第35回 十万石の城下町の面影がのこるまち“厳原”

長崎県の北東に位置する対馬の空港(美津島町)に降り立つと、日本語とハングルの案内板が目に飛び込んできます。朝鮮半島に近い国境の島には、 異国から運ばれてくる特有の“空気と時間”が流れていました。対馬空港から車で15分ほどの、島南部にある対馬市厳原町(いづはらまち)は、 江戸時代に対馬藩主宗(そう)氏の城下町「府中(ふちゅう)」として栄えました。朝鮮から派遣された使節「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」が最初に上陸する日本の島が対馬でした。 当時、朝鮮との交易や交流の窓口となっていた対馬藩は、藩をあげて朝鮮通信使をもてなしました。今回は、城下町の風情が残る厳原町を散策しながら、 朝鮮通信使ゆかりの地や足跡を訪ねる旅です。
歴史のとびら
1719年(享保4)、江戸時代9回目の朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)が来日しました。その中に製述官(せいじゅつかん)として随行したのが申維翰(シンユハン)です。 彼はのちに『海游録(かいゆうろく)』という記録を残しています。『海游録』には対馬の佐須浦(佐須奈)などを経て、6月27日に府中(厳原)に到着した様子が描かれています。 到着後に藩主による歓迎式がおこなわれ、府中に3週間滞在したのち、藩主船の先導で壱岐に向かったことなどが記されています。 申維翰はこのとき藩の朝鮮外交を担当していた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)と出会いました。
散歩コース
1以酊庵跡(西山寺)
2長崎県立対馬歴史民俗資料館
3金石城(かねいしじょう)跡
4万松院(ばんしょういん)
5武家屋敷・城下町跡
6雨森芳洲の墓
長寿院(ちょうじゅいん)の裏山を少し登ると、対馬藩に仕え朝鮮外交に尽力した雨森芳洲の墓があります。彼は朝鮮語、中国語が堪能でした。『海游録』にもその名はたびたび登場し、使節に同行しながら、申維翰と丁々発止のやり取りを展開していきます。申維翰との関係については、“油断はできないが、互いを認め合う外交官同士の付き合い”といったところでしょうか。芳洲はそれぞれの国の事情や立場を尊重する国際人であり、朝鮮通信使の応接になくてはならない人材でした。平成2年(1990)、当時来日中の盧泰愚(ノテウ)韓国大統領が、宮中晩餐会の答礼の言葉の中で、朝鮮の玄徳潤(ヒョンドギュン)とともに雨森芳洲の「相互尊重」の外交姿勢を讃えています。芳洲は「互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わり」と方針を説き、朝鮮外交と友好親善に務めたのです。
7朝鮮通信使客館跡(国分寺)
〔文:小川内清孝〕
参考文献
- 『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』申維翰著(平凡社/東洋文庫252)
スタート地点までのアクセス
以酊庵跡(西山寺)
- 所在
- 長崎県対馬市厳原町国分1453
- お問い合わせ
- TEL
- 0920-52-0444
- FAX
- 0920-52-0655
- アクセス
- 飛行機・車…
- <ANA>福岡空港─(30分)→対馬空港→車で20分
- <ORC>長崎空港─(35分)→対馬空港→車で20分
- 船…
- <フェリー>博多港─(直行3時間45分・壱岐経由4時間30分)→厳原港→徒歩10分
- <ジェットフォイル>博多港─(壱岐経由2時間15分)→厳原港→徒歩10分