラスを見て下さい! 花模様はステンドではなく、丁寧に手描きされたもの。心が伝わります。  近年、一部修復と外観の塗装をして、一新した江上教会。修復には、奈留島の子どもから大人までが参加しました。海岸から砂利を運ぶその様子は、大正時代の建設当初を思い描かせる光景だったそうですよ。  下五島エリアに点在する3つの教会堂を訪れてみて、島という景観のなかに溶け込むようにひっそりと、でも健気に受け継いできた信仰をあらわすかのようにどっしりと、小さいけれど存在感のある教会堂の姿に、キリスト教の布教の歴史を見る思いがしました。頭ヶ島天主堂からはじまる次の上五島の旅に期待が膨らみます。次回の「上五島編」もお楽しみに! 参考文献 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 特集4-第4章 五島のキリシタンと信徒発見後の迫害 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 特集3-第2章 教会建築の第一人者 鉄川与助は仏教徒の棟梁 特集4 教会がある風景は長崎の歴史を語る文化遺産 『文化百選 五島編』 企画/長崎県 製作/長崎新聞社 『文化百選 海外交流編』 企画/長崎県 製作/長崎新聞社 長崎県の文化財 長崎から世界遺産を「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」 スタート地点までのアクセス 堂崎教会 所在 長崎県五島市奥浦町堂崎2019(福江島) お問い合わせ 堂崎教会 キリシタン資料館 TEL/0959-73-0705 開館時間 9:00〜17:00(11月11日〜3月20日は9:00〜16:00) 休館日 12月30日〜1月2日 料金 大人300円 中高生150円 子ども100円 ミサ 第1日曜日5:30〜 駐車場 50台 注意 教会堂内部の撮影禁止。 アクセス 車…福江島にある福江港より県道162号線を北上し約15分。福江空港から約20分。 バス…福江より五島バス〔戸岐〕行きに乗車し≪堂崎天主堂入口≫で下車(所要時間は約20分)。徒歩10分。 福江島までのアクセス ■飛行機で福江空港まで行く! 長崎空港…ORCで約30分。 福岡空港…ANAで約40分。 関西空港(大阪)…ANAで約80分。但し夏の期間のみ運行。 *福江空港からは、五島バス〔巡回バス〕に乗車し≪福江≫で下車(所要時間は約5分)。〔戸岐〕行きに乗り換え≪堂崎天主堂入口≫で下車(所要時間は約20分)。徒歩10分。 ■フェリーで福江港まで行く! 長崎空港ターミナル…九州商船「ジェットフォイル(長崎-奈良尾-福江)」で約1時間30分。または、フェリーで約3時間30分。 博多埠頭第2ターミナル…野母商船「太古(博多-宇久-小値賀-青方-若松-奈留-福江)」で約9時間30分。 ● 長崎港ターミナル・博多埠頭第2ターミナル、長崎空港・福岡空港・関西空港までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。 五島を旅する前に! 教会見学は予約が必要な場合がありますから、事前に連絡しましょう。また、教会ではミサや冠婚葬祭がおこなわれますので、予約をしていても見学できないことがあることを心得ておきましょう。 海上タクシーや遊覧船を利用される場合は、事前に予約を入れる際に、旅のルートを相談してみましょう。 悪天候のためフェリーや高速船が運休になる場合があります。ゆとりをもって旅の計画をたてましょう。
  • 第4回 世界遺産候補を巡る旅 長崎市街&島原編 2007年05月16日
    第4回 世界遺産候補を巡る旅 長崎市街&島原編
    殉教、そしてキリスト教信仰の復活した時代を読み解く  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産の候補となりました。長崎におけるキリスト教の歴史は、伝来、繁栄、禁教、弾圧のあと、長い潜伏を経て奇跡の復活を遂げ、その後各地に教会が建てられ、いまに続いています。この世界宗教史上まれにみる激動の歴史と、厳しい迫害の中で何代にもわたって受け継がれてきた篤い信仰の姿を、いまもなお現存する教会や史跡の数々が物語っています。現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」には、県内各地に残るキリシタンの歴史を物語る文化遺産のなかでも、代表的な史跡や教会が構成資産として、県内20箇所がピックアップされています。  このウェブサイト「旅する長崎学<<たびなが>>」では、この20箇所を「平戸&外海編」「長崎市街&島原編」「五島編」と、3編に分けてご紹介します。長崎のキリシタンの歴史を旅してそのすばらしさと価値を体感すると、これらの“長崎のたからもの”をずっと大切にして、世界中の人にも知ってほしいと思わずにはいられません。今回は、「長崎市街&島原編」です。このエリアに点在する貴重な教会と遺産を旅してきました。教会は祈りの場所ですから、マナーを守って見学させていただきましょう。 歴史のとびら  長崎におけるキリスト教の歴史は、1550年、平戸に来航したフランシスコ・ザビエルの布教にはじまります。海外からやってきた宣教師たちの熱心な宣教活動と、南蛮貿易の利を得たい領主たちの思惑もはたらいて、キリシタンの数は増え続けますが、一転して受難の時代を迎えることになります。禁教下での弾圧による迫害、そして殉教・・・。1644年には日本国内にはひとりの神父もいなくなってしまいますが、キリシタンたちは先祖から伝えられた伝承やマリア信仰を心のよりどころに、潜伏しながらその教えを守り続けるのです。こうして受け継がれた篤い信仰は、約250年もの長い潜伏の時を経て、1865年、大浦天主堂を舞台に起こった「信徒発見」とよばれる信仰表明の感動的な瞬間へとつながり、日本キリシタンの復活は世界中に感動と衝撃を与えました。こののち、信仰の証として信徒たちの手によって建てられた教会は、まさに復活のシンボル的な存在となったことでしょう。長崎の自然環境とみごとに調和した幻想的で厳かな空間はもちろん、西洋と日本の技術が折り込まれた美しく独創的な意匠は、訪れる人々を魅了します。これらの遺産は450年以上もの歴史が育んだ結晶なのです。  現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産としてピックアップされているのは20資産。そのうち教会が12件、キリスト教関連遺産は史跡など8件となっています。この長崎の“たから”を、次の世代へと大切に受け継ぎたい。