Miyamoto Tsuneichi and Nagasaki

(2) Miyamoto’s Relationship with Yamaguchi Asataro

今回は宮本常一と壱岐の郷土研究者・山口麻太郎との交流を取り上げます。

山口麻太郎は1891年に壱岐で生まれ、長崎通信伝習養成所を卒業し、長崎郵便局、台湾総督府民政部通信局に勤務し、1913年に東京の市町村雑誌社に入社しました。1916年に帰郷し、対馬商船郷ノ浦代理店に勤務するかたわら、柳田国男の民俗学に傾倒し、1933年には壱岐郷土研究所を開設して歴史・民俗・考古の研究に専念しました。その後、長崎県文化財専門委員等を歴任し、1967年に収集した資料約3000点を県立長崎図書館に寄贈し、1987年に没しました。

長崎歴史文化博物館の山口文庫には、宮本が山口に宛てた1950年から1957年までの手紙が23通残っています。

ここでは、1950年の壱岐調査直後の8月30日に宮本が山口に宛てた手紙の一部を紹介します。

尊台(山口)にお逢出来、且その厖大な研究成果をたとえ一部でもこまかに拝見できましたのは今度の旅の大きな収穫の一つでございました。今まで各地をあるいて居て感ずることは、何程も調査のすすんで居ないうちに世がかわりつつあるという事でした。どこを歩いて見ても空白なのです。併し壱岐はすべての事が一通明かにせられてしまつているという感じがいたします。

このように、宮本は山口の仕事に敬意を表しています。それは、近代化が進み、伝統的なものが失われていくなかで、危機感を持って懸命にそれらを調査し記録に残した、同志に対する深い共感のためだと思います。なお、山口と対面した8月19日から25日までのことは、『私の日本地図15』に詳しく記されており、昼は島内各地に調査に出かけ、夜は郷ノ浦の山口氏宅で酒を酌み交わしながら民俗や歴史について語り合うなどしたようです。

この手紙の他にも印象的なものを紹介すると、宮本が属していた日本常民文化研究所が水産庁から委託を受けた「漁業制度資料調査保存事業」(1949-55)の長崎・佐賀調査を行うにあたって山口に参加を求める内容の手紙(1951年5月30日)や、離島振興法成立を受け壱岐を離島振興のモデルケースにしたいという内容の手紙(1953年10月29日)などがあります。これらの手紙からは、学問と離島振興に情熱を注いだ二人の親密な交流のさまがひしひしと伝わってきます。そんな彼らの思いを風化させてはならないと思い、今回取り上げました。

 

(1950年8月30日の手紙の冒頭(長崎歴史文化博物館蔵))

 

参考:長崎歴史文化博物館蔵山口文庫の宮本関係資料

 

・葉書(1950年7月9日、山口宛)  ・書状(1950年8月30日、〃)
・葉書(1950年9月14日、〃)    ・葉書(1950年10月9日、〃)
・書状(1950年11月6日、〃)    ・葉書(1951年1月3日、〃)
・葉書(1951年5月8日、〃)     ・書状(1951年5月30日、〃)
・書状(1951年8月17日、〃)    ・書状(1951年9月13日、〃)
・葉書(1951年9月29日、〃)    ・葉書(1952年1月1日、〃)
・葉書(1952年2月12日、〃)   ・葉書(1952年5月17日、〃)
・葉書(1952年6月19日、〃)    ・葉書(1952年7月22日、〃)
・葉書(1953年10月1日、〃)     ・葉書(1953年10月29日、〃)
・葉書(1954年7月31日、〃)    ・葉書(1954年9月4日、〃)
・葉書(1954年10月3日、〃)    ・葉書(1957年2月15日、〃)
・葉書(1957年3月3日、〃)
・「宮本常一先生の思い出」(1981年、『宮本常一先生追悼文集原稿』)

 

参考文献

 

・郷ノ浦町史編纂委員会編 『郷ノ浦町史』
・周防大島文化交流センター 「宮本常一データベース」

 

【長崎県文化振興課 松本勇介】