A Survey on the mysterious Place Name “Doza-ato”

Why Not “Doza-machi (Copper Foundry District)” But “Doza-ato (Copper Foundry Remains)”? (3)

 

不思議な地名「銅座跡」について調べる3回目。今回は、銅座跡が長崎の町の中にどのように位置づけられていたかを見てみましょう。
 
◎踏み絵 長崎の人々はキリスト教徒でないことを示すため、毎年正月に踏み絵をおこなっていました(踏み絵をおこなうことを「絵踏」ともいい「踏み絵」は単に絵をさす場合もあります)。踏み絵をおこなう日はそれぞれの町で決まっていて、長崎の各町は4日から8日にかけて実施されました。一方、銅座跡の場合は長崎の各町が全て終わった翌日の1月9日に実施されました(「長崎町乙名手控」『長崎関係史料選集』第4集p51)。また「犯科帳」には「銅座跡帳面」(第22冊(16)ほか)という記述も見られますので、おそらくは、住人の台帳としての宗門改帳も作成されていたと思われます。
 
◎異船渡来之節御備場所 文化5年(1808)イギリス軍艦が長崎港に侵入したフェートン号事件をきっかけとして、非常時に長崎代官や町年寄の指揮の下、各町が守備する場所が決められました(「惣町明細帳諸雑記」『長崎関係史料選集』第2集p66)。銅座跡にも、他町と同様に割り当てがあり、鉄砲方の町年寄・高木家の下、岩瀬道御備所に、そして、町年寄・高島四郎兵衛家の下、出島に詰めることになっていました。その1に(画像1)として銅座跡の幟を示しましたが、同じ資料には他にも銅座跡の提灯や幟、法被が載っています(画像3)。「御鉄砲方附」という文字が見えますので、高木家の下、岩瀬道御備所に詰める際に用いたものだったのかもしれません。

 

 

◎竈・竈銀 長崎の町には貿易利銀が配分されていました。そのうち、家屋敷を持たない借屋人の世帯を「竈(かまど)」といい、竈毎に配分される貿易利銀を「竈銀」といいます。竈数については、その1の(表1)(表2)で示したとおり、銅座跡にも数字が割り当てられており、実際に配分される1竈あたりの竈銀の額も他町と変わりませんでした。ちなみに文化5年の1竈あたりの配分額は約銀34匁でした(ここから諸経費が引かれるので、手取額はもっと少ない)。長崎の各町の竈数は年によって違いがありましたので、長崎全体の竈の総数も一定ではありませんでした。一方で、長崎全体に配分される竈銀の総額は銀345貫目(345,000匁)と固定されていましたので、1竈あたりの配分額は「年々増減有之」つまり、年によって増減がありました(「長崎市中明細帳」)。
 
◎箇所・箇所銀 家屋敷を持っている家持の地所を「箇所」といい、箇所毎に配分される貿易利銀を「箇所銀」といいます。そのため長崎の場合、家持町人のことを「箇所持」町人ともいいます。この箇所ですが「長崎市中明細帳」を見ると、銅座跡には箇所数の項目そのものがありません。では、銅座跡には家持がいなかったかというと、そうではありません。「犯科帳」を見ると「銅座跡家持」という記述がしばしば出てきます(第124冊(69)ほか)。銅座跡には家持はいますが、箇所持はいない。これはどう考えたらよいのでしょうか。
 
箇所数は、江戸時代前期の寛文12年(1672)に設定されたといわれていますが、その後幕末までの約200年間、ほぼ数字に変化がありません。宝暦元年(1751)、江戸町の箇所を6箇所増やすよう町人たちから願が出され、それを長崎奉行所が許可したのが唯一の例外です(「惣町明細帳諸雑記」『長崎関係史料選集』第2集p8)。つまり、この箇所数、本来の意味としては家持の地所の数ですが、実際は箇所銀を配分する際の単位のようなものです。箇所数が増えると、その分、配分する箇所銀の総額が増えるわけで、長崎奉行所は箇所数が増えることを避けていたと思われます(逆に、箇所銀の総額が固定されていて、箇所数が増えると1箇所あたりに配分される箇所銀の額が減るので、箇所持町人側からの反対があった可能性も考えられます)。そのため、延享2年(1745)鋳銭所が廃止されて以降、人家が建ちはじめた銅座跡には、新しく箇所が設定されることはなかったと思われます。では、銅座跡の家持に対して貿易利銀は配分されなかったのでしょうか。これについては「銅座跡之儀者町並ヶ所地と違、地主とも之儀ニ付ヶ所被下銀無之、竈銀被下置候」(銅座跡は他町のヶ所(箇所)地と違い、地主(家持)たちに箇所銀ではなく、竈銀が配分されます「慶応三年(1867)諸伺留」)と、銅座跡の家持に対しては竈銀が配分されていたようです。
 
歴史に「たら、れば」は禁物ですが、唯一、箇所が増えた宝暦元年に、銅座跡にも箇所が設定されていたならば、江戸時代のうちに「銅座町」と呼ばれていたかもしれません。(つづく)

 

【長崎県文化振興課 石尾和貴】