2007年、長崎県は世界遺産の登録へ向けての大きな一歩を踏み出しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日 1日本二十六聖人殉教地 ↓車で約5分 or 徒歩で約20分 2サント・ドミンゴ教会跡 ↓車で約15分or 徒歩で約40分 3大浦天主堂 ↓同じ敷地内で、隣の建物。 4旧羅典神学校 ↓車で約2時間 (長崎で宿泊。朝、車で出発!) 5原城跡 ↓車で約10分 6日野江城跡 ↓車で約7分 7吉利支丹墓碑 1日本二十六聖人殉教地 26人の十字架上での殉教、聖なる西坂の丘  長崎駅から歩いてすぐ、浦上街道のスタート地点に二十六聖人が殉教した丘があります。 豊臣秀吉の命によって、京都や大坂で捕らえられた24名の宣教師やキリシタンたちは、見せしめのために長崎までの道を裸足で歩かされました。道中2人が加わり、26人は処刑地の長崎へ。キリシタンの町として栄えていた長崎に住む人々への、秀吉からの警告だったのでしょう。  1597年2月5日、港と町が見える丘に26本の十字架が一列に並び、約4000人の群衆が見守るなか、聖歌や涙ぐむ声に囲まれて、26人は殉教の死を遂げました。十字架の穴の跡に、そっと花の苗が植えられ真っ赤な椿が咲いたそうです。  西坂の丘は「聖なる丘」「殉教者の丘」と呼ばれるようになり、1862年、この26人は聖人に列せられました。 ◎この「ながさき歴史散歩」では、後日「二十六聖人が歩いた浦上街道」を企画していますので、お楽しみに! 旅人コメント 「この記念碑の裏手には、殉教の歴史がわかる日本二十六聖人記念館があります。ちょっと隠れていて見えないけど寄ってみて!」(テツヲ) 「祈念碑の26人を順に見ていくと、小さな子どもがいるのに気づきました。ルドビコ茨木という12歳の少年でした。」(みき) 2サント・ドミンゴ教会跡 小ローマの面影を訪ねて−ホントに教会があったんだ!  国道34号沿い、桜町小学校の校門の前にある教会跡の碑を見つけてください。向かって右側へグルリと回り、小学校の横道を通って歩くとサント・ドミンゴ教会跡資料館の入口があります。  一歩入って驚きました。土の匂いがします! ここは17世紀のはじめにドミニコ会の教会があった場所。2002年の発掘調査で発見された教会遺跡が、発掘現場そのままに保存されています。大量に出土した花十字紋瓦も必見です。  桜町小学校から長崎県庁にかけての通り沿い(いまは国道で県庁・市役所や会社の事務所が並ぶオフィス街)をはじめ、この付近一帯にはその昔にはズラリと教会が建ち並び、さながら小ローマのようだったそうです。 3大浦天主堂 居留地に建つ、フランス寺と呼ばれた教会。  日本に現存する最古の教会で国宝に指定されており、長崎のイメージを代表するものとしてあまりに有名です。この大浦天主堂は、実は、今回最初に訪れた二十六聖人殉教地とゆかりがあります。江戸末期、安政の開国後に再布教のため訪れたパリ外国宣教会の神父によって、26人に捧げて建てられた「日本二十六聖殉教者天主堂」なのです。二十六聖人殉教地と大浦天主堂はほぼ南北軸線上にあって、昔はどちらの場所に立ってもお互いの建物がよく見えていたそうです。今ではビルが建ち並んで見えないのが残念。 そして、この大浦天主堂は、世界宗教史上の奇跡といわれる「信徒発見」の舞台。教会の中に入ったら右側の奥まで進んでみてください。浦上の潜伏キリシタンとプチジャン神父が奇跡的な出会いをし、「サンタ・マリアのご像はどこ?」と信仰表明のきっかけとなったマリア様が安置されています。 旅人コメント 「大浦天主堂と旧羅典神学校の間の、レンガ塀とゆるやかな石畳がとても好きなんです。ヨーロッパの路地裏みたいでしょ!」(椿) 4旧羅典神学校(長崎公教神学校) 「日本人の手で教会の自立を!」プチジャン神父の熱い教育  大浦天主堂で静かな時を過ごした後、天主堂の出入口をそのまま左へ。テラス付きの二階建ての建物が、司祭を目指す少年たちの学び舎「神学校」でした。 この学校から開国後はじめての日本人司祭を輩出しました。講義が全てラテン語でおこなわれたので、羅典神学校と呼ばれました。この建物は現在、 キリシタン資料室になっていています。 旅人コメント 「建物に入って資料を展示してある各部屋の入口には、「自習室」とか「図書室」という立て札がありました。なんか懐かしい!」(ヒロ) 5原城跡 天草四郎とともに散った一揆軍、「島原の乱」の舞台  島原の乱のとき、天草四郎率いる一揆軍が籠城したのがこの原城です。現地を訪れて、まずビックリしたのが城郭の広さ。実際にどのくらいだと思います? 周囲4キロメートルですよ! 一揆軍の数は約3万7000人ともいわれますから、確かにこれくらいの大きさは必要かなと納得しつつも、やはり驚きでした。  海に面した断崖にある、天然の要害「原城」。有明海を眺めながら、ゆっくりと本丸へ向かいました。目の前の天草灘の沖合いの風景に、しばし当時へと思いを馳せる。一揆軍の首謀者たちが蜂起の話し合いをしたという談合島(湯島)、幕府の援軍として参戦したオランダ船2隻の砲撃・・・。本丸には、りりしい天草四郎の像がありました。原城跡では、近年になって発掘調査がおこなわれており、検出した遺構や出土した遺物は「原城」の姿を明らかにするとともに、「島原の乱」を考察するうえでも貴重な手がかりとなっています。  車で5分ほど走ったところにある原城文化センターには、発掘で出土した十字架やメダイ、石垣のレプリカなどが展示してあるので、時間があったら寄ってみて! 旅人コメント 「海の向こうに見える天草の方角を向いた小さなお地蔵さまが並んでいました。」(マーチン) 6日野江城跡 有馬氏の居城と、キリシタン文化で栄華を極めた有馬の町  戦国時代の武将でキリシタン大名だった有馬氏の居城。階段を登っていくと、平に開けた場所にでました。眼下には畑が広がる有馬の町、その先には原城が一望でき、天草灘も見渡せます。有馬氏は、島原全体を領土に持つくらい勢力をもっていた領主。  城下には教会が建ち、セミナリヨなどのキリシタン学校もありました。当時の有馬は、西洋の音楽が流れるキリシタン文化が華開いたまちでした。小ローマといわれた時代の長崎と肩を並べるほどの繁栄ぶりだったそうです。 旅人コメント 「日野江城から、島原の乱の前に島原と天草の人たちが話し合いをした湯島が見えました!このことから別名「談合島」とよばれているんです。映像もクリックしてみてね。」(カメラマン) 7吉利支丹墓碑 花十字紋とローマ字が刻まれた、カマボコ型のキリシタンの墓  共同墓地の中で周囲のお墓より高い白い十字架を目指して歩いてください。見つけました! ガラス張りの小屋の中にありました。カマボコ型のお墓は、ポルトガルから伝来したローマ式。