長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
不思議な地名「銅座跡」について調べる
A Survey on the mysterious Place Name “Doza-ato”
なぜ、銅座は「町」ではなく「跡」なのか? その2
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◎乙名 江戸時代の長崎の各町には乙名・組頭・日行使という町役人がいましたが、銅座跡にはこれらの役人はいたのでしょうか。前回引用した「長崎歳時記」に「町々の乙名より両人つゝ掛りを兼勤」とあるように、銅座跡の乙名は住人から選ばれるのではなく、他町の乙名が兼務していたようです。長崎の乙名は自分の町の乙名職以外にも、「加役」といって別の職務を持っていました。例えば、長崎会所目付や旅人改方、盗賊方などがこれにあたります。また、出島乙名や唐人屋敷乙名などのように、特殊な町・地区の乙名職も加役でした。銅座跡掛(掛=係の意味)の乙名もこの加役の一つだったのです。次の(画像2)は銅座跡の絵図です。これを見ると「乙名詰所」つまり乙名の勤務場所も設けられていたことが分かります(宝暦5年(1755)設置)。ちなみにこの絵図には「稲荷」の文字も見えます。現在も続く「銅座稲荷」は江戸時代から存在していました。


◎日行使 日行使については「長崎町乙名手控」(『長崎関係史料選集』第4集p15)に「銅座跡日行使壱人」との記述があることから、その存在が確認できます。また「慶応三年(1867)諸伺留」に「銅座跡之儀者行事壱人勤」とあるので、日行使(行事)は銅座跡の住人から選ばれていたようです。
以上見てきたように、銅座跡の乙名・組頭は他町からの兼務、日行使は銅座跡の住人から選ばれており、長崎の各町に乙名・組頭・日行使という町役人がいたのと同様、銅座跡にもこれらの役人がいたことが分かりました。銅座跡は組織の面でも他町に準じた存在だったのです。(つづく)
Why Not “Doza-machi (Copper Foundry District)” But “Doza-ato (Copper Foundry Remains)”? (2)
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◎乙名 江戸時代の長崎の各町には乙名・組頭・日行使という町役人がいましたが、銅座跡にはこれらの役人はいたのでしょうか。前回引用した「長崎歳時記」に「町々の乙名より両人つゝ掛りを兼勤」とあるように、銅座跡の乙名は住人から選ばれるのではなく、他町の乙名が兼務していたようです。長崎の乙名は自分の町の乙名職以外にも、「加役」といって別の職務を持っていました。例えば、長崎会所目付や旅人改方、盗賊方などがこれにあたります。また、出島乙名や唐人屋敷乙名などのように、特殊な町・地区の乙名職も加役でした。銅座跡掛(掛=係の意味)の乙名もこの加役の一つだったのです。次の(画像2)は銅座跡の絵図です。これを見ると「乙名詰所」つまり乙名の勤務場所も設けられていたことが分かります(宝暦5年(1755)設置)。ちなみにこの絵図には「稲荷」の文字も見えます。現在も続く「銅座稲荷」は江戸時代から存在していました。


◎日行使 日行使については「長崎町乙名手控」(『長崎関係史料選集』第4集p15)に「銅座跡日行使壱人」との記述があることから、その存在が確認できます。また「慶応三年(1867)諸伺留」に「銅座跡之儀者行事壱人勤」とあるので、日行使(行事)は銅座跡の住人から選ばれていたようです。
以上見てきたように、銅座跡の乙名・組頭は他町からの兼務、日行使は銅座跡の住人から選ばれており、長崎の各町に乙名・組頭・日行使という町役人がいたのと同様、銅座跡にもこれらの役人がいたことが分かりました。銅座跡は組織の面でも他町に準じた存在だったのです。(つづく)







