長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
晩年の梅屋庄吉と長崎
Umeya Shokichi in His Later Years and Nagasaki
長崎に中国人向け別荘地計画
大正14(1925)年3月、孫文の訃報を聞いてから、梅屋庄吉は孫文像の制作に取りかかり、完成した銅像とともに昭和4(1929)年3月上海へと向かいました。以後、上海に滞在し、中国要人たちとの交流を深めています。
昭和5(1930)年5月新たに制作した2体目の孫文像とともに広東を訪れました。その1ヶ月あと、6月22日付けの長崎新聞にこんな記事が掲載されています。
右端は新聞の綴じ部分にあたり、暗くなっていますが、「支那人向きの別荘地建設」という見出しが付いています。
長崎市会議員の西田金治氏が上海で梅屋庄吉と面会し、伺った話として「翁は故郷長崎発展のために尠からず心を砕いてゐるものゝ如く、最近は長崎と上海間の連絡が非常に良くなったので夏季若くば冬季の避暑避寒地として、支那南部の要人富豪の間に宣伝を努めてゐる、翁の計画によれば長崎市に支那人向きの別荘地を建設して低廉な貸料でこれを提供するならば、たゞに夏冬の季節に臨時的に滞在するものばかりでなく、支那は治乱興亡常なきを以て、日本に亡命せんとする支那人を誘致し得るので是非これが実現を期したい」という。これを聞いた長崎市の小林儀三郎助役が実行すべく候補地を物色しているということを伝えています。
この頃、梅屋は日本と中国を行き来しながら、孫文像の設置や映画「大孫文」制作準備に奔走している時期であり、日本の企業と中国要人との橋渡しの役割も担っていました。
小林助役は、遊覧地開発(観光地開発)を実現しようとしていたようで、外国客誘致のために、市の周辺に自然公園開発(近くまで行く自動車道路と散策する逍遥道路のインフラ整備)計画を進めていました。ただ、時代は世界恐慌のなか、市の財政的には甚だ困難で、寄付金を募ったりしています。最終的に、自然公園としては、昭和6(1931)年度に具体化し、茂木町より土地と労力の提供を受け、唐八景までの自動車道開鑿が行われました。
しかし、支那人向けの別荘地開発についてはその後の進展を確認できません。おそらく、財政的に別荘地としての用地買収というような具体的施策段階まで進められなかったのではないでしょうか。
●遊覧都市としての長崎の開発
大正時代の長崎市にとって大きな課題としてあったのは、貿易の衰退からどのようにして脱却し、復興させるかということでした。その解答の1つとして、遊覧都市として生き残っていくことが、盛んに論じられていました。
長崎市の小林助役は、せっかく観光船誘致に成功したのに「外国観光客を案内して喜ばるると自信のある箇所の少いのは甚だ遺憾である」(昭和5年7月6日付け長崎新聞)と嘆いています。国内および外国船等の観光客の誘致をするためにも、周辺の稲佐山・鍋冠山・唐八景・金比羅山などへの交通アクセスを整備することが急務でした。
ちょうど、雲仙国立公園化の動きもあり、阿蘇に対抗するために、長崎市もまた率先して、その運動をリードしています。避暑地として雲仙は国内外によく知られており、外国客も多かったことは周知のことです。
長崎を離れて活動している梅屋にとっても、故郷の復興は関心事であり、中国事情に精通する梅屋ならではの策として、中国人を長崎市周辺に誘致する計画を考えたものでした。その計画は長崎市の遊覧都市として発展して行こうとする政策と合致していましたが、実際は実現できないまま昭和 6(1931)年9月の満州事変を迎えることになったものと思われます。
His Plan to Develop a Villa Area for Chinese People in Nagasaki
大正14(1925)年3月、孫文の訃報を聞いてから、梅屋庄吉は孫文像の制作に取りかかり、完成した銅像とともに昭和4(1929)年3月上海へと向かいました。以後、上海に滞在し、中国要人たちとの交流を深めています。
昭和5(1930)年5月新たに制作した2体目の孫文像とともに広東を訪れました。その1ヶ月あと、6月22日付けの長崎新聞にこんな記事が掲載されています。
右端は新聞の綴じ部分にあたり、暗くなっていますが、「支那人向きの別荘地建設」という見出しが付いています。
長崎市会議員の西田金治氏が上海で梅屋庄吉と面会し、伺った話として「翁は故郷長崎発展のために尠からず心を砕いてゐるものゝ如く、最近は長崎と上海間の連絡が非常に良くなったので夏季若くば冬季の避暑避寒地として、支那南部の要人富豪の間に宣伝を努めてゐる、翁の計画によれば長崎市に支那人向きの別荘地を建設して低廉な貸料でこれを提供するならば、たゞに夏冬の季節に臨時的に滞在するものばかりでなく、支那は治乱興亡常なきを以て、日本に亡命せんとする支那人を誘致し得るので是非これが実現を期したい」という。これを聞いた長崎市の小林儀三郎助役が実行すべく候補地を物色しているということを伝えています。
この頃、梅屋は日本と中国を行き来しながら、孫文像の設置や映画「大孫文」制作準備に奔走している時期であり、日本の企業と中国要人との橋渡しの役割も担っていました。
小林助役は、遊覧地開発(観光地開発)を実現しようとしていたようで、外国客誘致のために、市の周辺に自然公園開発(近くまで行く自動車道路と散策する逍遥道路のインフラ整備)計画を進めていました。ただ、時代は世界恐慌のなか、市の財政的には甚だ困難で、寄付金を募ったりしています。最終的に、自然公園としては、昭和6(1931)年度に具体化し、茂木町より土地と労力の提供を受け、唐八景までの自動車道開鑿が行われました。
しかし、支那人向けの別荘地開発についてはその後の進展を確認できません。おそらく、財政的に別荘地としての用地買収というような具体的施策段階まで進められなかったのではないでしょうか。
●遊覧都市としての長崎の開発
大正時代の長崎市にとって大きな課題としてあったのは、貿易の衰退からどのようにして脱却し、復興させるかということでした。その解答の1つとして、遊覧都市として生き残っていくことが、盛んに論じられていました。
長崎市の小林助役は、せっかく観光船誘致に成功したのに「外国観光客を案内して喜ばるると自信のある箇所の少いのは甚だ遺憾である」(昭和5年7月6日付け長崎新聞)と嘆いています。国内および外国船等の観光客の誘致をするためにも、周辺の稲佐山・鍋冠山・唐八景・金比羅山などへの交通アクセスを整備することが急務でした。
ちょうど、雲仙国立公園化の動きもあり、阿蘇に対抗するために、長崎市もまた率先して、その運動をリードしています。避暑地として雲仙は国内外によく知られており、外国客も多かったことは周知のことです。
長崎を離れて活動している梅屋にとっても、故郷の復興は関心事であり、中国事情に精通する梅屋ならではの策として、中国人を長崎市周辺に誘致する計画を考えたものでした。その計画は長崎市の遊覧都市として発展して行こうとする政策と合致していましたが、実際は実現できないまま昭和 6(1931)年9月の満州事変を迎えることになったものと思われます。