墓石の表面には「フィリ作右衛門ディオゴ」とポルトガル式のローマ字綴りで刻まれています。このローマ字は日本最古の碑文だそうです。作右衛門さんが没した年の1610年は、サント・ドミンゴ教会が建った翌年にあたります。断面が2重に縁取られていてホントにカマボコのようです。有馬でキリシタン文化が華開いた時代、年数が西暦で刻まれているのも不思議ではないのですね。 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 特集2 宣教師たち長崎で動く! ザビエルの遺志を継いだ人々 特集4 「小ローマ長崎」と消えた教会 『旅する長崎学2 キリシタン文化2』 特集3 セミナリヨで咲いたキリシタン文化の華 『旅する長崎学3 キリシタン文化3』 巻頭特集 秀吉はなぜ26人のキリシタンを処刑したのか 特集3 幕府をゆるがせた123日-島原の乱 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 巻頭特集 「サンタ・マリアの御像はどこ?」 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 巻頭特集 開国日本 キリスト教再来 第一歩は長崎から 特集2 宣教師が尽くした日本の教育事業 特集3 キリシタンの夢 日本人のために天主堂が建つ 長崎県の文化財 長崎から世界遺産を「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」 スタート地点までのアクセス 日本二十六聖人殉教地 所在 長崎県長崎市西坂町7-8 お問い合わせ 日本二十六聖人記念館 TEL/095-822-6000 開館時間 9:00〜17:00 休館日 年末年始 アクセス 徒歩…JR長崎駅より徒歩5分。 路面電車…〔長崎駅前〕下車。徒歩5分。 バス…〔長崎駅前〕下車。徒歩5分。 ● JR長崎駅までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。 Webサイト http://www.26martyrs.com/
  • 第3回 世界遺産候補を巡る旅 平戸&外海編 2007年05月02日
    第3回 世界遺産候補を巡る旅 平戸&外海編
    キリシタンゆかりの里を訪ねて  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産の候補となりました。長崎におけるキリスト教の歴史は、伝来、繁栄、禁教、弾圧のあと、長い潜伏を経て奇跡の復活を遂げ、その後各地に教会が建てられ、いまに続いています。この世界宗教史上まれにみる激動の歴史と、厳しい迫害の中で何代にもわたって受け継がれてきた篤い信仰の姿を、いまもなお現存する教会や史跡の数々が物語っています。現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」には、県内各地に残るキリシタンの歴史を物語る文化遺産のなかでも、代表的な史跡や教会が構成資産として、県内20箇所がピックアップされています。  このウェブサイト「旅する長崎学<<たびなが>>」では、この20箇所を「平戸&外海編」「長崎市街&島原編」「五島編」と、3編に分けてご紹介します。長崎のキリシタンの歴史を旅してそのすばらしさと価値を体感すると、これらの“長崎のたからもの”をずっと大切にして、世界中の人にも知ってほしいと思わずにはいられません。今回は、「平戸&外海編」です。このエリアに点在する貴重な教会と遺産を旅してきました。教会は祈りの場所ですから、マナーを守って見学させていただきましょう。 歴史のとびら  長崎におけるキリスト教の歴史は、1550年、平戸に来航したフランシスコ・ザビエルの布教にはじまります。海外からやってきた宣教師たちの熱心な宣教活動と、南蛮貿易の利を得たい領主たちの思惑もはたらいて、キリシタンの数は増え続けますが、一転して受難の時代を迎えることになります。禁教下での弾圧による迫害、そして殉教・・・。1644年には日本国内にはひとりの神父もいなくなってしまいますが、キリシタンたちは先祖から伝えられた伝承やマリア信仰を心のよりどころに、潜伏しながらその教えを守り続けるのです。こうして受け継がれた篤い信仰は、約250年もの長い潜伏の時を経て、1865年、大浦天主堂を舞台に起こった「信徒発見」とよばれる信仰表明の感動的な瞬間へとつながり、日本キリシタンの復活は世界中に感動と衝撃を与えました。こののち、信仰の証として信徒たちの手によって建てられた教会は、まさに復活のシンボル的な存在となったことでしょう。長崎の自然環境とみごとに調和した幻想的で厳かな空間はもちろん、西洋と日本の技術が折り込まれた美しく独創的な意匠は、訪れる人々を魅了します。これらの遺産は450年以上もの歴史が育んだ結晶なのです。 現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産としてピックアップされているのは20資産。そのうち教会が12件、キリスト教関連遺産は史跡など8件となっています。この長崎の“たから”を、次の世代へと大切に受け継ぎたい。2007年、長崎県は世界遺産の登録へ向けての大きな一歩を踏み出しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日 1宝亀教会 ↓車で約30分 2田平天主堂 ↓車で相浦港まで約30分+フェリーで約50分+徒歩約20分(佐世保で1泊、相浦10:00発に乗船) 3黒島天主堂 ↓相浦フェリー乗り場より車で約1時間30分 4大野教会 ↓車で約10分 or 徒歩約1時間 5ド・ロ神父遺跡 ↓徒歩約10秒 6旧出津救助院 ↓徒歩約5分 7出津教会 1宝亀教会 赤レンガと白でふちどりが印象的、マタラ神父と信者が協力して建てた教会  宝亀教会は、平戸の教会のなかでもっとも古く、側面にテラスをもつ珍しい設計。マタラ神父の指導のもと、木材や瓦を運び、白い漆喰の壁は、貝殻を拾い集めて焼いて丁寧に塗って完成させた教会。建設当初から変わらない輝きを放っているステンドグラスの美しさは格別です。信徒ひとりひとりの手で築き、大切にしてきた教会だと思うと、旅の興奮を抑えて静かに見学させてもらいました。 2田平天主堂 なにもないところからスタートした、荘厳なレンガ造りの教会  パリ外国宣教会のラゲ神父(黒島教会)とド・ロ神父(出津教会)の2人が自費で購入した田平の地に、黒島や外海の信徒たちを移住させたのが最初だったそうです。 信徒たちはなにもない土地を開墾しながら生活の基盤を整え、仮聖堂もつくりました。