長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
長崎資料から見る梅屋庄吉
Umeya Shokichi Seen by Nagasaki Documents
その9 梅屋庄吉が入学した榎津小学校(1)
当時長崎にあった小学校をまとめたものに『長崎県教育史』上巻(1942年、長崎県教育会/編)に掲載された「明治8年2月現在小学校一覧」があります。この一覧のもとになったのは「各大区公私学校設立表 明治8年2月調」(長崎歴史文化博物館蔵)という資料ですが、この中に庄吉が入学したとされる榎津小学校の名は出てきません。このことから、榎津小学校は明治8年2月の調査以降にしか設立されておらず、庄吉が入学したのは榎津小学校ではなく、東古川町にあった舊川小学校であるという議論が、『長崎文化』第69号の特集「長崎と中国-孫文と梅屋庄吉-」(平成23年11月発行)や平成23年度の長崎伝習所「孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情塾」発行の『孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情Ⅰ』(平成24年3月発行)に収録された諸氏の文章の中で展開されています。榎津小学校に入学したという庄吉自身の記録は誤りだったのでしょうか。
舊川小学校の生徒が増えたため、同校は手狭になった。転校(学校移転のことのようです)したいので、場所を調査した。ふさわしい場所(別紙には榎津町とあります)があり、反対意見もないようなので許可下さい。これに対し長崎県学務係は明治8年1月13日許可を与えた、という内容です。
(9) Enokizu Elementary School, at Which Umeya Shokichi was Enrolled [1]
当時長崎にあった小学校をまとめたものに『長崎県教育史』上巻(1942年、長崎県教育会/編)に掲載された「明治8年2月現在小学校一覧」があります。この一覧のもとになったのは「各大区公私学校設立表 明治8年2月調」(長崎歴史文化博物館蔵)という資料ですが、この中に庄吉が入学したとされる榎津小学校の名は出てきません。このことから、榎津小学校は明治8年2月の調査以降にしか設立されておらず、庄吉が入学したのは榎津小学校ではなく、東古川町にあった舊川小学校であるという議論が、『長崎文化』第69号の特集「長崎と中国-孫文と梅屋庄吉-」(平成23年11月発行)や平成23年度の長崎伝習所「孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情塾」発行の『孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情Ⅰ』(平成24年3月発行)に収録された諸氏の文章の中で展開されています。榎津小学校に入学したという庄吉自身の記録は誤りだったのでしょうか。
舊川小学校の生徒が増えたため、同校は手狭になった。転校(学校移転のことのようです)したいので、場所を調査した。ふさわしい場所(別紙には榎津町とあります)があり、反対意見もないようなので許可下さい。これに対し長崎県学務係は明治8年1月13日許可を与えた、という内容です。