On Tanaka Kihei, the master of Kantsutakan (3)

Miyazaki Toten’s Comment on the Master of Katsutakan

宮崎滔天は多くの著作・日記・雑文を残している作家でもありますが、滔天がどう書き残しているか、滔天の勝田館主人・田中喜平氏評を聞いてみましょう。

大正年間、宮崎滔天が上海を訪れたときは、ほぼ勝田館に宿泊しており、上海での常宿としていたようです。

大正 9(1920)年の丸1年間の出来事を書き記して「上海日々新聞」に連載した「出鱈目日記」には、勝田館主人が登場します。

大正9年7月21日、黄興の息子、黄厚端が一高の入学試験に合格したという報せが滔天のもとに入ります。その日、上海にあった厚端がその姉黄振華を伴って来日し、滔天宅を訪問。それは「勝田館主人夫婦の懇切なる勧告」によるものといいます。

 

「何時もながらの勝田館老夫婦の至情には、身に沁みて有難く感じぬ。」(『宮崎滔天全集』第3巻p428)

このあと、勝田館主人の義侠ぶりを書き連ねます。少し長くなりますが、勝田館主人がどんな人物だったかよく伝えてくれているので、次に引用します。

「勝田館主人の義侠や、今に始まりたるに非ざれども、その義侠が狭き同胞間に限られずして支那人に及び印度人に及び、更に西洋人に及ぶに至つて、実に徹底せる義侠と謂ふべし。彼が排日の熾なる上海に在りて、常に外国往復支那人の相談相手となり、独り特別の人間視せらるゝ所以のものは、偏に是れ彼の義侠の徳と謂ふべき也。
人或は謂ふ、彼は商売上手なりと。蓋し皮相の説なり。彼は生れながらにして一種の信念を有せり、曰く平等主義、曰く人類主義是也。」(同書p428)

 

人種や国家の枠にはまることのない勝田館主人の義侠を、単なる商売上手なだけだろうと冷たく言い放つ人もいたようですが、滔天の評価は違っていました。心の底に深く根付いた平等主義、分け隔てのない普遍的な人類愛、そういうものを勝田館主人に感じていたようです。この点は、まさに梅屋庄吉の義侠心とほぼ重なるものが感じられます。滔天は、さらに、それが勝田館主人の「亡父君の遺言に淵源す」と続けています。

この時期、勝田館主人・田中喜平氏と宮崎滔天の関係は、滔天が上海に渡航したときだけではなく、年末には例年、日本にいる滔天のもとに中国の米が送られてきていました。

「十二月二十九日。晴。今日は餅搗きにて何となく景気よし。此の原料が支那産なるは床しく、例年勝田館主人の心からなる贈り物なるは殊に嬉し。」(同書p554)

滔天との関係はまさに親密な家族的付き合いの間柄であり、上海に在るとき、中国の米で搗いた餅はうまいんだ・・・というような会話が交わされていたのかもしれません。

 

【長崎県文化振興課 山口保彦】