入植してから約30年後に、信徒総出の労働奉仕によって建てられたのが、このレンガ造りの教会です。設計は、教会建築の第一人者である鉄川与助で、彼の名作と評される教会のひとつ。  レンガの目詰めには信者たちが「ミナ」の貝殻を焼いてつくった石灰を使い、外壁部分の黒っぽいレンガは信者の家庭の鍋や釜のすすを油に混ぜて塗って色を出したと伝えられています。 信者の皆さんの手づくりのあとに、その苦労と思いを感じながら、静かに見学しましょう。 旅人コメント  「教会の前には、貝殻のミナを焼いたというレンガの囲いが残っていましたよ。忘れずに見てください」(かえで)  「先日、田平教会を訪れた時、雲の隙間からさす夕陽がとても神秘的だったので、思わずカメラを手に取り写真を撮りました。 しばらくその風景に見とれていました…。」(ケンケン) 3黒島天主堂 黒い瓦と赤レンガの教会、有田焼のタイルが聖なる祭壇を演出  佐世保の相浦からフェリーに乗って黒島へ。人口約900人が住んでいる小さなしま“黒島”に建つ教会をめざします。この教会はフランス人のペルー神父が建てた木造レンガ造りの教会です。フランスから取り寄せた鐘やステンドグラスが当時のまま残っています。祭壇には有田焼のタイルが貼られていました。タイルに映る神秘的なステンドグラスの光に、おもわず吸い込まれそうでした。 4大野教会 ヨーロッパの片田舎を思わせる、石積みの素朴であたたかな教会  大野のバス停から山手に向かってくねくねと小路を登った山間にひっそりと建っています。キリシタン禁制の高札が撤去されたとはいっても、まだキリスト教への偏見があった明治のはじめ、フランスから日本へとやってきたド・ロ神父が、私財を投じて信徒たちのために建てた教会です。ド・ロ神父独特の工法(石灰・赤土・砂を調合しモルタルとして使用)によって、信徒たちが大野岳の自然石を積み上げてつくったそうです。ローカルな建築様式だけに、絶対にほかでは見ることのできないものだから必見です。白い漆喰が塗られているところが入り口。教会の正面には、あたたかく見守ってくれるマリア像が建ち、眼下に広がる角力灘の蒼さが心を洗ってくれる・・・。そんな素晴らしい風景にも感激しました。 5ド・ロ神父遺跡(出津文化村) 外海の信徒に捧げた、ド・ロ神父の深い慈愛   外海には「出津文化村」とよばれる一角があります。ここでは、崇高なキリスト精神と不屈のフロンティア精神で社会福祉事業に貢献したド・ロ神父の功績にふれることができます。  現在はド・ロ神父記念館となっている鰯網工場跡のほか、ド・ロ神父が設計した出津教会、授産施設の旧出津救助院などを巡りましょう。貧しい村人の生活を高めるため、機械・網すき・染物・搾油・パン・マカロニ・ソーメン製法を教えたド・ロ神父の愛を感じることができます。印刷・出版事業、教会建築、開墾、道路工事、防波堤建築などの土木工事、社会福祉施設事業、医療・救護活動などなど、驚くほどに何事にも万能だったド・ロ神父は外海にとって救世主のような存在だったにちがいありません。 写真の白い建物がド・ロ神父記念館です。館内には、ド・ロ神父が使用した100年以上前のオルガンやメダイなど、ゆかりの品々が展示されています。 6旧出津救助院(出津文化村) ド・ロ神父が考えた、女性たちが自活するために働く授産施設   ド・ロ壁に沿って門を入りましょう。普通の民家に見えますが、ここは女性たちの自立支援をおこなった授産施設です。居留地に住む外国人たちに売る商品をたくさん作る工場のような感じ。1階は作業場、北側には窯のあるパン焼室、2階は裁縫のための部屋。パンやマカロニ、そうめん、機織、日本人にはまだ馴染みのない洋服を作って製品化していました。商品の商標は「至風舎」。ド・ロ神父は、こうした時代を先取りした技術のほかに、読み書きや算術も女性たちに教えたそうです。 旅人コメント 「遠藤周作記念館にあるレストランで、外海名物の「ド・ロさまそうめん」を食べました。フランス産の小麦粉と落花生油でつくられた、コシのある食感がたまらない! おいしかったです。」(ウミウシ) 7出津教会(出津文化村) まぶしく輝く白壁と低い天井、独特のフォルムがド・ロ神父の独創性  どこからか鐘の音が聞こえてきました。旧出津救助院から鐘の音の鳴るほうへと、山手に向かってみると、今回の旅の終着点、出津教会に辿り着きました。外海全体に鳴り響くこの鐘は、ド・ロ神父がフランスから取り寄せた当時のもの。教会全体のカタチを見て下さい。今回の旅で訪れたほかの教会とはちょっと違うと思いませんか? 角力灘から吹き寄せる海風に耐えるために、天井が低く造られているそうです。 旅人コメント 「出津教会は、さだまさし原作の映画『解夏』の舞台になったんですよね。大沢たかおと石田ゆり子の2人が、角力灘の向こうに見える五島を見るために訪れた場所だったと思うけど。外海の海岸線をドライブしてました!」(ヤムヤム) 参考文献 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 特集2 宣教師が尽くした日本の教育事業 特集3 キリシタンの夢 日本人のための天主堂が建つ 特集4 教会がある風景は長崎の歴史を語る文化遺産 長崎県の文化財 佐世保市教育委員会社会教育課資料 スタート地点までのアクセス 宝亀教会 所在 長崎県平戸市宝亀町1170 お問い合わせ 宝亀教会 TEL/0950-28-0324 開門 6:00〜17:00 ミサ 土曜日19:00(4〜9月は19:30) 日曜日9:30 アクセス 車の場合は、佐世保方面から国道204号線を北上し平戸大橋(有料)を渡る。左折して平戸大橋バイパスを通り国道383号線を南下し約15分。宝亀小学校を過ぎたら右折して約3分。 バスの場合は、佐世保駅より西肥バス〔平戸〕行きに乗車し<<平戸桟橋>>で下車(乗車時間は約90分)。〔宮之浦〕行きに乗り換え、〔宝亀〕で下車(乗車時間は約20分)。徒歩10分。 松浦鉄道の場合は、「たびら平戸口」下車、<<平戸口駅前亀>>より西肥バス〔平戸桟橋〕行きに乗車、終点<<平戸桟橋>>で下車(乗車時間は約15分)。〔宮之浦〕行きに乗り換え、<<宝亀>>で下車(乗車時間は約20分)。 ● JR佐世保駅・松浦鉄道「たびら平戸口」までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第2回 ザビエルも訪れた国際貿易港(長崎県平戸市) 2007年04月18日
    第2回 ザビエルも訪れた国際貿易港(長崎県平戸市)
