長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
「ナガサキ タイムス」とイカルス号事件
Nagasaki Times and the Icarus Affair
その2 「ナガサキ タイムス」の報道記事
今まで「ナガサキ タイムス」については、発行の事実自体は知られていたものの、その所在はもちろんのこと、現存するのかどうかさえも明らかではありませんでした。最近、それがまとまって現存していることがわかり、平成25年に長崎歴史文化博物館が所蔵することになりました。※1
「ナガサキ タイムス」創刊号
1868年11月28日(明治元年10月15日、以下( )内は和暦の日付を表す)付け「ナガサキ タイムス」に、「崎陽雑報」翻訳記事のもとになった記事を確認することができました。その後12月5日(10月22日)号、12月12日(10月29日)号、1869年1月2日(明治元年11月20日)にも事件の裁判記事が掲載されています。内容は「崎陽雑報」や「維新史料綱要」「日本外交文書」等によって、これまで明らかにされていることと大きく変わるところはありませんが、若干新しい内容も含まれているので、ここで紹介します。
「崎陽雑報」四号では
①1カ月ほど前に大隈重信が事件解決の特命を受けて派遣されて来たこと、
②徹底した探索の結果、犯人が筑前藩士であり、
③事件に関わったのは11人で(※2)、うち9人が裁かれるため筑前から護送されている途中であること(残る1人は既に切腹、1人は逃亡中)、
④彼等が今日・明日にも長崎来港の予定であること、
などが報道されました。
このうちの④については「ナガサキ タイムス」12月5日(10月22日)号の内容であり、それ以降にこの翻訳記事が書かれたことがわかります。
さらに「崎陽雑報」ではわかりませんが、「ナガサキ タイムス」1868年12月12日号を見ると筑前から彼らを護送している船を、「The native steamer Emperor」と記しています。筑前黒田藩所有の蒼準丸(もとの船名はEmperor)です。この時期、蒼準丸はたびたび長崎と筑前の国元を往復していますが、事件の関係者を乗せて長崎港に到着したのは12月6日(10月23日)でした。この日に蒼準丸が入港したことは、長崎歴史文化博物館に残る長崎奉行所関係資料(「諸家外国船買入御届并船目録綴込」)でも確認できます。(続く)
※1:「ナガサキ タイムス」は、現在、新しく旧香港上海銀行長崎支店にオープンしたばかりの「長崎近代史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」で公開しています。
※2:本来事件に関わったのは9人であり、ここで11人と報道しているのは役付2人を加えているようです。
「崎陽雑報」四号では
①1カ月ほど前に大隈重信が事件解決の特命を受けて派遣されて来たこと、
②徹底した探索の結果、犯人が筑前藩士であり、
③事件に関わったのは11人で(※2)、うち9人が裁かれるため筑前から護送されている途中であること(残る1人は既に切腹、1人は逃亡中)、
④彼等が今日・明日にも長崎来港の予定であること、
などが報道されました。
このうちの④については「ナガサキ タイムス」12月5日(10月22日)号の内容であり、それ以降にこの翻訳記事が書かれたことがわかります。
さらに「崎陽雑報」ではわかりませんが、「ナガサキ タイムス」1868年12月12日号を見ると筑前から彼らを護送している船を、「The native steamer Emperor」と記しています。筑前黒田藩所有の蒼準丸(もとの船名はEmperor)です。この時期、蒼準丸はたびたび長崎と筑前の国元を往復していますが、事件の関係者を乗せて長崎港に到着したのは12月6日(10月23日)でした。この日に蒼準丸が入港したことは、長崎歴史文化博物館に残る長崎奉行所関係資料(「諸家外国船買入御届并船目録綴込」)でも確認できます。(続く)
※1:「ナガサキ タイムス」は、現在、新しく旧香港上海銀行長崎支店にオープンしたばかりの「長崎近代史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」で公開しています。
