長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
高低差に見る江戸時代の痕跡
Traces of the Edo Period Seen by Difference of Ground Elevation
長崎の町の高低差をあるく その2
<12番>急な坂道。左下に電車通りを見ながら、公会堂方面に下る坂の途中から右折。左に勤労福祉会館があるところが、かつての町使屋敷があった場所。
<13番>坂道。
<14番>かさ上げされて、緩やかな坂道となっているが、一部、進行方向と平行に階段が設けられ、「休石」が残っている。二の堀があったところで、今はそこに溝がある。
<15番>坂道。
<16番>巌流坂。長州藩と小倉藩の大名屋敷が、この坂を挟んであったためについた名前だという。現在の自治会館が長州藩蔵屋敷跡。
<17番>階段はなく、今は車の通りの多いところ坂になっている。かつての一の堀(堀町)につながる通りである。
<18番>天満坂。今も石段が残る。深堀騒動の発端となった事件の場所として有名。このあたり、高い石垣がよく残っており、丘の上と下の高低差を実感できる。地図上の標高差でも7mはある。「惣町絵図」ではこのがけの下にも井戸が点々と記されているが、その1つが今も残っている(右写真)。
<20番><20番>ピンコロ坂。江戸町商店街。下りながら途中右折すると、蔵番長屋があった背後の石垣が駐車場の奥に見える。
今も、江戸時代と同じように階段が残るのは3つのみ。中でもそのままの姿を残しているのは天満坂(けんか坂)のみである。明治31(1898)年の「長崎人力車賃銭図」では10箇所が階段で残されているから、幕末から明治にかけて、馬車や人力車が通れるように約半分が階段から坂道に改修されたようだ。残り7つが、その後、自動車が通れるように改修された結果ということだろうか。
「惣町絵図」では、崖下に共用井戸が列をなすように描かれている。平戸町と樺島町を分ける崖の上の平戸町側にも井戸が見えるように、一部は崖の上にも設置されていたが、大半は崖下に見える(右絵図)。
<
「惣町絵図」では屋敷地内の井戸は描かれていないが、当然ながら屋敷内にも井戸がしつらえられている(「万才町遺跡」等の発掘調査報告書を参照)。また、「惣町絵図」では本五島町となる崖下(石垣下)には、井戸は描かれていないが、「水番」と記されており、道沿いに溝も描かれているので、やはり共用井戸があったと見るべきでしょう。
別の絵図(天保5(1834)年の「本五島町絵図」)を見ると、点々と井戸が描かれている(左絵図)。
なお、この絵図では、左側が本五島町で、右端の石垣の下に井戸と溝が見える。右の階段は7番の階段。
今回、歩いた崖(石垣)下すぐの場所には、丘の北側も南側も同じく点々と列をなして共用井戸が設置され、その前には溝が通っていたのである。
Strolling around Nagasaki to Examine Difference of Ground Elevation [2]
<12番>急な坂道。左下に電車通りを見ながら、公会堂方面に下る坂の途中から右折。左に勤労福祉会館があるところが、かつての町使屋敷があった場所。
<13番>坂道。
<14番>かさ上げされて、緩やかな坂道となっているが、一部、進行方向と平行に階段が設けられ、「休石」が残っている。二の堀があったところで、今はそこに溝がある。
<15番>坂道。
<16番>巌流坂。長州藩と小倉藩の大名屋敷が、この坂を挟んであったためについた名前だという。現在の自治会館が長州藩蔵屋敷跡。
<17番>階段はなく、今は車の通りの多いところ坂になっている。かつての一の堀(堀町)につながる通りである。
<18番>天満坂。今も石段が残る。深堀騒動の発端となった事件の場所として有名。このあたり、高い石垣がよく残っており、丘の上と下の高低差を実感できる。地図上の標高差でも7mはある。「惣町絵図」ではこのがけの下にも井戸が点々と記されているが、その1つが今も残っている(右写真)。
<20番><20番>ピンコロ坂。江戸町商店街。下りながら途中右折すると、蔵番長屋があった背後の石垣が駐車場の奥に見える。
今も、江戸時代と同じように階段が残るのは3つのみ。中でもそのままの姿を残しているのは天満坂(けんか坂)のみである。明治31(1898)年の「長崎人力車賃銭図」では10箇所が階段で残されているから、幕末から明治にかけて、馬車や人力車が通れるように約半分が階段から坂道に改修されたようだ。残り7つが、その後、自動車が通れるように改修された結果ということだろうか。
「惣町絵図」では、崖下に共用井戸が列をなすように描かれている。平戸町と樺島町を分ける崖の上の平戸町側にも井戸が見えるように、一部は崖の上にも設置されていたが、大半は崖下に見える(右絵図)。
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「惣町絵図」では屋敷地内の井戸は描かれていないが、当然ながら屋敷内にも井戸がしつらえられている(「万才町遺跡」等の発掘調査報告書を参照)。また、「惣町絵図」では本五島町となる崖下(石垣下)には、井戸は描かれていないが、「水番」と記されており、道沿いに溝も描かれているので、やはり共用井戸があったと見るべきでしょう。
別の絵図(天保5(1834)年の「本五島町絵図」)を見ると、点々と井戸が描かれている(左絵図)。
なお、この絵図では、左側が本五島町で、右端の石垣の下に井戸と溝が見える。右の階段は7番の階段。
今回、歩いた崖(石垣)下すぐの場所には、丘の北側も南側も同じく点々と列をなして共用井戸が設置され、その前には溝が通っていたのである。