John Manjiro Mentioned in Official Records Kept by the Nagasaki Magistrate’s Office

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今回も紀州日高郡の漂流民九助らに対する長崎奉行所による取り調べ記録「嘉永四年 亥二番唐船ヨリ送来候漂流日本人一件」(長崎歴文化博物館蔵)を見てみましょう。この記録には、嘉永5年(1852)閏2月25日、九助らが晧台寺などを参詣したときのことが書かれています。そこには「土州漂流人伝蔵・五右衛門・万次郎共一同参詣いたす」(土佐国の漂流民伝蔵・五右衛門・万次郎とも一緒に参詣する、画像8)と記されており、オアフ島で遭遇した九助らと万次郎らは、長崎において再会していたのでした。その2において、万次郎らが寺社等を参詣した記録をまとめましたが、この再会はその中の(4)にあたるものです。万次郎らの取り調べ記録にも「紀州漂流人五人も一同参詣いたす」と記されていますが、九助らの名前が記されていないため、運命的な再会があったかどうかはっきりしません。しかし、九助らの記録により、それが裏付けられたのです。ちなみに、その2でまとめた万次郎らの寺社等参詣記録の(3)にも「紀州漂流人五人」とともに参詣したことが書かれています。この日のことについては、九助らの取り調べ記録に書かれていませんが、再会は嘉永5年2月25日だった可能性もあります。このように劇的に再会した万次郎らと九助らは、寺社等を参詣しながら何を話したのでしょうか。たいへん興味があります。

 

ちなみに、九助らが漂流したとき、乗組員は全員で13人だったことは、前回述べましたが、九助ら5人を除く残り8人も別の外国船に救助されています。そして、病死した1人を除く7人が、嘉永5年6月ロシア船により伊豆国へ送られて来ています(『通航一覧続輯』第3巻)。この紀州日高郡の天寿丸の乗組員13人の漂流も、万次郎らの漂流に負けないくらい劇的なものだったようです。

今回は4回にわたり長崎奉行所の公式記録に記されたジョン万次郎について見てきました。以前、中国福建省へ漂着した奥州南部の人々の漂流記録(「宝暦元年 唐国福建省江致漂着候奥州南部之者六人口書」『長崎関係史料選集』第1集)を読んだことがあるのですが、この二つの漂流体験の大きな違いは、奥州南部の人々が唐船(中国貿易船)に送られて帰国したのに対し、鳥島に漂着しアメリカ船に救助されハワイに到着した万次郎らは、中国行きのアメリカ船に途中まで乗せてもらうものの、基本的に自力で日本へ帰ってきたことではないでしょうか。これは江戸時代、日本・中国・朝鮮の東アジア三国の間に、互いに漂流民を送還するという体制ができていたのに対し、アメリカとの間にはこのような取り決めがなされていなかったことから生じたものです。江戸時代の東アジアは平和で友好的な関係を築いていたのでした。このような日本と東アジア諸国との関係を、今回漂流民の記録を読むことで理解することができました。(おわり)

 

【長崎県文化振興課 石尾和貴】