※2:本来事件に関わったのは9人であり、ここで11人と報道しているのは役付2人を加えているようです。
【長崎県文化振興課 山口保彦】
(2) News Articles in the Nagasaki Times
今まで「ナガサキ タイムス」については、発行の事実自体は知られていたものの、その所在はもちろんのこと、現存するのかどうかさえも明らかではありませんでした。最近、それがまとまって現存していることがわかり、平成25年に長崎歴史文化博物館が所蔵することになりました。※1
「ナガサキ タイムス」創刊号
1868年11月28日(明治元年10月15日、以下( )内は和暦の日付を表す)付け「ナガサキ タイムス」に、「崎陽雑報」翻訳記事のもとになった記事を確認することができました。その後12月5日(10月22日)号、12月12日(10月29日)号、1869年1月2日(明治元年11月20日)にも事件の裁判記事が掲載されています。内容は「崎陽雑報」や「維新史料綱要」「日本外交文書」等によって、これまで明らかにされていることと大きく変わるところはありませんが、若干新しい内容も含まれているので、ここで紹介します。
「崎陽雑報」四号では
①1カ月ほど前に大隈重信が事件解決の特命を受けて派遣されて来たこと、
②徹底した探索の結果、犯人が筑前藩士であり、
③事件に関わったのは11人で(※2)、うち9人が裁かれるため筑前から護送されている途中であること(残る1人は既に切腹、1人は逃亡中)、
④彼等が今日・明日にも長崎来港の予定であること、
などが報道されました。
このうちの④については「ナガサキ タイムス」12月5日(10月22日)号の内容であり、それ以降にこの翻訳記事が書かれたことがわかります。
さらに「崎陽雑報」ではわかりませんが、「ナガサキ タイムス」1868年12月12日号を見ると筑前から彼らを護送している船を、「The native steamer Emperor」と記しています。筑前黒田藩所有の蒼準丸(もとの船名はEmperor)です。この時期、蒼準丸はたびたび長崎と筑前の国元を往復していますが、事件の関係者を乗せて長崎港に到着したのは12月6日(10月23日)でした。この日に蒼準丸が入港したことは、長崎歴史文化博物館に残る長崎奉行所関係資料(「諸家外国船買入御届并船目録綴込」)でも確認できます。(続く)
※1:「ナガサキ タイムス」は、現在、新しく旧香港上海銀行長崎支店にオープンしたばかりの「長崎近代史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」で公開しています。
※2:本来事件に関わったのは9人であり、ここで11人と報道しているのは役付2人を加えているようです。
「崎陽雑報」四号では
①1カ月ほど前に大隈重信が事件解決の特命を受けて派遣されて来たこと、
②徹底した探索の結果、犯人が筑前藩士であり、
③事件に関わったのは11人で(※2)、うち9人が裁かれるため筑前から護送されている途中であること(残る1人は既に切腹、1人は逃亡中)、
④彼等が今日・明日にも長崎来港の予定であること、
などが報道されました。
このうちの④については「ナガサキ タイムス」12月5日(10月22日)号の内容であり、それ以降にこの翻訳記事が書かれたことがわかります。
さらに「崎陽雑報」ではわかりませんが、「ナガサキ タイムス」1868年12月12日号を見ると筑前から彼らを護送している船を、「The native steamer Emperor」と記しています。筑前黒田藩所有の蒼準丸(もとの船名はEmperor)です。この時期、蒼準丸はたびたび長崎と筑前の国元を往復していますが、事件の関係者を乗せて長崎港に到着したのは12月6日(10月23日)でした。この日に蒼準丸が入港したことは、長崎歴史文化博物館に残る長崎奉行所関係資料(「諸家外国船買入御届并船目録綴込」)でも確認できます。(続く)
※1:「ナガサキ タイムス」は、現在、新しく旧香港上海銀行長崎支店にオープンしたばかりの「長崎近代史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」で公開しています。
※2:本来事件に関わったのは9人であり、ここで11人と報道しているのは役付2人を加えているようです。
【長崎県文化振興課 山口保彦】