    歴史の中の“Firand”(フィランド)へ 平戸大橋を渡って、歴史の浪漫があふれる城下町「平戸」へと向かいました。その昔、貿易を通じて、中国・ポルトガル・オランダ・イギリスといった異国の文化を吸収した海外交流の玄関口。西洋の佇まいと美しい城下町のまち並みは、平戸ならでは。ここは訪れるたびに新しい発見に出会えるまちです。16世紀の国際貿易港・祈りの島“Firand”(フィランド)を巡る心弾む楽しい旅に出かけましょう。 歴史のとびら  平戸は、遣唐使船の寄港地となるなど、古くからアジアとの海上交通ルートにおいて重要な港でした。16世紀、この港町は世界を結ぶ海外交易の要所としてさらに栄えることとなります。  長崎県と西洋の最初の出会いは、1550年、ポルトガル船の平戸入港に始まります。東洋でのキリスト教布教に生涯を捧げたフランシスコ・ザビエルも平戸にやってきました。貿易に熱心だった当時の領主・松浦隆信のもと、南蛮貿易とキリスト教布教の出発の地となった平戸は、世界地図にFirando(フィランド)と記され、その名を世界に知られます。  17世紀になると、新教国のオランダやイギリスがアジアに進出。ポルトガル船が去った平戸にも入港し、1609年にオランダ商館が、1613年にはイギリス商館が開設され、瞬く間に国際貿易港としての脚光を再び浴びることになります。  1550年(ポルトガル船来航)から1641年(オランダ商館が長崎・出島に移転)までのおよそ90年間、ポルトガル、イギリス、オランダなどヨーロッパの国々と親密な交わりをもち、海外文化の交差点となった「平戸」。いまから約450年前、世界への扉が大きく開け放たれたこのまちに残る異国の香りを訪ねました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約6時間30分 1平戸城(亀岡城) ↓車で5分 2平戸和蘭商館跡 ↓徒歩5分 3平戸観光資料館 ↓徒歩5分 4聖フランシスコ・ザビエル記念碑 ↓徒歩10分 5松浦史料博物館 ↓徒歩3分 6六角井戸 ↓徒歩15分 7聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂 ↓徒歩5分 8寺院と教会が混在する風景 ↓徒歩10分 9英国商館記念碑 ↓車で10分 10冨春園・冨春庵跡 ↓車で30分 11宝亀教会 ↓車で30分 12平戸市切支丹資料館 ↓徒歩12分 13根獅子の浜 1平戸城(亀岡城) 城下町が一望できる絶景のポイント 領主 松浦家の居城  平戸の領主 松浦家の居城・平戸城(亀岡城)からスタート。この平戸を国際貿易港として繁栄させた松浦隆信(道可)の願いのもと、息子の26代鎮信(法印)は「日の岳城」を築城しますが、幕府に対する政治的配慮から自ら焼き捨てます。その後、29代鎮信(天祥)が山鹿流で再建した「亀岡城」は、明治維新で廃城するまで平戸藩政の中心となりました。現在の平戸城は昭和37年に復元されたもの。 天然の外堀に建つ平山城で、天守閣からは港や町並み、対岸の田平地区などを見渡すことができます。ここから、入港する南蛮船や阿蘭陀船を南蛮渡来の遠眼鏡(望遠鏡)で眺めるお殿様の姿を想像しながら、平戸のまちを一望。お次の平戸和蘭商館跡はこの対岸。海岸沿いをグルリと車で回りましょう。 2平戸和蘭商館跡 世界初の株式会社「オランダ東インド会社」がやってきた! ただいま復元計画進行中。  「VOC」のマークを、美術館や博物館で見たことはありませんか? そうです、オランダ東インド会社の社章です。この会社が平戸へやってきたのは、会社設立から7年後の1609年。江戸幕府から日本での貿易と商館の設置を許され、当時の平戸藩主 松浦鎮信も歓迎しました。本館のほか住宅や石造りの倉庫などの施設が建ち並び、平戸は貿易港として脚光を浴び賑わいます。東洋で最大規模を誇っていた商館でしたが、1640年、幕府から取り壊し命令が下され、翌年には長崎の「出島」へ移転を言い渡されます。  現在も、和蘭商館跡周辺にはオランダ塀や埠頭、石垣や井戸など、当時を物語るものが残っています。 現在、平戸市では和蘭商館開設400年にあたる2009年の完成をめざして、本格的な発掘調査をもとに倉庫の復元や周辺整備が進行中です。 当時の姿がよみがえるのも間近、完成が待ち遠しいですね。 (左上の写真は平戸オランダ商館の図-モンタヌス『東インド会社遣使録』より-平戸市教育委員会収蔵) 3平戸観光資料館 ザビエルの布教から始まった民衆の祈り 時代を映し出す貴重なものばかり  平戸和蘭商館跡のオランダ塀を見ながら坂をのぼると左手にありました。大きくて立派なソテツに招かれて門を入ってみましょう。隠れキリシタンの貴重な遺品や蘭学医 嵐山甫安にまつわる品などが展示されている資料館。キリシタン関係の展示で目を引くのがマリア観音。マリア様の後頭部に刻まれた金の十字架は、ひそかな祈りの象徴。それともうひとつは「じゃがたら文」。江戸幕府の命令でインドネシアのジャカルタに追放されたヨーロッパ人と日本人の混血児が、異国ジャカルタから平戸の親戚に宛てた便りです。「日本恋しやこいしや・・・」と望郷の思いが綴られた文から、とても切ない気持ちが伝わってきました。 旅人コメント  じゃがたら文「こしょろの文」は、どこかで見覚えがあると思った人も多いのでは。どこだっけ?どこだっけ?となかなか思いあたらないので、友達に聞いてみたらあっさり返事。「長崎のお土産『長崎物語』のパッケージじゃないね。」(万華鏡)  崎方町のまち並みは、とりわけ「和」を感じられる一画。珍しいこの木造三階建の町家はかつて昭和初期の建物で、昔は旅館でした。現在では旅人の足を休める休憩所として利用されています。(たびと) 4聖フランシスコ・ザビエル記念碑 庭園に囲まれた記念の碑 十字架の中に刻まれたザビエルの横顔  平戸観光資料館の上、市民の憩いの場でもある崎方公園内にザビエル記念碑があります。イエズス会創設のメンバーのひとりで、東洋のキリスト教布教に生涯を捧げたザビエルが平戸に来たその時から、長崎におけるキリシタンの歴史が始まったのです。日本にキリスト教を伝えたことで有名なザビエルですが、彼が平戸を3度訪れトータル2ヶ月ほど滞在したことは意外と知られていません。この碑は、ザビエル来航400周年を記念して建てられました。 旅人コメント  平戸で最初の教会跡を発見!ザビエル記念碑の裏手にありました。(たびと) 5松浦史料博物館 地球儀に天球儀など、西洋との貿易の品々と 領主松浦家のお宝をいざ拝見!  松浦家の居館がそのまま博物館になっている「松浦史料博物館」。700年以上にもわたる松浦家の歴史資料は圧巻です。 見てください、この天球儀! 西洋の天文学などにいち早く触れていたのでしょうね。 クルクルッと手で回しながら不思議の世界にはまったりして時間を過ごしたかもしれません。