Two Associations of People from Nagasaki: Kiyu-kai and Nagasaki-jin-kai

Umeya Shokichi, Nagasaki, and Kiyu-kai [2]

「崎友会」に改名

この「長崎人会」が昭和2(1927)年2月に、新しく「崎友会」と改称することになりました。改名のきっかけとなったのが、「東京崎友会」でした。

前年の大正15(1926)年4月に、全国特産品陳列会見学のため、「東京崎友会」のメンバーが久しぶりに帰郷することになり、「長崎人会」としては、その例会を繰り上げて歓迎会を催すことになりました。

4月25日迎陽亭において開催された歓迎会の参加者は、「東京崎友会」5名(巨智部忠承、横山貞嗣、城後信吉、吉野又四郎、西川忠亮)と「長崎人会」24名の計29名でした。なお、欠席者13名が記されていますので、このときの「長崎人会」会員は37名ということになります。

この歓迎会に関する『崎友会日誌』の記録は、事務的な会の記録としてだけではなく、臨場感にあふれ、その様子が手に取るように伝わってくる文章でしたので、原文を紹介します。

「会場にはセイラエン大旗小旗、ネンガラ、凧、ヤダモン、ペーロン模型等を飾付け大に長崎気分を発揮し、先づ崎友会諸氏の気分を昔に戻す。・・・・中略・・・・余興場の幕開かるれば、盛装の支那美人表れ支那楽に満場を唖然たらしむ、席は乱れぬ、杯盃は飛びぬ、主客蕩然として夢の国に遊ぶの感あるの時、銅鑼の音、太鼓の響きと共、長崎独特の蛇踊は始まる、或は緩に或は急に一上一下狂ひ舞ふ様、壮又快なり。酔は廻れり、興趣はソヽラレたり、主客黙座するに堪えず高見、脇山、両老の十八番丸橋忠弥を皮切りに隠芸続出し止まるを知らざるの有様なりき。午後十一時を終ぐる半時間、浅田幹事の崎友会の万歳、西川忠亮氏の長崎人会万才の主唱を以て閉会解散せり」

まさに長崎らしい大盛会の宴会となったようです。

この歓迎会の席上で、「東京崎友会」の西川忠亮氏が「長崎市の長崎人会を中心として各地各方面に散在する長崎市出身者団体の連絡統一を計りたき希望を述べて」挨拶としていました。それを受けて、「先づ連絡機関として東京及長崎に事務所を置ける事」が満場一致で決定され、長崎の事務所を高見松太郎氏宅、東京事務所を西川忠亮氏宅に設けることになりました。

歓迎会から10ヶ月後の昭和 2(1927)年2月の例会で、新たな会の名称が議題となりました。議論百出という状態で賛否両論あったようですが、最終的に採決によって「東京崎友会」に合わせて「崎友会」と改称されました。こうして明治11(1878)年に結成されていた東京在住の長崎市出身者の「崎友会」と、地元長崎で活動していた「長崎人会」の連絡が密に取られるようになり、新しい「崎友会」ができあがりました。この歓迎会の盛り上がりが、在京長崎人と地元を結ぶきっかけを作ったのでした。

梅屋庄吉と「崎友会」

梅屋庄吉が「永代日記」に記す「㟢友会」のメンバーが梅屋邸を訪問したのは、まさにこの歓迎会の1ヶ月後、大正15(1926)年5月のことでした。おそらく同じと考えていいのではないでしょうか。とすれば、長崎での歓迎会の盛り上がりや、今後の会の発展について、話があったことでしょう。惜しむらくは、その後の「崎友会」と梅屋の関係については、記述がありません。

東京「崎友会」の事務局西川忠亮氏

西川忠亮氏(『崎友会写真帖』より)

なお余談ですが、東京の「崎友会」の事務局を引き受けた西川忠亮氏は西川如見の御子孫で、東京築地に印刷インキ、印刷機器輸入等に関わる会社を設立していました(西川求林堂)。平野富二が設立した東京築地活版製造所の株主で役員を務めていたこともあり、明治31(1898)年には西川如見の著書の活字本を出版しています。また、今も入手可能な岩波文庫の西川如見著『日本水土考・水土解弁・増補華夷通商考』等の校訂を担当された西川忠幸氏はその孫に当たります。

 

【長崎県文化振興課 山口保彦】