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黄檗文化は江戸時代の華

黄檗文化とは

黄檗文化とは、黄檗宗の宗祖隠元の渡来以降、中国からもたらされた明末清初の諸文化のこと。

江戸時代の日本へ与えた影響は幅広く、建築、文学、音楽、書道、絵画、彫刻、印刷、医学といった学術や文化の面だけでなく、衣食住といった生活に密接した分野にまで及び、江戸期の日本文化を大きく発達させました。それらは現代の私たちの身のまわりに溶け込み、今なお日本文化の中に息づいています。

文化

隠元の名を冠したインゲン豆は、今では和食の食材として欠かせない存在です。このインゲン豆やスイカ、レンコン、もやしなどは、隠元によってもたらされたと言われています。

インゲン豆

寒天は、「寒晒しのところてん」という意味で、隠元さんが名づけ親なんだよ。

寒天

食卓

江戸期の日本では、食事をする時、一人用の膳を用いていました。ところが、中国から黄檗の普茶(ふちゃ)料理とともに食卓(テーブル)がもたらされ、皆で一緒に食卓を囲んで食事をとる新しい食事形式が始まりました。

食卓を囲む大田南畒ら。『料理通』より抜粋
(人間文化研究機構国文学研究資料館蔵 CC BY-SA)

煎茶

茶は、臨済宗の開祖栄西(えいさい)が1191年に中国から長崎の平戸にもたらし、日本に広がりました。しかしそれらは、磚茶(たんちゃ)挽茶(ひきちゃ)と呼ばれる茶葉を粉末にし、湯に溶かして飲む方法で、主に権力者や有力者など限られた人々のものでした。

一方、茶葉を湯に浸してそのエキスを飲む煎茶は、隠元らによってもたらされました。禅僧の間だけでなく町中の茶屋などを通して庶民の間にも普及し、煎茶道や菓子の発達も促しました。また、売茶翁(ばいさおう)として知られる江戸中期の黄檗僧月海は、京都の各所で茶を供し、多くの文人とも交流することで、煎茶の定着に大きな役割を果たしました。

『料理通』より抜粋
(人間文化研究機構国文学研究資料館蔵 CC BY-SA)

「かぎやおせん」(北尾重政筆、東京国立博物館蔵Image TNM Image Archives)
「お仙」は水茶屋「鍵屋」の看板娘としてもてはやされ、その人気は狂言や歌舞伎がつくられるほど。

普茶料理

普茶料理とは、中国の料理形式の一つで、隠元をはじめとする黄檗僧らによって伝えられました。肉や魚など動物性のたんぱく質を使用しない中国風の精進料理です。油を多用するのが特徴で、その調理法は極めて洗練されています。卓袱料理(しっぽく)のルーツの一つでもあります。

黄檗僧が長崎から畿内そして江戸などへ進出するのにあわせて、普茶料理も各地に伝播していきました。やがて普茶料理は、黄檗の寺院料理としてだけでなく市中の料理屋でも提供され人気を呼びました。

「江戸時代の普茶料理の様子。『料理通』より抜粋
(人間文化研究機構国文学研究資料館蔵 CC BY-SA)

普茶料理(聖福寺)

胡麻豆腐

胡麻豆腐は、普茶料理のメニューの一つだったんだよ。

普茶料理(萬福寺)

普茶料理(興福寺)

卓袱料理

卓袱料理は、テーブルを囲んで食する新しい料理形式で、日本・西洋・中国の献立が混在したものです。18世紀には卓袱料理について記された本が多数発行され、19世紀初頃には地方の村人にも知られるほど広く普及していました。

江戸の高級料理屋八百膳の主人栗山善四郎(くりやまぜんしろう)は、『江戸流行料理通』の「第4編 卓袱料理・普茶料理」を執筆するため、卓袱料理を学びに長崎まで出かけたほどでした。江戸や京・大坂といった都市部には卓袱料理屋が開店していましたが、やはり卓袱料理の本場長崎は別格の存在だったようです。

「長崎丸山において清客卓子料理を催す図」『料理通』より抜粋(人間文化研究機構国文学研究資料館蔵 CC BY-SA)

卓袱料理

へえ~、あの有名な八百膳のご主人が、卓袱料理を学びにわざわざ長崎にまで行ってたなんて驚きだ!

