長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
長崎と坂本龍馬と船
Nagasaki, Sakamoto Ryoma, and Ships
その3 いろは丸の購入・売却記録
このいろは丸ですが、勝海舟の『海軍歴史』に収録されている「船譜」をもとに、
➀ 文久2年(1862) 英国ギリーノック製造 原名:サーラ
➁ 文久3年(1863) 薩摩藩購入 船名:安行丸
➂ 慶応元年(1865) 薩摩藩、オランダ商人ボードインへ売却
➃ 慶応2年(1866) 大洲藩、ボードインより購入 船名:いろは丸
とされています。今回も、前回のワイルウェフ号と同様、長崎奉行所の記録(「安政6年~慶応元年 諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達留」、「慶応2年 諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達留」長崎歴史文化博物館蔵)から購入の経緯を確認してみましょう。
B 文久3年(1863) 薩摩藩よりサーラ号の購入届け(画像1)
C 慶応2年(1866) 薩摩藩より安行丸を外国人へ売却したい旨の届け
D 慶応2年(1866) 薩摩藩、安行丸をポルトガル領事ローレイロへ売却(画像2)
長崎奉行所の記録によると、薩摩藩はサーラ号の試運転をおこない(A)、その上で購入しており(B)、上記②は確認できます。しかし、③のオランダ商人ボードインへ売却したことは確認できず、これとは違って、慶応2年にポルトガル領事ローレイロへ売却したことが確認できます(D)。ちなみに薩摩藩が売却した理由は、「器械向相損」じ、「用立候丈ニ無御座」というものでした(C)。残念ながら、大洲藩の購入記録が長崎奉行所の記録には残っていないので、④について確認できませんが、薩摩藩がポルトガル領事ローレイロへ売却したことからすると、大洲藩が購入した相手はオランダ商人ボードインではなく、ポルトガル領事ローレイロの可能性があるのではないかと推測できます。
これについては、平成22年(2010)4月、愛媛県大洲市から新しい発表がありました。いろは丸を大洲藩が購入した際のポルトガル語の契約書が見つかり、これまでオランダ人から購入したと言われていましたが、ポルトガル領事ロウレイロからの購入だったと判明したというものです。先ほどの推測は正しかったようです。
このように、『海軍歴史』に記されているいろは丸購入の経緯は、長崎奉行所の記録、および新たに発見されたポルトガル語の契約書により改められることになりました。このいろは丸を龍馬率いる海援隊が借り受け、慶応3年4月、長崎を出港したのです。(つづく)
(3) Records of the Purchase and Sale of Steamboat Iroha-maru
このいろは丸ですが、勝海舟の『海軍歴史』に収録されている「船譜」をもとに、
➀ 文久2年(1862) 英国ギリーノック製造 原名:サーラ
➁ 文久3年(1863) 薩摩藩購入 船名:安行丸
➂ 慶応元年(1865) 薩摩藩、オランダ商人ボードインへ売却
➃ 慶応2年(1866) 大洲藩、ボードインより購入 船名:いろは丸
とされています。今回も、前回のワイルウェフ号と同様、長崎奉行所の記録(「安政6年~慶応元年 諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達留」、「慶応2年 諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達留」長崎歴史文化博物館蔵)から購入の経緯を確認してみましょう。
B 文久3年(1863) 薩摩藩よりサーラ号の購入届け(画像1)
C 慶応2年(1866) 薩摩藩より安行丸を外国人へ売却したい旨の届け
D 慶応2年(1866) 薩摩藩、安行丸をポルトガル領事ローレイロへ売却(画像2)
長崎奉行所の記録によると、薩摩藩はサーラ号の試運転をおこない(A)、その上で購入しており(B)、上記②は確認できます。しかし、③のオランダ商人ボードインへ売却したことは確認できず、これとは違って、慶応2年にポルトガル領事ローレイロへ売却したことが確認できます(D)。ちなみに薩摩藩が売却した理由は、「器械向相損」じ、「用立候丈ニ無御座」というものでした(C)。残念ながら、大洲藩の購入記録が長崎奉行所の記録には残っていないので、④について確認できませんが、薩摩藩がポルトガル領事ローレイロへ売却したことからすると、大洲藩が購入した相手はオランダ商人ボードインではなく、ポルトガル領事ローレイロの可能性があるのではないかと推測できます。
これについては、平成22年(2010)4月、愛媛県大洲市から新しい発表がありました。いろは丸を大洲藩が購入した際のポルトガル語の契約書が見つかり、これまでオランダ人から購入したと言われていましたが、ポルトガル領事ロウレイロからの購入だったと判明したというものです。先ほどの推測は正しかったようです。
このように、『海軍歴史』に記されているいろは丸購入の経緯は、長崎奉行所の記録、および新たに発見されたポルトガル語の契約書により改められることになりました。このいろは丸を龍馬率いる海援隊が借り受け、慶応3年4月、長崎を出港したのです。(つづく)