Report on the Excavation of the Presumed Grave of Miguel Chijiwa (2)

Report on the Excavation of the Presumed Grave of Miguel Chijiwa (2)

 

第1次発掘調査後おこなわれたレーダー探査により、基壇の南側に墓坑と思われる反応が明らかになりました。これらを踏まえて第2次調査の目的は、この地下遺構と思われる部分の発掘調査を中心とし、以下の3点に定められました。
 
 (1)供養碑ではなく、埋葬をともなう「墓」であることの確認
 
 (2)夫婦か個人墓かの特定、および埋葬者の特定につながる遺骨の確認
 
 (3)埋葬者の特定につながる副葬品、およびその信仰を証明できる遺物の確認

 

 

レーダー探査結果(NPO法人 iさいとによる予備調査)

 

 

〔発掘現場のようす〕

 
 

 2016年9月初旬、淺田氏に縁の深い自證寺のご住職によるお祓いの後、別府大学文学部田中祐介教授の指導のもと、㈱九州文化財研究所と地元ボランティアグループにより第2次調査は開始されました。しかし、調査は予想外の展開を迎えることになりました。墓石前の発掘開始後、事前のレーダー調査では確認できなかった「れき層」が現れたのです。れきの大きさは、こぶし大から人の頭ほどもあり、基壇内部の広範囲におよび、深さは基壇上部から50㎝以上に達すると推測されました。この思いがけない「れき層」の出現により、調査期間を延長したものの最終的に浅田氏を中心とする実行委員会の判断により、中断というかたちで今回の調査はいったん幕を閉じることになりました。その理由は、れき層をこのまま掘り進めると、基壇崩壊・墓石倒壊のおそれがあることと、れき層の性格を明らかにしないまま調査を進めると、この調査自体の本来の目的を失ってしまうおそれがあるということです。そのため今回の調査で研究部門の統括をおこなった大石一久氏の言葉を借りれば「継続するための中断」が決定されたのです。

 

 

〔れき層が露出した墓石前〕

 
 

 このように今回の発掘調査では、墓坑まで到達することはできなかったものの、大きな収穫がありました。それはこの墓所が1630年代の構築以降、数度にわたり補修されていたということです。特に明治20年代に大規模な改修が行われていたことがわかりました。大石氏によると「一般的に倒れた墓石を後に立て直したりすることは少ない。よって数度にもわたって墓所の修築がおこなわれているとすれば、そこに埋葬されているのは相当重要な人物であった」と考えられるということです。
 
最後に発掘の総指揮を執られた浅田昌彦氏に2回の調査を終えての心境をお聞きしました。

 
 

 

〔お祓いにのぞむ浅田昌彦氏〕

 
 

 「千々石ミゲルの墓石発見と大々的に報道された2004年当時、私はこの墓所が先祖によって護り続けられてきた墓所であったことは全く知りませんでした。それだけにご連絡を受けて現地に伺った時の衝撃は大きいものでした。それから12年、今回の発掘調査の目的は、淺田家に伝わる法号誌に『名不知。何某之子共不相分(名前は知らず、だれの子とも分らず)』と記載されながらも、先祖が代々お祀りしてきた方は誰なのか、それを明らかにすることでした。
 
一回目の発掘では墓石が当時の領主級の墓と同等の石組基壇の上に建立されていることがわかりました。今回の調査では、その石組基壇に何度かの修復跡が発見されました。未だ埋葬者を千々石ミゲルと断定する証左は見つかっていませんが、建立(1630年代)当時のみならず、それ以降も継続的に護られ、修復され、大切にされてきた墓所であり埋葬者であることがわかりました。
 
 埋葬者特定のための調査にはさらに数倍の期間と工数が必要であることがわかりましたが、ここに眠る方がどなたかを明らかにしたいという想いはさらに強まっています。今後の継続調査を希求して、これまで支援いただいてきた多くの皆さまからのご意見ご指導をいただきながら、これからの進め方を検討していきたいと思っています。」
 
 
 
長崎県文化振興課 橋本正信