On the Special Exhibition Sun Yat-sen, Umeya Shokichi and Nagasaki

Another Aspect of the Modern History of Japan-China Relations [6]

このテーマの最終回です。海外雄飛の夢を実現させようとした青年梅屋庄吉について見てみます。

●青年実業家梅屋庄吉の海外雄飛~20代後半から30代半ばまで~
・20歳を過ぎる頃から、精米を朝鮮に運び莫大な利益を上げたり、鉱山開発に乗り出したり、長崎での家業にとどまらず、幅広く実業家として活動をはじめます。25歳の時、養父吉五郎が、米穀市場の仲次人になりますが、自らは米の思惑買いで大損を出してしまい、明治26(1893)年初めには中国の厦門に行くことになりました。

・以後、12年間ほど、シンガポールや香港で照相館(写真館)を経営し、最後は活動写真で莫大な利益をあげて、明治38(1905)年6月に帰国します。その間、明治28(1895)年、香港の照相館で孫文と運命の邂逅を果たすことになります。

●南洋開発と大井憲太郎
・海外に飛び出して約1年後、明治27(1894)年3月に、27歳の庄吉は、いったん日本に戻り、大井憲太郎という政治家に会いに行きます。南洋開発についての相談でした。シャム(タイ)でゴム園を開発する計画を持ち込んだのです。

・南洋開発の計画を持ち込んだのが、なぜ、大井憲太郎だったのでしょう。大井憲太郎は明治17(1884)年11月に起きた大阪事件の首謀者として、歴史の教科書等では出てくる人物です。大阪事件とは、自由民権運動が激化するなかで、その一派が朝鮮の政治的改革をめざして渡航を企てたものの、事前に発覚して捕らえられたという事件です。

・大井憲太郎は、庄吉が日本を飛び出す直前の明治25(1892)年に、立憲自由党から分割して東洋自由党を創立しています。その創立趣旨の1つに「我党の希望や大なり、東洋諸国をして自由国たらしめんとする・・・然れば日本自由党としては他日其名称の狭隘に失せんことを虞れ」(明治25年10月15日付け「鎮西日報」)ることをあげています。

・もちろん、まだ長崎にいた庄吉が、この鎮西日報の記事を読んだという確証はありませんが、活動の場が日本にとどまらない庄吉の政治的立場と合致していることは間違いありません。

●孫文との邂逅
・南洋開発の夢は、まもなく日清戦争が始まったこともあり、潰えてしまいますが、その日清戦争のさなか、明治28(1895)年に、孫文との出会いがありました。

・その時のことを、庄吉は孫文亡き後の追悼文でこう述べています。
「三十有五年前一日香港の敞屋ニ初メテ先生ヲ迎ヘ興酣ニシテ談天下ノ事ニ及フヤ中日ノ親善東洋ノ興隆将又人類ノ平等ニ就テ全ク所見ヲ同ウシ殊ニ之カ実現ノ道程トシテ先ツ大中華ノ革命ヲ遂行セントスル先生ノ雄図ト熱誠ハ甚シク我カ壮心ヲ感激セシメ」た。(昭和 4(1929)年「追悼の辞」)

・出会いから35年経ったあとも、しっかりと記憶している「中日の親善・東洋の興隆・人類の平等」の3点こそ、孫文を生涯にわたって支援する盟約を結ぶに至った動機でした。それはまた、孫文と出会う前に、すでに庄吉が獲得していた政治的立場を表しており、庄吉の「壮心」を揺り動かしたのです。孫文が亡くなった後の銅像制作や映画「大孫文」の計画などは、まさにその3点の実現に向けた活動だったと言ってもいいでしょう。

●最後に
・今まで、6回にわたって、少年期・青年期の梅屋庄吉がなぜ、ここまで孫文を支援するに至ったかを、長崎に残る資料も踏まえて見てきました。

・梅屋庄吉や宮崎滔天など、日本における孫文たちへの協力者の活動を見ると、明らかに軍部が描いた満州事変以後の日中関係とは、違った方向性を持った選択肢も可能だったのではないかと思わせます。少なくとも、その可能性を模索した人たちがいたことを、心にとどめる必要があると思います。

【長崎県文化振興課 山口保彦】