長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
宮本常一と長崎
Miyamoto Tsuneichi and Nagasaki
(3)離島振興法を生むきっかけ -公布60周年を前に-
まず、長崎県の視点から論じます。多くの先行研究で言われているとおり、国土開発法が1950年に制定され、1951年に対馬が同法の特定地域に指定されました。しかし、1952年に長崎県は経済審議庁に対して、国土開発法では経済効果の低い小さな事業を行えないので、別の法律が必要だと上申しました。そして同年12月、長崎県は東京、新潟、島根、鹿児島の各都県に離島振興法の制定のための連携を呼びかけ、1953年1月に離島振興対策協議会を結成し、長崎県が幹事県となりました。同年7月、衆参とも全会一致で可決し離島振興法が成立しました。このように対馬の振興に心を砕いていた長崎県が離島振興を模索していた各都県を束ね、国に働きかけ、離島振興法を誕生させたともいえます。
ちなみに、離島振興法が制定された1953年に指定を受けた長崎県の離島は、対馬島、壱岐島、五島列島が第1次指定離島、鷹島、大島(北松浦郡)、生月島、平戸島、黒島、大島(西彼杵郡)、松島、香焼島、伊王島、高島、樺島が第2次指定離島となっています。
次に、宮本常一の視点から論じます。宮本は離島振興法の誕生の経緯について、次のように述べています。
昭和二五、六年[1950・51]には九学会連合が対馬の総合調査をする。考古、人類、社会、地理、民族、民俗、言語、宗教、心理など九つの学会に属する一四〇人ほどの者が、対馬をそれぞれの立場から総合調査したことは画期的な試みであったが、この調査にも若い学生がずいぶん参加していた。浅野[山階]さんもこの仲間に加わっていた。そして違った学会の人たちと多くの知りあいをもち、離島をいろいろの角度から検討することになる。それが島嶼社会研究会をつくりさらに離島振興法を生むきっかけになった。 (「学生と島の旅」(『宮本常一著作集35 離島の旅』))
このように、宮本は自身も参加した九学会(当初は八学会)連合の対馬調査が離島振興法の誕生の契機だと考えています。周防大島出身の宮本は島嶼社会研究会(幹事:山階芳生ほか)のメンバーの一人として長崎県等と連携して離島振興法の成立に奔走していたものの、成立時には肺結核で入院していました。成立2ヶ月後の1953年10月に、山口麻太郎に宛てた手紙には、「今度離島振興法が出来て、島嶼社会研究会も調査やら何やらいそがしくなつて来るようですが、自重していたいと思います。もう少し元気になつたら郷里の方へかえりたいと思つています。」と綴っています。しかし、島嶼社会研究会が全国離島振興協議会の事務局を引き受け、同会で年長者だったこともあり、宮本は1954年に全国離島振興協議会初代事務局長に就任し、離島振興を牽引することになりました。
以上のように、離島振興法は対馬を原点に、長崎県をはじめとする「官」と、宮本をはじめとする「学」の連携で生まれた法律ともいえ、公布60周年を前にその経緯に光を当てたいと思い、今回取り上げました。
1953年10月1日の山口宛手紙(長崎歴史文化博物館蔵))
参考文献
・西岡竹次郎伝記編纂会編 『伝記西岡竹次郎』下
・小島孝夫 「離島振興の五〇年」(『しま』192号)
・鈴木勇次 「離島振興法に関わる個人力」(『長崎ウエスレヤン大学紀要』10巻1号)
(3) Origin of the Remote Islands Development Act ~A Review Prior to the 60th Anniversary of Its Promulgation~
まず、長崎県の視点から論じます。多くの先行研究で言われているとおり、国土開発法が1950年に制定され、1951年に対馬が同法の特定地域に指定されました。しかし、1952年に長崎県は経済審議庁に対して、国土開発法では経済効果の低い小さな事業を行えないので、別の法律が必要だと上申しました。そして同年12月、長崎県は東京、新潟、島根、鹿児島の各都県に離島振興法の制定のための連携を呼びかけ、1953年1月に離島振興対策協議会を結成し、長崎県が幹事県となりました。同年7月、衆参とも全会一致で可決し離島振興法が成立しました。このように対馬の振興に心を砕いていた長崎県が離島振興を模索していた各都県を束ね、国に働きかけ、離島振興法を誕生させたともいえます。
ちなみに、離島振興法が制定された1953年に指定を受けた長崎県の離島は、対馬島、壱岐島、五島列島が第1次指定離島、鷹島、大島(北松浦郡)、生月島、平戸島、黒島、大島(西彼杵郡)、松島、香焼島、伊王島、高島、樺島が第2次指定離島となっています。
次に、宮本常一の視点から論じます。宮本は離島振興法の誕生の経緯について、次のように述べています。
昭和二五、六年[1950・51]には九学会連合が対馬の総合調査をする。考古、人類、社会、地理、民族、民俗、言語、宗教、心理など九つの学会に属する一四〇人ほどの者が、対馬をそれぞれの立場から総合調査したことは画期的な試みであったが、この調査にも若い学生がずいぶん参加していた。浅野[山階]さんもこの仲間に加わっていた。そして違った学会の人たちと多くの知りあいをもち、離島をいろいろの角度から検討することになる。それが島嶼社会研究会をつくりさらに離島振興法を生むきっかけになった。 (「学生と島の旅」(『宮本常一著作集35 離島の旅』))
このように、宮本は自身も参加した九学会(当初は八学会)連合の対馬調査が離島振興法の誕生の契機だと考えています。周防大島出身の宮本は島嶼社会研究会(幹事:山階芳生ほか)のメンバーの一人として長崎県等と連携して離島振興法の成立に奔走していたものの、成立時には肺結核で入院していました。成立2ヶ月後の1953年10月に、山口麻太郎に宛てた手紙には、「今度離島振興法が出来て、島嶼社会研究会も調査やら何やらいそがしくなつて来るようですが、自重していたいと思います。もう少し元気になつたら郷里の方へかえりたいと思つています。」と綴っています。しかし、島嶼社会研究会が全国離島振興協議会の事務局を引き受け、同会で年長者だったこともあり、宮本は1954年に全国離島振興協議会初代事務局長に就任し、離島振興を牽引することになりました。
以上のように、離島振興法は対馬を原点に、長崎県をはじめとする「官」と、宮本をはじめとする「学」の連携で生まれた法律ともいえ、公布60周年を前にその経緯に光を当てたいと思い、今回取り上げました。
1953年10月1日の山口宛手紙(長崎歴史文化博物館蔵))
参考文献
・西岡竹次郎伝記編纂会編 『伝記西岡竹次郎』下
・小島孝夫 「離島振興の五〇年」(『しま』192号)
・鈴木勇次 「離島振興法に関わる個人力」(『長崎ウエスレヤン大学紀要』10巻1号)