長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
勝田館主人・田中喜平氏のこと(その8)
On Tanaka Kihei, the master of Kantsutakan (8)
勝田館と梅屋庄吉
●勝田館主人は孫文や黄興、日本人で中国革命の支援に関わったいわゆる大陸浪人と言われた人々と関わっていたことがわかってきました。そしてさらに、小坂文乃氏が所蔵する梅屋庄吉関係資料の中にも勝田館に関わるものがありましたので、最後に紹介します。
●孫文亡き後、その銅像を制作した梅屋庄吉は、完成した銅像を携えて昭和 4(1929)年に中国に渡ります。その後、中国と日本の橋渡しをするため、いったんは中国へ移住することも考え、しばらく上海に留まります。その頃のものだと思われる国際銀公司に関する梅屋のメモが、梅屋庄吉の曾孫にあたられる小坂文乃氏のもとに残されています。そのメモが勝田館のレターヘッド付きの便箋だったのです。
●孫文亡き後、その銅像を制作した梅屋庄吉は、完成した銅像を携えて昭和 4(1929)年に中国に渡ります。その後、中国と日本の橋渡しをするため、いったんは中国へ移住することも考え、しばらく上海に留まります。その頃のものだと思われる国際銀公司に関する梅屋のメモが、梅屋庄吉の曾孫にあたられる小坂文乃氏のもとに残されています。そのメモが勝田館のレターヘッド付きの便箋だったのです。
★小坂文乃氏所蔵 勝田館便箋のメモ
●梅屋庄吉が残した手記(「国際銀公司設立之認可証を得る迠の日誌」)や「当用日記」によると、昭和 5(1930)年6月に国際銀公司の設立のために勝田館で日中双方の担当者が協議を行っており、その席に梅屋も同席しています。おそらくその時のメモだと考えられます。
●それによると国際銀公司とは
「一 国際銀公司ハ中、日、米三国ノ経済調節国際機関ナリ主トシテ中、日人其経営ニ当リ米人ヲモ重役トスルコト」とあります。もともとアメリカで認可された銀行で、中国における産業開発のための投資銀行として日米中合同で設立しようとした銀行でした。日本側では同じ志を持っていた徳光好文が中心となり、創設に奔走していました。トップに据えられたのは日立製作所の基盤を作った久原財閥の総帥で、かつ政友会の代議士・前逓信大臣久原房之助でした。しかし、中国での創設には当然のことながら中国側の了解が必要でした。その仲介役として白羽の矢がたったのが梅屋庄吉でした。久原房之助の依頼状を持参した徳光好文が、頭山満の紹介名刺を携え、梅屋を訪ねてきたのです(『国際銀公司創設秘誌 徳光好文奮闘録』昭和 9年野口正章著)。
●庄吉は事の重要さを理解し、翌月、南京に赴き、さらに安徽省、河南省方面で、かつて国民党の同志だった閻錫山・馮玉祥らとの内戦の陣頭指揮を執っていた蒋介石を柳河に訪ね、その許可を得るという実績を残しています。その時の蒋介石と梅屋の会談の様子はのちに、梅屋自身が長崎新聞に報告し、記事となっています(「長崎新聞」昭和 5年8月9日付け)。
●それによると国際銀公司とは
「一 国際銀公司ハ中、日、米三国ノ経済調節国際機関ナリ主トシテ中、日人其経営ニ当リ米人ヲモ重役トスルコト」とあります。もともとアメリカで認可された銀行で、中国における産業開発のための投資銀行として日米中合同で設立しようとした銀行でした。日本側では同じ志を持っていた徳光好文が中心となり、創設に奔走していました。トップに据えられたのは日立製作所の基盤を作った久原財閥の総帥で、かつ政友会の代議士・前逓信大臣久原房之助でした。しかし、中国での創設には当然のことながら中国側の了解が必要でした。その仲介役として白羽の矢がたったのが梅屋庄吉でした。久原房之助の依頼状を持参した徳光好文が、頭山満の紹介名刺を携え、梅屋を訪ねてきたのです(『国際銀公司創設秘誌 徳光好文奮闘録』昭和 9年野口正章著)。
●庄吉は事の重要さを理解し、翌月、南京に赴き、さらに安徽省、河南省方面で、かつて国民党の同志だった閻錫山・馮玉祥らとの内戦の陣頭指揮を執っていた蒋介石を柳河に訪ね、その許可を得るという実績を残しています。その時の蒋介石と梅屋の会談の様子はのちに、梅屋自身が長崎新聞に報告し、記事となっています(「長崎新聞」昭和 5年8月9日付け)。