そして赤い十字架がはためく南蛮船の模型! これが平戸港に停泊していたんですよ!そういえば第2回、歴史発見コラム「中浦ジュリアン世界グルメ紀行」のとき、天正遣欧使節が世界を旅した南蛮船のイラストは、こんなイメージで書きました。 史料館の庭内にある茶房「閑雲亭」で楽しむ鎮信流の呈茶や、喫茶店「眺望亭」で味わえる南蛮伝来の菓子カーネルクウクもお忘れなく。味覚で歴史を辿る楽しみも、これまた旅の魅力のひとつです。 旅人コメント  平戸土産と言えばカスドース&牛蒡餅。素朴でオイシイ!散策の途中に何軒か和菓子屋さんを見つけました。(たびと) 6六角井戸 中国との貿易を物語る井戸 貿易商 王直も喉の渇きを潤したかも!?  日本式のものとは違って、独特の形をした六角形の井戸。中国の様式で作られたものだとか。この辺りは中国の商人たちが住んでいたそうです。長崎県各地の港町にはこのような六角井戸が残っています。密貿易で東シナ海を舞台に勢力をふるった貿易商人 王直さんも、この井戸で喉の渇きを潤したのかもしれませんね。ちなみに、ポルトガル船を平戸港に誘導し、南蛮貿易の橋渡し役をしたのはこの王直さんという話です。 7聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂 ステンドグラスから祈る人のもとへ 心をみたしてくれる優し光が降り注ぐ教会  淡い緑色の教会は、1913年に建てられた「平戸カトリック教会」。 1971年にザビエル記念像が建立されたのをきっかけに、通称「平戸ザビエル記念教会」とよばれるようになりました。高くそびえる教会の姿はまちのどこからでも目にすることができ、まさに平戸のシンボル。中に入ると一転して静寂が空気を支配し、神聖な気持ちにさせられるから不思議です。闇夜に浮かび上がるライトアップされた教会もステキですよ。  すぐ近くには、徳川幕府の禁教下、キリスト教弾圧で殉教した人たちのための「平戸殉教者顕彰慰霊の碑」があります。キリスト像が両手を広げて、平戸の空に十字をきっています。 旅人コメント  この教会、よーく見ると左右対称ではありません。向かって左側だけに、八角塔があるんですよ。(万華鏡) 8寺院と教会が混在する風景 平戸の歴史を象徴する風景 今だからこそ、この風景がある。  平戸観光の様々なパンフレットに使用されてきたエキゾチックな景色の代表。平戸におけるキリスト教の伝来、禁教、弾圧、潜伏…という歴史を考えると、単に「寺院と教会が一緒に見える場所」というだけでなく、平戸の歴史を象徴する風景。平戸における東西文化の交差が、もっともリアルに感じられるスポットです。反乱、弾圧など激動の道を歩んできた歴史のうえにある平和なこの時代だから、穏やかに景色を楽しめるのだと感じずにはいられませんでした。 9英国商館記念碑 イギリスの東インド会社もやってきた! 同時に、ビールもやってきた!  1613〜1623年のあいだ、記念碑の対岸(現在の親和銀行付近)にイギリス商館がありました。海岸地帯に商館・倉庫・住宅が建ち並んだそうです。徳川家康は商館を浦賀に置くようにすすめましたが、朱印状を貰って、平戸を拠点に貿易を始めました。初代の商館長はリチャード・コックス。イギリスといえば、英国船「グローブ号」が積んでいたビールが平戸に上陸したという記述が『セーリス日本渡航記』にあります。後に、幕府が海外貿易の制限を強めてくると、オランダとイギリスの貿易を巡る抗争が激しくなって、松浦隆信が仲裁に入るほどだったらしい。平戸で貿易を始めて10年後、インド経営に力を入れるために日本貿易を断念したそうです。この碑は1927年に建てられたもの。 旅人コメント  近くに格安ランチで平戸牛が楽しめるお店があるよ! 探してみて。(たびと) 10冨春園・冨春庵跡 禅と茶を広めた栄西  1191年、中国の宋から帰国した栄西禅師が初めて禅規を行ったことから、日本禅宗発祥の地とされる小院の跡があります。これが後の千光寺となりますが、敷地内には栄西禅師が座禅を組んだという石や、宗から茶の実を持ち帰って栽培したという茶畑「冨春園」の跡もあります。 この良質お茶の実が京都の宇治へ、さらに全国へと広まりました。非常にのどかな場所で心が安らぎます。お茶のテキスト『喫茶養生記』を書いた栄西。平安の時代からお茶は愛飲されていましたが、貴族階級が楽しんだ高級品。栄西のお陰で庶民へと広まったのです。 旅人コメント  栄西禅師が座禅を組んだと言われる岩。思わず座ってみたくなるね!(たびと) 11宝亀教会 弾圧の苦しみのなかで守った神への祈り 世界遺産候補の教会のひとつ  国道383号線を南下し、宝亀小学校を過ぎて右折。山道通り、平戸瀬戸を見下ろす丘の上にありました。ちょっとわかりづらい場所です。1898年にマタラ神父の指導のもと、木材や瓦・白い漆喰の壁は貝殻を拾い集めて焼くなど、皆で協力して完成させた教会です。平戸市内でもっとも古い教会。正面の壁のみがレンガ造りで、建物全体は木造。建設当初から変わらない輝きを放っているステンドグラスの美しさは格別です。正面の少し赤みがかった構えが印象的なのですが、ぜひ横から見てみてください。洋館のようなテラスがついて、とってもかわいらしいです。 12平戸市切支丹資料館 “納戸神(なんどがみ)”の信仰を続けたかくれ切支丹の里  平戸における「隠れキリシタン」の歴史を知るにはこの資料館へ。弾圧の時代の信仰の品が大切に保存されています。隠れキリシタンたちは、 キリスト教の信者と悟られないように、納戸の中に「御前様」と呼ばれる神様を描いた掛け軸をご神体として信仰の対象としました。これは「納戸神」といいます。 この資料館に展示さてあるロザリオやメダイ、十字架などは、各家々で信仰の対象となっていたもので、先祖代々大切に受け継がれた貴重な資料です。 この資料館の脇には、うしわきさま(おろくにんさま)と呼ばれる小さな森があります。 この森は、徳川幕府の禁教令によって、生月と根獅子にもキリスト教徒を仏教へと改宗させる奉行の押役が置かれ、弾圧は厳しさを増し、 根獅子の浜では多くのキリシタンが処刑され、その殉教者の亡骸をこの森に手厚く葬ったと言われています。この森全体をうしわきさま(聖地)として祈っていたのでしょう。 では、弾圧のあった根獅子の浜へ行ってみましょう。 13根獅子の浜  徳川幕府の禁教令によって、キリシタンたちがこの浜で処刑されました。厳しい禁教令の中で、信者たちは信仰を守り通したのです。 ここを聖地として素足でお参りする信者がこの浜を訪れます。岸壁のアリア様があたたかく見守っているようです。  平戸の海は本当にキレイ。透明度の高い爽やかなマリンブルーを目の前に、この旅を振り返りながら波の音を聞くと心が癒されます。 