長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
勝田館主人・田中喜平氏のこと (その1)
On Tanaka Kihei, the master of Kantsutakan (1)
『哀思録』3冊
●弔電を掲載した箇所には日本人の名前も多数ありましたので、もしや・・・と思って確認してみると、ありました。弔電の最後に名前が記されていたのは「梅屋庄吉」でした。 「中山先生為貴国革命之大恩人亦実世界的之偉人今一朝長逝洵為貴国之不幸亦実東洋全体之不幸也嗚呼痛哉謹表弔意而佈微忱於茲東京梅屋庄吉再拝」 ・・・孫中山先生は中国革命の大恩人であり、世界的偉人である。今朝長逝したことは中国にとっても東洋全体にとっても不幸なことである・・・・と梅屋は弔意を打電していました。
●しかし、2011年の特別企画展では、この資料について展示されませんでした。 今回、ここで取り上げるのは、その寄贈者に関することです。少し調べてみると、『哀思録』以外にも寄贈資料があり、長崎出身だということもわかりました。どんな人物だったか若干わかることもあり、資料の紹介も兼ねて報告します。 『哀思録』には巻末に寄贈者として「田中喜平」の名前が記されていました。さらに、弔電を送った日本人のなかにも同じ名前がありました。 (続く)
Three Volumes of Aisilu
●弔電を掲載した箇所には日本人の名前も多数ありましたので、もしや・・・と思って確認してみると、ありました。弔電の最後に名前が記されていたのは「梅屋庄吉」でした。 「中山先生為貴国革命之大恩人亦実世界的之偉人今一朝長逝洵為貴国之不幸亦実東洋全体之不幸也嗚呼痛哉謹表弔意而佈微忱於茲東京梅屋庄吉再拝」 ・・・孫中山先生は中国革命の大恩人であり、世界的偉人である。今朝長逝したことは中国にとっても東洋全体にとっても不幸なことである・・・・と梅屋は弔意を打電していました。
●しかし、2011年の特別企画展では、この資料について展示されませんでした。 今回、ここで取り上げるのは、その寄贈者に関することです。少し調べてみると、『哀思録』以外にも寄贈資料があり、長崎出身だということもわかりました。どんな人物だったか若干わかることもあり、資料の紹介も兼ねて報告します。 『哀思録』には巻末に寄贈者として「田中喜平」の名前が記されていました。さらに、弔電を送った日本人のなかにも同じ名前がありました。 (続く)