長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
勝田館主人・田中喜平氏のこと (その2)
On Tanaka Kihei, the master of Kantsutakan (2)
寄贈の写真資料
そこで、田中喜平氏寄贈の資料が他にないか検索してみたところ、古写真が4点見つかりました。そのうちの1点を紹介します。
左側に「大正六年四月十八日 於長沙岳麓山上黄公之墓 滔天」
と記され、孫文の支援者で名が知られた宮崎滔天から勝田館主人へ贈られた写真でした。写真の中には、中国の革命家黄興の墓所を訪れた宮崎滔天自身が写っています。この写真を贈られた勝田館主人こそが田中喜平氏でした。
●黄興は、孫文の同志で辛亥革命を実際に指揮した人物です。その後、一時、孫文と袂を分かつこともありましたが、第三革命の最中の1916(大正 5)年10月に亡くなっています。写真は翌1917(大正 6)年に宮崎滔天が長沙岳麓にあった黄興の墓参の場面をわざわざ写真に残して田中喜平氏へ贈ったものです。
●宮崎滔天の年譜で確認すると、確かに大正 6(1917)年4月に、滔天は黄興の国葬に参列しています(『宮崎滔天全集』第五巻)。かつて明治38(1905)年の東京で、孫文と黄興を引き合わせ、中国同盟会創立のきっかけを作ったのが、ほかならぬ滔天でした。また、黄興の息子の世話も引き受ける間柄でした。
その黄興の墓参写真を恵贈された勝田館主人もまた、滔天と黄興の二人に縁のある人物だったのです。(続く)
Donated Photo
そこで、田中喜平氏寄贈の資料が他にないか検索してみたところ、古写真が4点見つかりました。そのうちの1点を紹介します。
左側に「大正六年四月十八日 於長沙岳麓山上黄公之墓 滔天」
と記され、孫文の支援者で名が知られた宮崎滔天から勝田館主人へ贈られた写真でした。写真の中には、中国の革命家黄興の墓所を訪れた宮崎滔天自身が写っています。この写真を贈られた勝田館主人こそが田中喜平氏でした。
●黄興は、孫文の同志で辛亥革命を実際に指揮した人物です。その後、一時、孫文と袂を分かつこともありましたが、第三革命の最中の1916(大正 5)年10月に亡くなっています。写真は翌1917(大正 6)年に宮崎滔天が長沙岳麓にあった黄興の墓参の場面をわざわざ写真に残して田中喜平氏へ贈ったものです。
●宮崎滔天の年譜で確認すると、確かに大正 6(1917)年4月に、滔天は黄興の国葬に参列しています(『宮崎滔天全集』第五巻)。かつて明治38(1905)年の東京で、孫文と黄興を引き合わせ、中国同盟会創立のきっかけを作ったのが、ほかならぬ滔天でした。また、黄興の息子の世話も引き受ける間柄でした。
その黄興の墓参写真を恵贈された勝田館主人もまた、滔天と黄興の二人に縁のある人物だったのです。(続く)