ファッション

僧服

黄檗僧の袈裟や法衣は、他の宗派のものとは異なり、当時の人の目にはとてもカッコ良く見えていたようです。そのため、臨済宗だけでなく曹洞宗という他宗派の僧や歌舞伎衣装までもが、黄檗僧の衣を真似ました。

黄檗僧の影響の大きさに驚いた幕府は、寛文13年(1673)に、黄檗僧の江戸市中徘徊の禁令を出したほどでした。

「祖師源流図(部分)」山本若麟 興福寺蔵

歌舞伎衣装

江戸時代、流行の最先端を行く歌舞伎の世界では、衣装に新しいものを取り入れ、それを見た人々が真似をして新たな流行が広がっていきました。歌舞伎衣装の一つに、四天(よてん)という(おくみ)が無く(すそ)が少し短めで、裾の両脇に切れ目が入った衣装がありますが、これは黄檗僧の衣から影響をうけた新しい衣装でした。

四天を身につけた歌舞伎役者/三代目豊国「犬養現八(三代目関三十郎)」早稲田大学演劇博物館所蔵

隠元頭巾

江戸時代、お高祖頭巾(こそずきん)が隠元頭巾と呼ばれ流行しました。お高祖頭巾とは、きものの袖の形をしていて、袖口から顔を出すようになっている頭巾です。江戸時代、お高祖といえば隠元のことだったのでしょう。

※高祖:一宗一派を開いた僧

隠元頭巾とよばれるお高祖頭巾(袖頭巾)
(画像提供:風俗博物館)

宗教

黄檗式の梵唄(ぼんばい)、お経を唱えるときに使用する鳴り物(木魚・引磬(いんきん)銅磬(どうけい)・小鼓・大鐃鈸(にょうはち)・銅鑼鼓)などは独特で、多くの僧侶や人々の注目を集めました。中には、他宗派であるにもかかわらず唐音でお経を唱えたり、戒名を黄檗風に変えたりする僧侶もあらわれました。今日仏教で広く使われる木魚は、黄檗宗が伝えたといわれています。

※梵唄:梵語や唐韻による経文などに節を付けて唱えること

木魚と引磬『黄檗清規』京都 萬福寺蔵

銅鑼鼓と大鐃鉢鈸『黄檗清規』 京都 萬福寺蔵

建築

長崎の唐寺や宇治の萬福寺は、伽藍(がらん)配置や建築が明代の中国寺院をお手本に独特の建築様式で作られました。その特徴は、赤く塗られた堂宇(どうう)や、桃・蝙蝠(こうもり)の意匠、黄檗天井(蛇腹天井)と呼ばれるアーチ型の天井構造、門と本堂の中心軸がずらされた伽藍配置といった点です。この独特の建築様式は、日本の中に異国情緒をたたえる新しい風景をつくりだしました。

※伽藍:寺院にあるお堂や塔、門などの建築物の集まり
※堂宇:お堂あるいはお堂の(のき)

黄檗天井

「崇福寺建造物配置図」『長崎県建造物復元記録図報告書』より
門と本堂の中心軸がずらされている

芸術

絵画

黄檗宗の渡来にともない、長崎や京都を中心に新しい絵画様式が誕生しました。「黄檗画派」には余技的な水墨画と、喜多宗雲(きたそううん)喜多元規(きたげんき)らの専門の絵師が描いた写実的で強く鮮やかな色彩の黄檗画像に大別されます。日本文人画の大成者・池大雅(いけのたいが)、多才の文人・木村兼葭堂(きむらけんかどう)、奇想の画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)など様々な画人も黄檗画派の影響を受けました。

「白衣大士観瀑図」逸然性融 長崎歴史文化博物館蔵

「獨立禅師画像」喜多元規筆・独立性易賛(どくりゅうしょうえき) 長崎歴史文化博物館蔵

彫刻

沈滞していた江戸時代の彫刻に新風を吹き込んだのは、黄檗寺院の仏像制作に腕を振るった中国人仏師たちでした。中でも范道生(はんどうせい)(1635~1670)は代表的な仏師で、長崎の唐寺だけでなく、隠元の要望で宇治の萬福寺でも腕をふるいました。黄檗様と呼ばれる、明様式にもとづいた装飾的な衣を身に着け、異国的な魅力を放つ仏像は、当時の日本人仏師に影響を与え、黄檗寺院以外でも見られるようになりました。

「韋駄天立像」范道生 東明山興福寺蔵

隠元をはじめとする黄檗宗の僧侶たちは、多くの個性的な書を残しました。中国からもたらされたこの力強く筆勢にあふれた新しい書法は、唐様の書と呼ばれ、儒者や僧侶、文人だけでなく庶民にまで広く流行します。隠元・木庵・即非は「黄檗の三筆」と称され、特に人気がありました。

