長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
「犯科帳」の謎
Mysteries about Hankacho (Records of Judgments Given by the Nagasaki Magistrate’s Office)
年号未詳「犯科帳」の年代を考えてみました その1
まず、年号未詳「犯科帳」の資料現状を調べてみましょう(画像2)。すると、事件番号(資料左上の朱書きの部分)「ー」からはじまり、「二」、「三」と続き、そこで終っています。つまり「四」以降がなくなっているのです。年号が確定できる記述はないのですが、干支の「亥」と「子」の文字が見えるので、亥年から子年にかけてのことが書かれていることになります。これらを手掛かりに、年号未詳「犯科帳」がいつのものなのかを探っていくことにします。候補としては、次の3点が考えられます。
(1)原本の一番古い年代の寛文6年よりも古い部分にあたる。
(2)原本そのものが無くなっている期間があるので、その一部にあたる。
(3)原本の中には一部分だけ欠けているものがあるので、その部分にあたる。
の3点です。順に検討してみましょう。
(1)についてですが、現在残っている寛文6年よりも古い「犯科帳」が存在した可能性は「ゼロ」ではありません。しかし「犯科帳」が本来いつから作成されはじめたのか今のところ分かりませんので、決め手がありません。(1)は保留にしておきます。
(2)についてですが、「犯科帳」は200年間分、全て残っているわけではありません。中には原本の冊子そのものが無くなっている期間があります。原本そのものが無いのは、A:嘉永5年(1852・子年)10月~嘉永7年8月、B:文久2年(1862・戌年)10月~文久3年4月、C:慶応2年(1866・寅年)正月~同年8月、D:慶応3年(1867・卯年)11月以降の4期間です。干支からすると、AとBが当てはまる可能性があります。しかし、該当しない決定的な証拠があります。それは、第119冊「犯科帳」(天保12年(1841))以降の原本には漢数字で書かれた事件番号が付いていないという事実です。AからDは全て天保12年以降に含まれていますので、「一」から「三」の漢数字番号が付けられている年号未詳「犯科帳」はこの期間には該当しないのです。よって、(2)の可能性は消えました。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】
Estimating When Undated Hankacho Were Created [1]
まず、年号未詳「犯科帳」の資料現状を調べてみましょう(画像2)。すると、事件番号(資料左上の朱書きの部分)「ー」からはじまり、「二」、「三」と続き、そこで終っています。つまり「四」以降がなくなっているのです。年号が確定できる記述はないのですが、干支の「亥」と「子」の文字が見えるので、亥年から子年にかけてのことが書かれていることになります。これらを手掛かりに、年号未詳「犯科帳」がいつのものなのかを探っていくことにします。候補としては、次の3点が考えられます。
(1)原本の一番古い年代の寛文6年よりも古い部分にあたる。
(2)原本そのものが無くなっている期間があるので、その一部にあたる。
(3)原本の中には一部分だけ欠けているものがあるので、その部分にあたる。
の3点です。順に検討してみましょう。
(1)についてですが、現在残っている寛文6年よりも古い「犯科帳」が存在した可能性は「ゼロ」ではありません。しかし「犯科帳」が本来いつから作成されはじめたのか今のところ分かりませんので、決め手がありません。(1)は保留にしておきます。
(2)についてですが、「犯科帳」は200年間分、全て残っているわけではありません。中には原本の冊子そのものが無くなっている期間があります。原本そのものが無いのは、A:嘉永5年(1852・子年)10月~嘉永7年8月、B:文久2年(1862・戌年)10月~文久3年4月、C:慶応2年(1866・寅年)正月~同年8月、D:慶応3年(1867・卯年)11月以降の4期間です。干支からすると、AとBが当てはまる可能性があります。しかし、該当しない決定的な証拠があります。それは、第119冊「犯科帳」(天保12年(1841))以降の原本には漢数字で書かれた事件番号が付いていないという事実です。AからDは全て天保12年以降に含まれていますので、「一」から「三」の漢数字番号が付けられている年号未詳「犯科帳」はこの期間には該当しないのです。よって、(2)の可能性は消えました。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】