
長崎学WEB学会
2つの「文化五年 長崎市中明細帳」
その作成年代は? (2)
2つの市中明細帳による長崎市中の人口
前回、文化 5(1808)年の市中明細帳に2つあり、その数値に相違があることを指摘しました。旧長崎市立博物館蔵(史料1)と県立長崎図書館旧蔵(史料2)ですが、その相違点を1つ挙げると、市中の人数(人口統計)です。
出典 総人数 総竈数 人家 桶屋町人数(男・女)
史料1辰年 30,006人 10,143竈 12,096軒 481人(240・241)
史料2辰年 27,381人 8,978竈 10,840軒 348人(193・155)
出典 総人数 総竈数 人家 桶屋町人数(男・女)
史料1辰年 30,006人 10,143竈 12,096軒 481人(240・241)
史料2辰年 27,381人 8,978竈 10,840軒 348人(193・155)
この表を見てもらうと、同じ文化5(1808)年に作成されたという文化 5(1808)年 桶屋町宗旨改帳記載のある市中明細帳ですが、総人数で3000人近くの差があります。同じ辰年ではあってもまったく時期の違うものだということがわかります。では、それはいつの統計か?
この時期を確定させる史料としては、桶屋町の人別統計が役に立ちました。桶屋町の乙名であった藤家に伝わる宗門改帳は寛保2(1742)年から文久4(1864)年まで残っています。それには年ごとの桶屋町の総人数が記されているのです。
この時期を確定させる史料としては、桶屋町の人別統計が役に立ちました。桶屋町の乙名であった藤家に伝わる宗門改帳は寛保2(1742)年から文久4(1864)年まで残っています。それには年ごとの桶屋町の総人数が記されているのです。

2つの市中明細帳の作成年代は?
確認してみると、史料1辰年の桶屋町人数は、文化5(1808)年辰年の宗旨改帳記載の人数とまったく同じであり、この辰年は文化5年で間違いありません。それより133人も少ない史料2の辰年はいつなのでしょう。
ところが、史料2に記された348人という桶屋町の人数が、現存する宗旨改帳には見当たらず、確定することができません。ただし、想定はできるようです。
桶屋町の総人数が400人を割ったのは天保8(1837)年が最初です。その後、ずっと減少して幕末を迎えます(『新長崎市史』第2巻近世編p155も参照)。その人口動態を考慮すると、1840年代以降であると思われます。残念なことに、幕末の10年間ほど(嘉永5(1852)年~文久2(1862)年)宗旨改帳が残されていないのですが、その間の辰年を探すと安政3(1856)年しかありません。
以上のことから、史料2の辰年は安政3(1856)年だと考えられるのです。史料2の市中明細帳の巻末には文化 5(1808)辰年に作成された記載がありますが、これはもともとの市中明細帳作成の経緯を記したもので、人数や竈数等の調査年の辰年とは時期が違っていたのです。
そうすると、史料1と2の市中明細帳に記された辰年の数値内容は、文化年間から幕末に至る48年の差があることになります。各町の記載内容を詳細に比較すると、約50年間にわたる町ごとの変化の様子がわかるかもしれません。
史料2、すなわち「長崎市中明細帳 文化五年 内町/外町」(県立長崎図書館旧蔵・長崎歴史文化博物館蔵13/99-2/1,2)の内容を検討する場合には注意だということになります。
ところが、史料2に記された348人という桶屋町の人数が、現存する宗旨改帳には見当たらず、確定することができません。ただし、想定はできるようです。
桶屋町の総人数が400人を割ったのは天保8(1837)年が最初です。その後、ずっと減少して幕末を迎えます(『新長崎市史』第2巻近世編p155も参照)。その人口動態を考慮すると、1840年代以降であると思われます。残念なことに、幕末の10年間ほど(嘉永5(1852)年~文久2(1862)年)宗旨改帳が残されていないのですが、その間の辰年を探すと安政3(1856)年しかありません。
以上のことから、史料2の辰年は安政3(1856)年だと考えられるのです。史料2の市中明細帳の巻末には文化 5(1808)辰年に作成された記載がありますが、これはもともとの市中明細帳作成の経緯を記したもので、人数や竈数等の調査年の辰年とは時期が違っていたのです。
そうすると、史料1と2の市中明細帳に記された辰年の数値内容は、文化年間から幕末に至る48年の差があることになります。各町の記載内容を詳細に比較すると、約50年間にわたる町ごとの変化の様子がわかるかもしれません。
史料2、すなわち「長崎市中明細帳 文化五年 内町/外町」(県立長崎図書館旧蔵・長崎歴史文化博物館蔵13/99-2/1,2)の内容を検討する場合には注意だということになります。
【長崎文化振興課 山口保彦】