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 巻頭特集 ザビエルが平戸にまいたキリストの種子 特集2 宣教師たち長崎で動く! ザビエルの遺志を継いだ人々 特集3 キリシタン大名 大村純忠のナゾ 『旅する長崎学3 キリシタン文化3』 特集2 徳川幕府と天領長崎の貿易と宗教 特集4 外交都市長崎-「キリシタンの町」から「町人主役の町」へ 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 特集5 平戸・生月のかくれキリシタン 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 特集4 教会がある風景は長崎の歴史を語る文化遺産 スタート地点までのアクセス 平戸城 所在 長崎県平戸市岩の上町1458 お問い合わせ 平戸城 TEL/0950-22-2201 アクセス 車の場合は、佐世保方面から国道204号線を北上し平戸大橋(有料)を渡り、国道383号線に出たら直進して約2分。西肥バス<<猶興館高校>>を過ぎて歩道橋をくぐったら右折。 バスの場合は、佐世保駅より西肥バス〔平戸〕行きに乗車、<<平戸市役所前>>で下車し徒歩約5分。 松浦西九州鉄道の場合は、「たびら平戸口」下車、<<平戸口駅前>>より西肥バス〔平戸桟橋〕行きに乗車、<<平戸市役所前>>で下車し徒歩約5分。 ● JR佐世保駅・松浦西九州鉄道「たびら平戸口」までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第1回 白い十字架が目印の港町「横瀬浦」の旅 2007年04月01日
    第1回 白い十字架が目印の港町「横瀬浦」の旅
    小さな漁港が長崎のルーツ!?  太陽の恵みをいっぱいに受けて実ったミカン畑の間を車で走りながら横瀬浦の港へ到着。 ブルーの水面が眩しく波穏やかな港町は、その昔、平戸の次に南蛮貿易港として賑わった歴史のある場所。もし、焼き討ちにあわなければ、 ここ横瀬浦が“長崎”だったかもしれない港町。長崎の元祖・横瀬浦へと出発!地名にご注目。 歴史のとびら  今から約420年前、平戸の次に南蛮貿易港となった横瀬浦。ここは、日本の歴史のなかで”はじめて”の出来事が起こった重要な場所だったのだ。日本初のキリシタン大名として有名な大村純忠がキリスト教の洗礼を受け、宣教師ルイス・フロイスが日本に降り立った最初の地。瞬く間にキリシタンの町となり、港は南蛮船や商人たちの船が往来し活気に沸いた。しかし、焼き討ちにあい、わずか1年で消滅した横瀬浦。いま、この町にキリシタンは1人もいないそうです。 当時の繁栄の面影をたどりながら、散策してみよう! すがすがしい青空に波穏やかな横瀬浦の港に到着。目の前に見えてきたのは、時間を越えて、静かな港にポッカリと浮かぶ八ノ子島。その頂にある白い十字架は、太陽に直射され島の縁と一体となって、陰影のコントラストをつくりあげていた。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 1八ノ子島(海の駅 船番所) ↓船では渡れませんのでご注意を! 2八ノ子島を観る(海の駅 船番所) ↓徒歩10分 3史跡 南蛮船来航の地 ↓徒歩3分 4フロイス像(横瀬浦公園) ↓徒歩2分 5天主堂跡の碑(横瀬浦公園) ↓徒歩3分 6大村純忠の館跡 ↓徒歩7分 7上町・下町跡の碑 ↓徒歩7分 or 車で3分 8長崎甚左衛門純景の居宅跡 ↓徒歩20秒 9思案橋跡 ↓徒歩7分 10丸山長袖さまの墓 ↓車で7分 11西海市西海歴史民俗資料館 ↓車で15分 12中浦ジュリアン顕彰の碑 ↓徒歩1分 13中浦ジュリアン記念公園 1八ノ子島 小さい島の頂上に輝く十字架 司馬遼太郎も饅頭のようにかわいいと称した「八ノ子島」  横瀬浦港から約300m沖合に浮かぶ八ノ子島。1562年に南蛮貿易港として開港し、繁栄した町。当時、この十字架を目印に、ポルトガルからやってきた南蛮船や日本の商人たちの船が往来していたのでしょう。当時の宣教師ルイス・デ・アルメイダが「港の入口に高くて円い島がひとつあり、その上に美しい十字架が建っていて、非常に遠くから見えます。」と伝えている。この風景は横瀬浦ならでは。「わぁー、こんな風景があったんだ!」と、ちょっと見とれてしまうくらいインパクト大です。白い十字架は1962年に復元されたもの。この島を見るには「海の駅・船番所」が絶好のポイント。八ノ子島の奥にうっすらと見えるのは佐世保市街です。 2八ノ子島を眺める(海の駅 船番所) 八ノ子島を見るならココ! 海の幸のバイキングも楽しめるスポット 高速船乗り場の先にある和風の建物が「船番所」。ここは、地元でとれた新鮮な食材を使用したバイキングレストランです。窓越しに八ノ子島を眺めながら、新鮮な魚介や山菜など横瀬浦の郷土料理に舌鼓。 旅人コメント 「海の駅 船番所」は、美味しい刺身や山の幸が食べられる食事処。出かけた日は、残念ながらお休みでした。うぅっっ、残念。定休日は火曜日なので、ご注意を!!」(たびと) 3史跡 南蛮船来航の地 碇を下ろした南蛮船碇を下ろした南蛮船 Nossa Senhora de Ajuda(御助けの聖母の港)  ここ横瀬浦は大村純忠が統括する大村領だった場所。外敵が進入しにくい静かな内海だから、この港が貿易港として選ばれたのだとか。純忠の招きに応じて、ポルトガル船が入港し、宣教師ルイス・デ・アルメイダが教会を建て、この港は「御助けの聖母の港」と呼ばれることになりました。アルメイダは、「この港を形成している入り江の右にキリシタンの村があり、その前面の高い所に私たちの修院があります。」と伝えています。南蛮船に乗ってやってきた異国の人々たちが降り立ったこの地には、歴史的な“はじめて”がいっぱいあるはず。なんだかワクワク感も高まってきたゾ。 4フロイス像(横瀬浦公園) 宣教師ルイス・フロイスが上陸した地 『日本史』の著者「ルイス・フロイス像」  横瀬浦公園の入口で、右手を差し伸べるフロイス像に出会いました。31歳で日本にやってきたフロイス。彼が最初に上陸した地が、なんとこの横瀬浦だった! このフロイス像の顔をちょっと覗いてみると、大きく見開いた眼がとっても印象的。その眼で日本を直視し、波乱に満ちた時代の中で、日本でのキリスト教布教の様子や巻き起こった事件を観察して、記録に綴ったのでしょう。フロイスが残した書で、特に有名な『日本史』には、長崎でのできごとも詳細に書かれている。日本語の翻訳版が出版されていますよ。 5天主堂跡の碑(横瀬浦公園) 祈りの天主堂があった場所 大村純忠もフロイスも皆がミサに集まった「天主堂」跡の碑  フロイス像と思わず握手をして別れを告げ、横瀬浦公園の階段を上ると、丘の上に「天主堂跡の碑」がありました。