長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
「崎友会」と「長崎人会」のこと
Two Associations of People from Nagasaki: Kiyu-kai and Nagasaki-jin-kai
梅屋庄吉と長崎・崎友会
『崎友会写真帖』明治11(1878)年に東京で結成された「崎友会」
一つは明治44(1911)年に発行された非売品の本『崎友会写真帖』です。伊東巳代治の題辞と、明治26(1893)年に記された福地源一郎の序文が付されています。その序文によると「明治十一年冬、長崎出身の諸士偶然松源楼に会したるに始まり継続して今日に至れり」とあります。長崎を出て東京で活躍する人たちが集まり、会合を重ねていったようです。写真帖には福地、伊東はもとより、中村六三郎(東京商船学校長)、巨智部忠承(地質学者)など、合計120名の肖像写真が掲載されています。会の詳細な活動内容などについては不明ですが、同郷人の親睦団体だったと思われます。
『崎友会日誌』 長崎市内で創立された「長崎人会」
もう1つは『崎友会日誌』。明治37(1904)年から昭和19(1944)年までの長崎における活動が記されています。
昭和 6年6月実施した物故者会員を追悼する施餓鬼の祭文によると、太平の世に甘んじ軽薄になった風潮を嘆き、世の悪習を正すために叱咤激励したいという趣旨で長崎の財界人が集まった会のようです。倉場富三郎もメンバーの一人です。
具体的には、企業経営者など、趣旨に賛同する人たちが、会費を集め、それを基金として、債券購入なども行い、公益事業や有能な若者の奨学資金に活用していました。年に数回、例会を開き、郷土の発展策等について談話したり、有識者を招き講演や座談会、郷土史の学習をおこなったりもしていました。(続く)
Umeya Shokichi, Nagasaki, and Kiyu-kai
『崎友会写真帖』明治11(1878)年に東京で結成された「崎友会」
一つは明治44(1911)年に発行された非売品の本『崎友会写真帖』です。伊東巳代治の題辞と、明治26(1893)年に記された福地源一郎の序文が付されています。その序文によると「明治十一年冬、長崎出身の諸士偶然松源楼に会したるに始まり継続して今日に至れり」とあります。長崎を出て東京で活躍する人たちが集まり、会合を重ねていったようです。写真帖には福地、伊東はもとより、中村六三郎(東京商船学校長)、巨智部忠承(地質学者)など、合計120名の肖像写真が掲載されています。会の詳細な活動内容などについては不明ですが、同郷人の親睦団体だったと思われます。
『崎友会日誌』 長崎市内で創立された「長崎人会」
もう1つは『崎友会日誌』。明治37(1904)年から昭和19(1944)年までの長崎における活動が記されています。
昭和 6年6月実施した物故者会員を追悼する施餓鬼の祭文によると、太平の世に甘んじ軽薄になった風潮を嘆き、世の悪習を正すために叱咤激励したいという趣旨で長崎の財界人が集まった会のようです。倉場富三郎もメンバーの一人です。
具体的には、企業経営者など、趣旨に賛同する人たちが、会費を集め、それを基金として、債券購入なども行い、公益事業や有能な若者の奨学資金に活用していました。年に数回、例会を開き、郷土の発展策等について談話したり、有識者を招き講演や座談会、郷土史の学習をおこなったりもしていました。(続く)