今でも唐寺を訪れると、禅僧による大らかで力強い書をもとに作られた扁額や(れん)を門や堂宇で見ることができます。

※ 木庵:師匠である隠元に招かれ1655年に渡来した黄檗僧。福済寺の住持となり、後に隠元の後を継いで宇治萬福寺第2代住持となる。
※ 即非:師匠である隠元に招かれ1657年に渡来した黄檗僧。崇福寺の住持となり、中興開山の祖とされる。後に小倉城主小笠原忠真の要請により福聚寺を開山。

左から隠元「慧日輝禅林」 木庵「掌中握日月」 即非「一行書」
いずれも長崎歴史文化博物館蔵

篆刻

(てん)刻とは、木や石・金などに印を彫ること。日本では、古くから中国の影響で印が用いられていましたが、江戸時代に入り、隠元の下で出家した黄檗僧の独立性易(どくりゅうしょうえき)(1596~1672)が、中国明朝の上品な篆刻を伝えたことにより、日本の篆刻に変革をもたらしました。同じく中国から渡来し、詩や書、篆刻を伝えた僧心越(しんえつ)(1639~1695)とともに、「日本の篆刻の祖」と呼ばれています。

伝独立所用印 岩国徴古館所蔵

伝独立所用印 印影  岩国徴古館所蔵

文学

江戸時代には、隠元の渡来をきっかけとして詩偈が注目され、『本朝高僧詩選』や『和漢高僧詩偈抄』が刊行されるなど、僧詩ブームが巻き起こるほどでした。禅宗では、悟りの境地は言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へ伝えられると考えられていますが、その一方で、隠元をはじめとする黄檗僧たちは多くの詩や偈を残し、それらは言葉を用いて伝える重要性を示しました。特に、隠元の豊かな感性が反映された詩偈には、審美性や高い文芸性が見られ、江戸時代の文学史において特筆すべき事柄であると考えられています。

隠元が編纂した詩集『三籟集(さんらいしゅう)』1660年
国立国会図書館デジタルコレクション

隠元の詩偈集『黄檗隠元禅師雲涛集』
隠元隆琦著・虚白性願編
国立国会図書館デジタルコレクション

文化

原稿用紙

現在使用されている原稿用紙は、1枚が20字×20行の400字詰めで、紙の中央に題名などを書き込む枠がある規格になっています。これは、鉄眼一切経(黄檗版大蔵経)をはじめ、『隠元禅師語録』『黄檗和尚太和集』など、黄檗版と称される黄檗宗独自の版木彫刻の様式がお手本となったものです。

原稿用紙

見開きで20字20行となり、中央に枠がある形式
『隠元禅師語録』 国立公文書館蔵

明朝体

明朝体は、新聞や書籍、雑誌など私たちの身の回りで最も普通に用いられている書体です。縦の画は太く、横の画が細いのが特徴です。もともと中国宋時代に使い始められましたが、日本へは明時代の書物として多く伝わったことから明朝体と呼ばれます。隠元の語録や年譜なども全て明朝体で印刷されました。

明朝体の文字『隠元禅師語録(部分拡大)』 国立公文書館蔵

印刷

日本国内に仏教経典の集大成である一切経の版木が無いことを残念に思い、版木の製作を志していた鉄眼は、寛文9年(1669)、隠元より明朝版大蔵経を贈られ、版木の作成を開始しました。初版は延宝6年(1678)に完成し、鉄眼一切経または黄檗版大蔵経と呼ばれています。6万枚にものぼる版木を保管し印刷する場所として建立された萬福寺塔頭・宝蔵院では、今なお大蔵経の木版印刷が行なわれ全国の仏教寺院に提供されています。

宝蔵院での木版印刷の様子。
鉄眼一切経の版木は重要文化財。

新しいものに
「隠元」や「黄檗」とつける

「インゲン豆」や「隠元頭巾」、「隠元帽子」、「隠元やかん」、「隠元ふとん」、「隠元豆腐」、あるいは「黄檗料理」、「黄檗いり出」、「黄檗もち」など、目新しいものに、「隠元」を付けて「隠元○○」や、「黄檗」を付けて「黄檗○○」と呼ぶ事が流行りました。

黄檗料普茶式の項に「黄檗饅頭」の字が見える。
『料理早指南』より抜粋
(人間文化研究機構国文学研究資料館蔵 CC BY-SA)

もしも長崎が、隠元や黄檗文化の請来に積極的に取り組まなかったら、今日の豊かで多様な日本文化はありえなかったのかもしれないね。