しかし、実際に建っていた場所はというと公園脇の舗装された道路沿い付近らしいとのこと。展望台からは、横瀬浦の港と町が一望できます。横瀬浦港の真向かいが佐世保港。春の小鳥のさえずりが心地よく聞こえてきます。ビデオをクリックしてみてください。夕方になると、ポツリポツリと民家の明かりが灯ってゆく。 6大村純忠の館跡 今は影も形もないけれど…。 教会に通うためにつくった別荘  横瀬浦公園の展望台からゆるやかな坂を下っていくと、「大村純忠の館跡」が、子どもたちが元気に走りまわる幼稚園の庭の隅にありました。純忠とその家臣たちは、ここ横瀬浦で神父トーレスから洗礼を受けたんです。日本人初のキリシタン大名の誕生だ!! この館は、純忠が天主堂へと通うために建てた別荘だという。館の目の前は海で船着場があり、ミサの日には大村の城から家臣を連れて船で別荘へ、小船に乗り換えて教会へと通っていたそうです。自分の悲運な生い立ちなどを神に祈っていたのかもしれませんね。 7町・下町跡の碑上 ポルトガル人と日本人が商談しながら上ったのかな…。  史跡「南蛮船来航の地」のすぐ横に「上町・下町跡の碑」を発見! 階段を境に左が下町で、右から丘に登ったエリアが上町。貿易で繁栄した商人やキリシタンたちが暮らしていた集落だった場所です。 8「長崎甚左衛門純景の居宅跡」 「長崎甚左衛門純景の居宅跡」の碑 洗礼名はベルナルドさん  上町・下町跡の碑を見ながら、ついこの階段を上りたくなるけどちょっとまった! 思案橋跡や丸山長袖さまの墓を見るなら階段と桟橋の間の脇道を行くのが近道、と教えてくれたのは港で休憩していたおじさんたち。横瀬地区のコミュニティーセンターの一角が、大村純忠の重臣だった長崎甚左衛門が住んでいた住居の跡。彼も純忠と一緒に洗礼を受けた家臣のひとりでした。純景の名は純忠からもらい、純忠の娘と結婚しています。 9思案橋跡 んっ!? どこかで聞いた名前。 ポルトガル人も日本人も「行こか、戻ろうか」思案橋。いざ、丸山へ!  「長崎甚左衛門純景居宅跡の碑」から坂道を10歩ほど上れば思案橋。遊郭丸山を目の前に「行こか、戻ろか」と思案したというのが橋の名前の由来。さぁ、ここまでで登場してきた上町、思案橋、丸山といった名称は、長崎市内にもある有名な地名だけれど、ここ横瀬浦がオリジナルといわれているのです。横瀬浦の町は、開港からわずか一年あまりの1563年に、純忠への反勢力による焼き討ちによって消えてしまいますが、1571年、長崎港にポルトガル船が初めて入港し、長い岬につくられた新しい6町のなかに「横瀬浦町」が存在しました。6つの町名は移住者の出身地により名付けられ、このほか、平戸町や大村町、島原町などがあったんですよ。現在は、万才町と江戸町の一部になっています。ほかにも名称の由来を知りたいと思ったら「歴史発見コラム第1回」を見てね。 10丸山長袖さまの墓 ワールドワイドなイベント会場・丸山の遊郭 西洋の文化を楽しんだ遊女・長袖さまが眠る墓。  「長袖さま」と呼ばれる遊女が眠る墓は、横瀬の畑が見渡せる丘の頂上、ミカン畑の中にあった。供えられた色鮮やかな花の色に、 当時の繁栄を見た気持ちになりました。華やかなこの町で、きっとポルトガル商人が持ってきたジンやワインを飲みながら、 日本の歌やポルトガルの音楽が夜毎奏でられていたのではと想像すると、すばらしく粋な町に思えてきます。ちなみに平戸にも丸山という名の遊郭があったと言われています。 11西海市西海歴史民俗資料館 ここでもフロイスとジュリアンに出会える  ここでフロイスと再会。今度は帽子をかぶったフロイス像が2体おりました。うーん、やはりなんだかちょっと無表情な感じかな。ここでは、中浦ジュリアンのコーナーや、開港した横瀬浦と南蛮貿易の歴史を学べるスクリーンがあるので、ちょっと寄ってみて。 12中浦ジュリアン顕彰の碑 海を渡る船の形をしたオブジェ  中浦ジュリアン記念公園の駐車場から坂を下ったところに、地球に帆を張った船のオブジェがある。天正遣欧使節として知られる4人の少年の名は、 伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。この地は、中浦ジュリアンの出生地とされています。 大航海時代、船の旅の生還率は50パーセント以下という危険な大海原に旅立った4人の少年たち。わずか12,3歳の子どもを送り出す家族の心配もはかりしれないものがあったろうと、ちょっとセンチメンタルになってしまいました。 13中浦ジュリアン記念公園 少年像の指差す先にはローマあり 中浦ジュリアン記念公園で少年の志に出会う…  天正遣欧少年使節のひとりとして巡察師ヴァリニャーノと共にヨーロッパへと渡った中浦ジュリアン。 13歳当時の姿をした中浦ジュリアン像が建つ記念公園がある。ジュリアン少年の像が指差す方角はイタリアのローマだ。近年の異常気象のせいか、 公園内には椿と梅と桜がいっぺんに咲いていました。公園の横で農作業をしているおじさんが「ジュリアンが育ったとされる山城の跡は、樹木が生い茂り足元が危ないし、 登っても眺めはようなかよ。」と教えてくれた。ここではみかんが特産品だそうです。  今採れる野菜は何かと訪ねると「キャベツかな。もっていかんね。」と言ってもぎたてで新鮮なキャベツを1個まるごとくれた。 甘くてみずみずしいキャベツの味は、中浦での良い思い出となりました。おじさん感謝です。 旅人コメント 「西海町の特産はみかん。近くの直売所で買ったポンカンとはるか(黄色い方)という品種は、とても甘くて美味! よい旅の土産になりましたよ。」(たびと) 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 特集3 キリシタン大名 大村純忠の謎 第1章 純忠、横瀬浦で受洗 日本初のキリシタン大名誕生 『旅する長崎学2 キリシタン文化2』 特集2 天正遣欧使節四人の激動と波乱の生涯第4章 殉教者 中浦ジュリアン スタート地点までのアクセス 所在 長崎県西海市西海町横瀬郷 お問い合わせ 西海市観光協会 TEL/0959-37-4933 アクセス(観察ポイント「海の駅 船番所」まで) 船の場合は、佐世保駅から新みなとターミナルへ徒歩5分。佐世保港より瀬川汽船の高速船「せがわ」で約15分、徒歩5分。 車の場合は、長崎駅より横瀬浦約1時間30分。国道206号線を北上し小迎交差点を左折、国道202号線を走り横瀬郷のAコープのある交差点を右折。 ● 佐世保駅・長崎駅までのアクセス情報は「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。