★長崎新聞記事
【長崎県文化振興課 山口保彦】
Katsutakan and Umeya Shokichi
●勝田館主人は孫文や黄興、日本人で中国革命の支援に関わったいわゆる大陸浪人と言われた人々と関わっていたことがわかってきました。そしてさらに、小坂文乃氏が所蔵する梅屋庄吉関係資料の中にも勝田館に関わるものがありましたので、最後に紹介します。
●孫文亡き後、その銅像を制作した梅屋庄吉は、完成した銅像を携えて昭和 4(1929)年に中国に渡ります。その後、中国と日本の橋渡しをするため、いったんは中国へ移住することも考え、しばらく上海に留まります。その頃のものだと思われる国際銀公司に関する梅屋のメモが、梅屋庄吉の曾孫にあたられる小坂文乃氏のもとに残されています。そのメモが勝田館のレターヘッド付きの便箋だったのです。
●孫文亡き後、その銅像を制作した梅屋庄吉は、完成した銅像を携えて昭和 4(1929)年に中国に渡ります。その後、中国と日本の橋渡しをするため、いったんは中国へ移住することも考え、しばらく上海に留まります。その頃のものだと思われる国際銀公司に関する梅屋のメモが、梅屋庄吉の曾孫にあたられる小坂文乃氏のもとに残されています。そのメモが勝田館のレターヘッド付きの便箋だったのです。
★小坂文乃氏所蔵 勝田館便箋のメモ
●梅屋庄吉が残した手記(「国際銀公司設立之認可証を得る迠の日誌」)や「当用日記」によると、昭和 5(1930)年6月に国際銀公司の設立のために勝田館で日中双方の担当者が協議を行っており、その席に梅屋も同席しています。おそらくその時のメモだと考えられます。
●それによると国際銀公司とは
「一 国際銀公司ハ中、日、米三国ノ経済調節国際機関ナリ主トシテ中、日人其経営ニ当リ米人ヲモ重役トスルコト」とあります。もともとアメリカで認可された銀行で、中国における産業開発のための投資銀行として日米中合同で設立しようとした銀行でした。日本側では同じ志を持っていた徳光好文が中心となり、創設に奔走していました。トップに据えられたのは日立製作所の基盤を作った久原財閥の総帥で、かつ政友会の代議士・前逓信大臣久原房之助でした。しかし、中国での創設には当然のことながら中国側の了解が必要でした。その仲介役として白羽の矢がたったのが梅屋庄吉でした。久原房之助の依頼状を持参した徳光好文が、頭山満の紹介名刺を携え、梅屋を訪ねてきたのです(『国際銀公司創設秘誌 徳光好文奮闘録』昭和 9年野口正章著)。
●庄吉は事の重要さを理解し、翌月、南京に赴き、さらに安徽省、河南省方面で、かつて国民党の同志だった閻錫山・馮玉祥らとの内戦の陣頭指揮を執っていた蒋介石を柳河に訪ね、その許可を得るという実績を残しています。その時の蒋介石と梅屋の会談の様子はのちに、梅屋自身が長崎新聞に報告し、記事となっています(「長崎新聞」昭和 5年8月9日付け)。
●それによると国際銀公司とは
「一 国際銀公司ハ中、日、米三国ノ経済調節国際機関ナリ主トシテ中、日人其経営ニ当リ米人ヲモ重役トスルコト」とあります。もともとアメリカで認可された銀行で、中国における産業開発のための投資銀行として日米中合同で設立しようとした銀行でした。日本側では同じ志を持っていた徳光好文が中心となり、創設に奔走していました。トップに据えられたのは日立製作所の基盤を作った久原財閥の総帥で、かつ政友会の代議士・前逓信大臣久原房之助でした。しかし、中国での創設には当然のことながら中国側の了解が必要でした。その仲介役として白羽の矢がたったのが梅屋庄吉でした。久原房之助の依頼状を持参した徳光好文が、頭山満の紹介名刺を携え、梅屋を訪ねてきたのです(『国際銀公司創設秘誌 徳光好文奮闘録』昭和 9年野口正章著)。
●庄吉は事の重要さを理解し、翌月、南京に赴き、さらに安徽省、河南省方面で、かつて国民党の同志だった閻錫山・馮玉祥らとの内戦の陣頭指揮を執っていた蒋介石を柳河に訪ね、その許可を得るという実績を残しています。その時の蒋介石と梅屋の会談の様子はのちに、梅屋自身が長崎新聞に報告し、記事となっています(「長崎新聞」昭和 5年8月9日付け)。
★長崎新聞記事
【長崎県文化振興課 山口保彦】